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山田高明作「探偵小笠原裕美シリーズ2 たった一つの計算外」前編

*私の中にある主人公のイメージに近いということで、女優の仲間由紀恵さんの写真を拝借させていただきました。

短編ミステリーです。やや長めなので、前・後編に分けました。

今回は、果たして名探偵小笠原裕美は「完全犯罪」のトリックを突き崩すことができるのか、というお話です。

始める前に、簡単に登場人物を紹介させていただきます。

主人公の小笠原裕美

探偵会社「インテリジェント・ヘッドクォーター(IHQ社)」創業者兼CEO。年齢は本人いわく秘密。元警察庁のキャリア。天才的な頭脳と推理力、そして高邁な精神の持ち主。行動派で自ら現場の先頭に立つ。ただし恋愛指数だけはゼロで、未だ彼氏なし。

鏡義雄(通称・ヨシオ)

二枚目半だが、頼りがいのある青年探偵。通常の調査はもとより、変装や潜入なども得意。万能タイプ。ひそかに裕美に思いを寄せている。

藤井源之助(通称・源さん)

元警視庁刑事。退職後の第二の人生としてIHQ社を選んだ。聞き込み・尾行など足を使った調査のプロ。江戸っ子で恐妻家。裕美のことを「お嬢」と呼ぶ。

風間雪(通称・お雪)

元スケバン。陸上自衛隊出身。スポーツ万能で各種格闘技のプロ。スポーツカーやバイクの運転もプロレーサーなみ。長身で容姿はモデル級。調査のためにホステスやキャバクラ嬢になることもしばしば。口が悪く、裕美のことを「カシラ」と呼ぶ。

大塚信孝

IHQ社の創業メンバーで専務。裕美が事務方を一任している人物。常に冷静沈着で、総務全般を取り仕切る。堅物なのが玉に傷。経営面などで裕美に諫言もする。

三上サクラ

事務・経理を担当するが、IT技術者でもある。理工学部卒のメガネっ子。

北王子英明

警察庁時代の裕美の元上司。茨城県警察本部長を経て、警察庁長官官房総括審議官。階級は警視監。今でも裕美のよき相談相手。実は警察組織の革新官僚グループに属し、裕美を警察と探偵業界の橋渡し役にすべく、前々から画策している。

不動道直

探偵業界の大御所。調査業者の業界団体である社団法人全国調査業協会の元理事長で、裕美の後見人。富豪。戦中派で今も隠然たる力を有する老人(*今回もまだ登場せず)。



探偵小笠原裕美シリーズ2 「たった一つの計算外」前編

河野悦子はじっと息子の目を見つめた。

正志は悔し涙にまみれていた。かつて少年時代、許されざる罪を犯した息子。出所後は真面目に働きつづけ、すっかり改心したはずだった。だが、三十代後半の立派な青年に成長したと思った矢先、またしてもガラス越しに息子を見る羽目になろうとは…。

親子の間を仕切る透明な壁は、今度こそ永遠のものかもしれなかった。判決が出てしまえば、彼女が生きている間は、もはや二度と触れあうこともできないだろう。

「お袋、お袋…」正志が立ち上がり、ガラスにすがった。「おれはやっちゃいないっ。信じてくれ、おれはちゃんと改心したんだっ」

その声は横浜拘置所の面会室内に響いた。

「正志っ。本当に、本当に、やっていないんだね?」

「やっていないよォ」正志が泣き叫んだ。「おれは絶対に殺してない…。誰かに嵌められたんだ…。信じてくれ、お袋だけはおれを信じてくれ…」

悦子は身を乗り出し、息子の濡れた眼を覗き込んだ。その目は必死で訴えていた、自分は無実だと。正志は嘘をつく子ではなかった。少年時代に殺人という最悪の罪を犯した時でさえ、それを率直に認めた。貧しかったせいで、自分はろくに息子に構ってやれなかったが、それでも「嘘だけはつくな」と教えてきたつもりだ。

悦子は確信し、立ち上がった。

「おまえが昔から嘘だけはつけない子だってことは、母さんが一番よおく知ってる!」大きく頷いた。「よし、分かった。母さんは、何があってもおまえを信じ続けるから。待ってなさい。おまえを助けるために、母さんはできる限りのことをするから!」

老いた母親は拘置所を出ると、まっすぐ駅に向かった。道中、目鼻からハンカチを離せなかったが、それでも足取りは自分でも驚くほどしっかりしていた。

それからというもの、悦子は考えつづけた。生きている間に唯一の肉親にさえ二度と会えないくらいなら、正直、死んだほうがましだとすら思っていた。しかし、死ぬ前にやることができた。その義務感が彼女を生かし、動かした。タイムリミットは第一審の判決が出るまでの期間だ。直観的に控訴はほとんど無駄だろうと感じていた。

正志は無実だ。なんとしても息子を牢獄から救わねばならない。だが、どうする? 警察はむろんあてにできない。弁護士さんに頼もうか? しかし、どう考えても弁護士の領分ではないような気がした。というのも、デスクワークではないのだ。実際に足を動かして調査してくれる人が必要なのだ。どうしたらよいのか、しばらく考えあぐねた。

その時だった。ふいに閃いた。以前、人づてに、とてもいい探偵事務所が東京にあると聞いたことがあった。善は急げだ。さっそく話を聞かせてくれた人に頼みこんで、その会社を探してもらった。すぐに分かった。横文字の奇妙な名前の会社だった。

直ちにアポを入れ、そこを訪れた。事務所は秋葉原にある小さなビルの二階にあった。オフィス内は明るく、趣味のよさを感じさせるスタイリッシュな作りだった。最初に応対に出た若い事務員さんも、実に優しそうで品のある女性だった。

応接コーナーで待っていると、スーツを着た社の代表が現れた。その瞬間、悦子は目を奪われた。流れるような黒髪をした美しい女性だった。とりわけ際立っているのは、大きくて澄んだ瞳だ。それは強靭な意志と知性、そしてなによりも誠実さを宿していた。

一目見た瞬間、「この人だ」と悦子は確信した。

この女性こそ最後の頼みの綱に違いない…そう思った悦子は、堰を切ったように悩みを打ち明けた。思った通り、女性の態度は実に親身だった。傾聴するだけでなく、時として我が身のことのように同情してくれた。とても商売のためだけとは思えなかった。

「お気持ちはよく分りますわ」そう言って、女性は何度も頷いた。

悦子は一通り事情を説明し終えると、深々と頭を下げた。それから椅子を押しやり、床に土下座した。

「ちょ、ちょっと、困りますわ」女性がひどく慌てた。

「全財産を差し出しても結構ですから」額を床に押し付けた。「なにとぞ、なにとぞ、息子の冤罪を晴らしてやってくれないでしょうか? どんなに料金が高くても、一生をかけて返済していきますので、どうかこの通り、お願いします…」

気が付けば、両目から涙が止まらなかった。

調査に先だって、小笠原裕美は社内で会議を開いた。

事件そのものはマスコミでも取り上げられ、それなりに関心を集めていた。元ムショ仲間を毒殺したとかで、一部の週刊誌ではトップ扱いで報じられていた。

犯人の河野正志(三六歳)は強盗殺人容疑ですぐに逮捕され、すでに送検済みだ。今は神奈川県の横浜拘置所にいる。警察としてはとうに終わった事件だ。

コネで入手した警察の資料とマスコミの報道とをあわせると、毒殺事件の詳しい内容が浮かび上がってきた。と同時に、今回の依頼の難解さも。

事件の概要はこうだ。被害者は運送業アルバイトの宮本進(三七歳)。神奈川県K市のアパートで独り暮らしをしていた男性だ。その彼がある日を境に突然、出勤してこなくなった。しかも、営業所のものがいくら電話をかけても繋がらない。アルバイトとはいえ、勤務態度が至って真面目であったために、不審に思った主任が数日後に彼のアパートを訪ねた。すると、部屋の電力量メーターはぐるぐると回っているのに、ドアポストにチラシなどが溜まっている。何やら様子がおかしいということで、主任はアパートの管理会社に掛け合い、ドアを解錠してもらった。案の定、中では彼が変死していた。

神奈川県警捜査一課の某係が捜査を担当した。遺体を調べたところ、某月某日の夜十時半ごろ、毒物を飲んで急死していたことが判明した。使われた毒物は青酸化合物。しかも、状況からみて、何者かに毒殺された可能性が高かった。死亡推定時刻の直前、隣と真下の住人が同部屋で言い争うような声と、ドタバタという物音を耳にしていた。

捜査をはじめてすぐに容疑者が浮かんだ。それが千葉県I市の自動車部品工場で働いていた河野正志だった。捜査当局がふたりに何か繋がりはないか調べたところ、両者は同じ少年院の出身であることが分かった。わずか数週間ではあるが、収監期間もダブっており、この頃に知り合ったものと思われた。

河野正志の犯行を証明する証拠は、なんと六つもあった。

第一は、テーブルの上に置かれていたコップである。ちょうど被害者が倒れた場所とは反対側に位置しており、毒殺に使われたコップと同型であった。鑑識はそこから河野と宮本の指紋を発見した。ただし、べたべたとたくさん付着していたのは前者のもので、被害者の指紋痕はコップを一度握ったきりという状況を表していた。口をつけたところからは河野のDNAのみが検出された。河野の指紋に関していえば、残されていたのはこのコップの表面だけで、他はことごとくハンカチなどで意図的に拭き取られた痕跡があった。

一方、床に倒れていた被害者の手から滑り落ちたと思われるコップからは、毒物のほかに当人の指紋とDNAも検出された。中に入っていたと思われる液体は焼酎であり、テーブルの上に載っていた銘柄と同じ成分であった。卓上には他にもビールやツマミ類などがあり、それらは司法解剖の際に確かめられた被害者の胃の内容物とも一致した。

こういった現場の状況から、捜査当局は「事件当夜、ふたりで酒盛りをしていた」と推測した。二つのコップは被害者の持ち物で、酒盛りを始める際に被害者がダイニングのケースから取り出したものだろう。胃の消化具合から推察するに、飲み始めてから一時間強ほど経ったころ、ふたりは何らかの原因で言い争いになった。ドタバタという音からすると、掴み合いも少しはしたのかもしれない。いずれにしても、それから十数分後、被害者は飲み物にいきなり毒を入れられた。当然、顔見知りの犯行に違いない。

第二は、毛髪である。部屋からは被害者のもの以外に、数人の毛髪が発見され、その中には女性のものも含まれていた。加害者が座っていたと思われる椅子の周辺から発見された数本の毛髪を調べたところ、そのDNAが河野のものと一致した。

第三は、毒殺に使われた青酸化合物の出所である。成分分析の結果、まさに河野の勤める自動車部品工場で使用されていた青酸化合物と同じものであることが判明した。ちなみに、工場側は盗まれたことに全然気づいていなかった。

第四は、河野のケータイの通話記録である。死亡推定時刻の直後、被害者のアパートのすぐ近くで、それは電波を受信していた。発信元は工場の従業員寮の近くにある公衆電話だ。おそらく、知人が河野にかけたのだろう。時間帯は犯行の直後で、まさに現場から逃走しようとしていた時だったと思われる。姑息にも履歴では消されていたが、通信会社のほうの記録にはしっかりと残っていた。しかも、そのケータイは、捜査員が河野を逮捕した時に、本人がポケットに所持していたものであった。

第五は、河野の寮部屋にあった盗品である。従業員寮をガサ入れした際、押入れに不釣合いなスイス製高級腕時計があった。調べてみると、小売店に保証書の記録があり、署名者は宮本進とあった。つまり、宮本宅からの盗品だった。しかも、運送業の従業員によると、欠勤するまで被害者はいつもそれを自慢げに腕にはめていたという。

第六は、アリバイである。河野は当日、酒を飲んで熟睡していたと主張。本人の供述によると、前日の夜七時ころから草川という名の同僚と飲み始め、いつの間にか寝入ってしまったという。あまりに熟睡しすぎて、目が覚めたのは翌日の昼過ぎだったと主張。その間の記憶は曖昧で、いつごろ自分が寝入ったのかも覚えていないと答えた。一方、その同僚のほうは、刑事の質問に対して次のように答えた。

「たしかに河野さんとはしばしば飲んでいます。その日も一緒に飲みました。しかし、河野さんがすぐにゴロリと横になったので、一時間も経たないうちに自分の部屋に戻ったように記憶しています。その日、河野さんに関して覚えているのはそれだけです」

つまり、夜八時ごろから翌日の昼過ぎまで、アリバイが証明されなかった。

以上の六つの証拠から、捜査当局は河野正志を宮本さん毒殺事件の犯人と断定、逮捕に踏み切った。捜査は当初から、犯行が衝動的なものか、それとも事前に毒物を用意していたことから計画的なものか、あるいは動機は何かという点に絞られた。当局ばかりでなく、各種報道もすべて河野が犯人だという揺るぎない前提に立っており、真犯人の是非について関心を示すものはいなかった。他方、容疑者はあくまで犯行を否認し続けた。

捜査当局は留置期限いっぱいまで河野を締め上げたが、結局、彼は犯行を認めなかった。しかし、各種の証拠が豊富なことから、警察は自信をもって容疑者を送検した。

以上が事件のあらましである。

裕美は一通り説明を終えると、居並ぶ一同を見回した。

会議室のムードは冷め切っていた。彼女の目をまっすぐ見返してくるものは誰もいなかった。腕を組んで唸っていたり、宙を見ていたり、手元の資料を弄んでいたり…と、調査に対する熱意というものがまったく感じられない。専務の大塚などはメドゥーサに正視された男のように、先ほどから目を瞑って完全な彫像に化けている。

「いくら冤罪を晴らしてくれと言ったってねえ…」

ようやく藤井源之助が口火を切った。椅子の背に片腕を回している。彼の言葉はこの場の空気を代弁していたらしい。何人かが「そうそう」と小声で呟いた。

「でも、引っかからない?」裕美は元刑事に言った。「仮に河野正志が犯人だとして、どうして自分の目の前にあるコップの指紋だけ拭き忘れたのかしら?」

「そいつはですねえ、犯行直後の犯人ってやつは、通常の精神状態にありませんから、突拍子もないことをやらかしたり、ド忘れしたりするもんですよ、あっしの経験からいってもね」

いつもなら「爺さんの経験なんて当てになるかよ」と即座に突っ込みを入れるはずの風間雪だが、今回ばかりはなぜか同意の頷きを繰り返している。

「親馬鹿もここまでくると引いちゃうよな」

と彼女が言うと、藤井が「そうそう」と同意する始末だった。

裕美は、先日の依頼者の様子を思い起こした。収監されている息子を信じ、助けるために土下座までしてみせた母親。まさに涙の訴えだった。白髪の多い頭が、苦労の絶えなかったであろう彼女のこれまでの人生を偲ばせた。彼女は最後の救いを求めてIHQ社を訪ねてきたのだ。「親馬鹿」と片付けてよいものだろうか。

絶対に無下にはできない、と改めて裕美は思い直した。

「まだ決めてかかるのは早いわ」裕美はできるだけポジティブな笑みを作った。「とりあえず、私たちだけでも先入観は捨てましょう。ね、みんな」

「これだけ証拠が揃っていてもですか?」鏡義雄が手元の資料を掲げてみせた。「指紋とDNAの付いたコップとか、当人の髪の毛とか、当人の勤め先の毒物とか、当人のケータイが事件現場の近くで受信していたとか、そのケータイが逮捕された時の所持品だったとか、河野の部屋にガイシャの腕時計があったとか、当日のアリバイがないとか…」

「河野が犯人っていう証拠ばっかりだぜ」と藤井。

数個の頭が一斉に縦に振られた。鏡が資料から目を離した。

「社長。どう考えても、犯人はやっぱり河野正志ですよ」

あちこちで、「そうそう」という呟きと、やる気のなさそうなため息がもれた。

「やるだけ無駄、無駄…」風間が大きな伸びをし、あくびをかました。

完全に諦めムードがその場を支配していた。誰もが「今回は中止しよう」という裕美の言葉を待っていた。場が一瞬、静まり返った時だった。

裕美の中で何かが噴火した。突然、テーブルをぶっ叩いて立ち上がった。

「いいかげんにしなさいっ、あなたたち!」

気づけば、ありたっけの声で怒鳴っていた。みんなが驚いて一斉に彼女のほうを見上げた。

「あたしたちは誰のために働いているの? 普通の人々を助けるために仕事をしているんじゃなくて? あのお母さんは必死なのよっ。私たちの大切な依頼者なのっ。仮にこれが冤罪だったらどうするの? 無実の人が権力の手で抹殺されることになるのよっ。だからあのお母さんは、最後の頼みとしてあたしたちを頼ってきているんじゃない!」

再びテーブルをバンと両手で打った。

「だいたいねえ、あなたたち、どうしてそうも簡単に決めつけてしまのよ? なにはともあれ、自分の手で調べてみるのが本当の探偵じゃないの! ろくに調査もせずに最初から先入観や偏見で物事を決めつけてしまうなんて、探偵のやることじゃないわ! あなたたちは今日限り探偵を名乗る資格はないわ!」

手元の資料の角を机に叩きつけてそろえると、裕美は踵を返した。

真っ赤な顔をした裕美がプリプリしながら退室するや、その場にいたものたちが一斉に頭を寄せ合った。

「カシラが本気で怒ったところ、久しぶりに見たよ」

風間が口に片手を添え、小声で囁いた。ゴシップを切り出すときの共通のポーズだ。

「ああ、まったくハラハラしたぜ」藤井はしきりと食道のあたりを撫でていた。「お嬢は怒ると物凄く怖えんだよな」

鏡がむすっとした様子で腕を組んだ。

「あんまり不用意な発言はしないでくださいよ、おふた方。僕まで巻き添え食っちゃったじゃないですか」

「つうか、おめえも同罪だろ」と藤井。

「ひとりだけいい子ぶるんじゃねえぞ、義雄!」

大塚が銀縁メガネをつんと直すや、ため息をついた。まるで石像が突然、動き出したかのようだ。

「まったく、頑固な方ですからねえ、彼女は。まあ、当分、触らぬ神に祟りなしという姿勢でやり過ごすしかないでしょうな」

「ほらほら、その他人事みたいな言い方」風間が口を尖らせた。「専務も汚ねえじゃん。ずっと目を閉じてて、初めから他人のふりを決め込んじゃってさ」

「おやおや、心外な」堅物が珍しく怒った顔をした。「私は状況を客観的かつ大局的に判断するために、いつも冷静沈着でいるのをモットーとしているだけです」

「やれやれ」腕を組んだ藤井が首を傾げながらぼやいた。「そうやって専務がテフロン加工モードでいる時に矢面に立たされるのは、いっつもおれなんだよなあ…」

「あのねえ、藤井さん。そんなふうに自己犠牲に自己陶酔する癖、いいかげんにやめてくれません? 損な役回りを押し付けられているのは僕も同じなんですから」

「なんだと、てめえっ」藤井が腕組みを解いてテーブルに身を乗り出した。人差し指をピンと立てる。「だいたいなあ、今回、お嬢がキレちまったのは、やれ証拠がどうのこうのと、おめえが理詰めで追い込んだからじゃねえのか」

「つうか、爺さんも義雄に賛同してたじゃん」風間が横から突っ込む。

「僕が原因ですって?」鏡が大げさに肩をすくめた。「まさかあ! 風間さんと藤井さんの態度が悪いからでしょう? とくに風間さんの大あくびなんて…」

「あたしのせいだってのか?」風間が眼を剥いた。

「どう考えてもあなたのせいですっ」

鏡がきっぱり言うと、両者の目線がテーブルを挟んで火花を散らした。

「いや、私に言わせれば鏡君が一番悪い。社長がせっかく笑顔でわれわれの雰囲気を盛り上げようとしている時に、空気も読まずに冷や水を浴びせたのですから」

「石みたいに黙ってずっと会議をやり過ごしていた専務が、よくもまあ、人のことを言えたもんですね」

鏡の精一杯の皮肉に対して、大塚が余裕の冷笑で応じた。

「人のことをいっつもとやかく言っているのはおめえだろうがっ」

と吠えた藤井に対して、鏡がまた肩をすくめてみせた。パチンコのチューリップのように両手を開いてみせる様は、まるで相手をからかっているかのようだ。

「はて? 僕が何か間違ったことを言ったでしょうか?」

「でもさあ、思い出してみれば、最初に余計なことを言ったのは爺さんじゃん」

「な、なにをっ。おめえだって頷いていたくせに…」

また、やいのやいのと、言い合いになった。その場にいた誰もが、とにかく自分以外の誰かに責任を被せようと奮闘していた。まるで収拾がつきそうになかった。

「あ、あのう、みなさんっ」

それまで黙っていた三上サクラが、泣き笑いのような表情でもじもじしながら切り出した。一瞬、議論が止み、全員の視線が一斉に彼女に集中した。

「いいかげん、醜い責任の擦り付け合いはやめませんか。…ほほほ…」

(とは怒鳴ってみたものの…)

当の裕美自身が調査の困難さを一番よく認識していた。社長席に腰かけ、背もたれに身をあずけるなり、自然と大きなため息が出た。

再度、依頼者の姿を思い出した。息子の言葉を絶対的に信じ切った、あの母親のまっすぐな目が脳裏に焼き付いて離れない。彼女は単にお人好しなだけなのだろうか。一度疑い始めると、それは際限なく自己増殖していく。疑念を脳裏から振り払った。彼女にできることは、あの母親を信じることだ。その気持ちが今の彼女の精神的な糧だ。

裕美は受話器をとった。

数日後。裕美は、念のために依頼者からもらった委任状を携え、朝一番に横浜拘置所に向かった。正確にいえば刑務所の付属施設なので「拘置支所」だ。

五階建の無機質な灰色の建物に入った。受付の前では、すでに数名の面会希望者が並んでいた。裕美もその後ろにつづき、一般面会申込書に記入した。

職業欄に「探偵」とか「記者」などと書くと警戒されるのは常識なので、ここは無難に会社員と記しておく。係員から身分証明書の提示を求められたので、運転免許所を見せた。親族ではないので、在監者との関係を尋ねられる。

ここで委任状を見せ、「身体の具合が悪くて来られない母親の代理」である旨を説明し、在監者とは極めて親しい間柄であることを臭わせた。

ごく事務的にオーケーが出た。ハンドバッグをロッカーに入れ、待合室に通される。先客につづいて椅子に腰かける。しばらくして、面会室に呼ばれた。

面会室はほとんど箱と評しても差し支えないほど圧迫感があった。ガラスの向こうに被疑者がいた。河野正志・三十六歳。目の下に隈があり、やや憔悴しているが、第一印象はどこにでもいるごく普通の青年というほかない。

「一昨日、お母さんから私のことは訊きましたね?」

「はい」

「では、時間が限られているので、さっそく要件に入ります」前かがみになってガラスにぐっと顔を近づけた。「あなたは本当に宮本さんを殺してないのね?」

「もちろんです」即座に、躊躇なく返事した。

じっと河野の目を覗き込んだ。「本当に?」と改めて訊くと、無言で頷く。その間、青年の目は微動だにしなかった。折れたのは裕美のほうだ。背筋をまた伸ばす。

「宮本さんとは知り合い?」

「全然知らない人です」首を振った。

「でも同じ時期に同じ少年院にいたんでしょう?」

「刑事からもそれをしつこく言われたんですが、知らない人は知らないとしか答えようがないんです。だいたい、少年院には人がたくさんいます。受刑中は一日中スケジュールに追われていて、意外なほど他の人と言葉を交わす機会も少ないんです。勉強ばっかりで学校と似たところがありますが、それでも学校みたいに友達がどんどん増えるところではありません」

「ほう…」

「といっても、体験した人間でなければ分からないと思いますが…」

「まあいいわ。でも、宮本さんの部屋には、あなたに関係する物証がたくさん残されていたの。これをどう説明するの?」

「そのことは、尋問の最中に、刑事からも何度も聞かされました。被害者の部屋から私の指紋の付いたブツや、私の髪の毛が発見されたって。しかし、誓って言いますが、私は被害者のことはまったく知りません。ましてや、その人の部屋を訪ねるなんてことがあるはずがない。刑事にもそう言い続けました。どんなに不眠不休で苛められようが、筋だけは通しました。やっていないものはやっていない、と」

「うむ…」裕美は腕を組んで、あえて疑わしそうに目を細めてみせた。「でも事件当日のアリバイがないというのが怪しいわ」

「またしても単刀直入ですね」正志は少し苦笑いした。「私もそのアリバイが証明できないから、困っているんです」

「当日、同僚と部屋で飲んでいたんですって? なんて名前の人だったかしら?」

「草川信行です」

「どういう経緯で飲むことになったの?」

「草川とは以前からよく飲んでいたんです。その日も、たしか仕事中に彼からこう誘ってきたんです。『明日はふたりとも休みだから、久しぶりに目一杯、飲もうぜ』と」

「よくあることだったの?」

「よくあることでした。ただ『目一杯、飲もうぜ』という言葉を聞いて、いつもと少しニュアンスが違うな、何か嬉しいことでもあったのかな、とその時は思いましたが、それ以外はとくに気に留めることもなく、二つ返事でオーケーしました。夜の七時ごろだったと思いますが、約束通り、彼が一升瓶を掲げて私の部屋を訪ねてきました」

「その草川さんは、あなたのアリバイを証明してくれなかったの?」

「それが、実際には一時間くらいしか飲んでいないと、刑事に言ったそうです。たしかに、私のほうもそれくらいしか記憶にありません。気がついたら、翌日の昼過ぎだったんです」

「十六時間以上も熟睡してたわけ? ずいぶん長い間、寝てたのね」

やや呆れたふうに言うと、正志も首を傾げた。

「それまでも度々、酒を飲んで寝込むことはあったんですが、それでもそんなに長い間一度も目が覚めなかったというのは、初めての経験でした」

なるほど、刑事が疑うわけだと、裕美は思った。こんな話をあっけらかんとされて、信じろというほうが無理だ。

母親の悦子によると、正志は一二五ccのスクーターを所持しているという。ならば、千葉県I市の寮から神奈川県K市にある被害者のアパートまで、一時間強もあれば行ける。仮に部屋で寝たふりをすれば、仲のよい同僚とて、つまらなくなって出ていくだろう。そして、夜の八時ごろに寮を出る。到着は九時ごろだ。犯行は物理的に十分に可能だ。

だが、と一方で裕美は思った。作り話だとしたら、あまりに幼稚すぎる。それとも、当初は、この程度の作り話でアリバイになるとでも思いこんでいたのだろうか。

「逮捕された時、ケータイを所持していたそうね」

「はい」

「事件の日も?」

「それが」正志が急に困惑した。「刑事からはまったく相手にされなかったのですが、実は、事件の日も含めて、ちょっとの間、行方不明だったんです」

「行方不明だった(ルビ)?」

「はい。必死で部屋の中を探しても見つかりませんでした。ところが、数日後、電話会社に連絡しようと思っていた矢先のことですが、ひょっこりと現れたんです」

「現れた?」声が少し裏返った。

ひょうたん島かよ、と皮肉りたくなるのを必死でこらえた。

「ていうか、テレビの裏にあったんです。たまたま部屋にいた時に、友達から電話がかかって来て、気づきました」

「探さなかったの?」つい子供に訊くような口調になってしまう。「テレビの裏を?」

「いやあ、それが」正志は気にするふうでもなく、頭をかいた。「たしかに探したつもりだったんですが…。でも、ほら、部屋の角に据えてあるブラウン管のテレビでしょう。その裏なんて、ホコリまみれで、ビデオデッキのコードやら何やらが複雑に絡まったりしていて見づらくて…。丁寧に探さなかったのも事実です」

「誰かのケータイを借りて、自分でかけてみようとは思わなかったの?」

「やりましたよ。誰かが拾っているかもしれないと思い、仕事場で同僚のケータイを借りて、何度か自分のケータイにかけてみました。でも、繋がりませんでした。今から考えてみれば、自分の部屋の中でそれを試していれば、すぐに見つかったと思うんですが…」

「ちょっと待って。繋がらなかったというのは、完全に圏外だったの? それとも電波は一応届いていたの?」

「どうだったかなあ…」正志は首を傾げた。「その辺はよく覚えていないんです」

頼りない、と額を手で押さえたくなった。友達から連絡が来たので気づいたということは、ケータイの電源は入っていたということだ。ならば、圏外ではありえないはずだ。

しかし、同僚のケータイを借りて「試しがけ」した際に、仮に「圏外」だったとすればどうか。その間に何者か(ルビ)が電源を切って所持していた可能性も生じるではないか。

「その『行方不明だった期間』を正確に教えて」

「ええと…」正志が答えた期間は、見事に犯行日を跨いでいた。彼は少し恥ずかしそうにまた頭をかいた。「この話を仕事仲間の人たちにしたら、『大方酔っている時に自分でテレビの裏に落としてしまって、忘れていたんだろう』って、笑われてしまいました」

仮にこの話が本当だとすれば、犯行前にケータイが消えて、犯行後にまた現れたことになる。つまり、誰か(ルビ)が彼のケータイを盗んで、何らかの要件(ルビ)を達した後にまた元の場所に戻した、という疑惑すら生じる。実に重要なポイントなのに、当人がそれに勘付いていない。その鈍感さに少し苛立った。

「ケータイを貸してくれた同僚の名前は?」

「草川です」

「ケータイが行方不明だった間、あなたの部屋を出入りしたのは、その草川という人以外には誰?」

「草川だけです」

「部屋は鍵付き?」

「むろんです。仕事に行っている時や、出かけている時には、ちゃんと鍵をかけています。あと寝ている時も」

なるほど、一応は自分の手で調べてみるものだ、と裕美は思った。ガラス越しに被疑者の顔をじっと見た。

「あなたの部屋を捜索した時に被害者の腕時計が出てきたっていう話は知ってる?」

一瞬、正志の顔が赤らんだ。怒っている。

「知っています。ただ、当初は、刑事が嘘をついて私を自供に追い込もうとしているのではないか、あるいは、私を犯人に仕立て上げるために刑事自身が部屋に隠したのではないか、とずっとそんなふうに疑っていました。というのも、まったく身に覚えがないし、そんなことがあるはずがないのは、私自身が一番よく知っているからです。だから、取り調べ中は、ひたすら拒絶反応を貫き通しました。しかし…」

「しかし?」

「最近になって、ようやく、それは本当の話ではないかと思うようになりました」

「つまり、あなたの部屋を捜索した時に、本当に被害者のブツが出てきたと」

「はい。事実だとしたら、それは誰かが隠したとしか考えられません。それまでも何か薄々変だと思っていましたが、決定的におかしいと直感したのは、その可能性を考えてからです。誰かが私を罠に嵌めたのではないか、と考えるようになりました」

「あなたの話によると、あなたの部屋に出入りしていたのは草川という人だけね?」

正志は顔を赤黒く染めて頷いた。

「同僚を疑いたくはないんですが…」といって首を傾げた。「でも、だとしたら物凄く変なんです。というのも、あいつが私を陥れる理由などあるはずがない。なにしろ、今の工場で初めて知り合った仲ですし、口喧嘩ですら一度もしたことがないくらいですから」

「何か恨まれるようなことは?」

「絶対にしていないです」語気を強めた。

「今の話を聞いて、刑事の反応はどうだったの?」

「刑事にはしていません。今の私の考えですから」正志はむすっとした。「だいたい、したところで一笑に付されるのがオチです、今までの彼らの態度からすると」

「その草川さんの写真とか持っていない?」

「一度、携帯のカメラで撮ろうとしたことがあったんですが、すぐに『やめてくれ』と抗議されて…」正志はうつむいた。「私も過去が過去だけに、なるべく写真を撮られたくないという人の気持ちがよく分かるし、その人の意志は尊重しなければと思ってますから」

「とても言いにくいことだけど…」裕美は躊躇したが、思い切って口にした。「今回の件があなたの過去と何か関係しているということはないかしら?」

すでに悦子から概要はうかがっていた。正志は少年時代の一時期、悪い仲間と付き合っていた。ある日、リーダー格の少年が強盗をやろうと提案した。誰も正面切って反対できず、結局、彼らは集団で暴走してしまう。狙われたのが、酔った状態で家路につくサラリーマンだった。彼らは夜の公園で一人の中年男性を襲った。

正志は決して主犯ではなかったものの、たまたまサラリーマンの抵抗が向けられたのが彼だったため、突き飛ばす羽目になった。男性は縁石で頭を強く打ち、死亡した。

途端、正志は目に涙を浮かべた。

「関係しているかどうかは分りませんが、仮にそうだとしたら、弁明の余地はありません」

「そういう意味で質問したんじゃないの。純粋な調査次元の話よ。少しでもその可能性があるなら、過去をほじくり返す必要もあるけど…その辺はいいの?」

「覚悟はしています。私は人として許されないことをしましたから…」

「あなたはちゃんと反省しているように見えるわ」

励ましたつもりだったが、正志はキッとなって顔を向けた。

「でも、刑事からは言われたんですっ、『おまえは以前にも強盗殺人をやっている、だが少年法のおかげで本当の償いから逃れた、だからまた犯罪をやらかした、おまえは根っからの悪人だ、正直に白状しないのなら今度こそ覚悟しておけ』って…」

「それはひどいわ」

「でも、それが世間一般の見方かもしれません…」正志はまた顔を伏せ、袖で両目をぬぐい始めた。「実は、私はまだ許されていない(ルビ)んです」

「被害者のご遺族の方から?」

目を袖で隠したまま、正志は大きく頷いた。

「謝罪の手紙はすべて送り返されました…。土下座しにいっても門前払いです…。でも、でも、分かってほしいんです…。逆にそれで私は、自分が遺族の人たちをどれだけ苦しめてきたかを、知ったんです…。そして堅く決心したんです、もう二度と同じ過ちは繰り返さないと…」

正志は泣きじゃくった。その様子を見ながらも、裕美は冷静に今後のことを考えていた。おそらく、裁判になれば負けるだろう。法廷でも否認し続けるなら、反省なしと見なされ、無期懲役の判決すら免れないかもしれない。

だから、勝負は公判前だ。

「あと五分」と、刑務官から無機的な声がかかった。

「それだけの気持ちがあるなら、言うことはないわ。それに、あなたが過去に罪を犯したからといって、今も犯罪者だと決めつけられるいわれはないのよ」

「はい」と、青年は、今度こそ励まされたという顔で頷いた。「私は無実です」

「私もできる限りの手助けはしてみるわ」裕美も笑みで応えた。

「お願いします。これ以上、お袋の悲しむ顔だけは見たくないんです。私のせいで、ここのところ急に白髪が増えたみたいで、面会の度に胸が潰れそうで…」

正志が直角に頭を下げた。裕美は、悲しげな目をして憔悴した、あの老いた女性の姿を、またしても思い出した。彼女こそ、この無力な青年のただ一人の味方なのだ。

去り際に、また正志の目をじっと見据えた。

「最後にもう一度、訊くわ。やっていないのよね?」

河野はまっすぐ目を見返してきた。

「絶対にやっていません。これは冤罪です」

さっそく元上司に連絡を入れた。

「…で、草川を取り調べたら、どうだったのですか?」

「まともに捜査していないよ、県警は」心なしか電話の主は面倒くさそうだった。「何度か聞き込みをして、あとは署に一回呼んだきり。しかも、ほとんどお客さん待遇。容疑者のアリバイなしの確証をとるのが目的だからね。機嫌を損ねたりしたら、逆に大変だ」

「ずさんね」

「仕方がないじゃないか」北王子英明は己の所属する組織の肩を持った。「初動の段階で、物証付きでホシが割れた事件なんだ。端から犯人は河野正志ということになっている。その草川とやらが捜査対象になるわけがないだろう」

「河野の話を実際に聴いてみて、調べてみる価値があると分かったわ」

「今回ばっかりは諦めろ」

電話を叩きつけたくなるのを、ぐっと堪えた。

「また力を借りますわ」

切るなり、電話機を睨みつけながら独り呟いた。

「鼻をあかしてやるんだから」

だが、北王子の態度に憤慨する一方で、冷静な自分もいた。現場には河野の犯行を裏付ける数々の物証があった。また、彼には当日の夜八時以降のアリバイがない。

物証とアリバイ…この二つの問題をクリアしない限り、無実は証明されない。もし河野を陥れた第三者がいたとしたら、完全犯罪に近いといえよう。

いずれにしても、鍵を握っているのは、同僚の草川信行なる人物だ。

次のアクションは決まった。

とりあえず、キーマンに当たってみるほかない。

河野が務めていた自動車部品の会社に電話を入れた。だが、要件を伝えると、「申し訳ございませんが、警察の方以外には一切応じられません」との返事。「どうしてですか?」と尋ねると、「個人情報保護法に触れる可能性があるから」の一点張り。

取りつく島もなし…。だが、聞き込みしないわけにいかない。諦めが悪いのが探偵だ。あいにく調査車両は他の件ですべて出払っているので、裕美はマイカーに乗り込んだ。

河野の勤務先のN製作所は、千葉県I市のやや郊外にあった。国道沿いの敷地はテニスコート四面分くらいだ。工場の外壁のトタンは錆びだらけ。その前に十数台のセダンや軽自動車が駐車していた。従業員のものと営業用だろう。一つの空きスペースに「来客用」と札が立ててあった。裕美はそこに愛車のプリウスを停めた。

工場の入口付近のアスファルトは鉱油で黒く汚れ、中に一歩踏み入れた途端、金属のむせ返る臭いがした。フォークリフトが動き回っている。汚れた黄緑色の工作機械が並んでいて、あちこちで部品を削る音がした。時々、ジジジと青白い火花が方々で散る。上下とも灰色の作業服を着た従業員たちが、それぞれの持ち場に張り付いていた。

そのひとりに尋ねると、「あっちでお願いします」と指差された。工場内の隅に、敷居で区画された事務所スペースがあった。ドアを叩くと、紺色の地味な制服を着た事務員の女性が応対に出た。名刺を手渡し、改めて要件を伝える。

相手の表情がこわばっている。いったん奥に消えた。

再び彼女と共に現れたのが、眉をしかめた五十代半ばくらいのオールバックの男性だった。こちらは背広姿である。管理職らしい。

「調査会社の人?」

「はい」

「電話で断ったはずだが」

「近くに寄ったもので、つい…」

「困るんだよなあ、勝手に来られちゃ」

「どうしてもお話をうかがいたくて」

管理職の男は、半ば呆れ、半ばむっとしていた。

「マスコミじゃないんだね?」

「もちろんです」なんとなく事情を察した。「こちらでうかがったことを外部に漏らすような真似は絶対いたしませんので、どうか少しだけでもお話させていただけませんか?」

「うーん…」

その場の風向きが変わった。電話で断られても、会って二言、三言でも声をかけあえば、相手も断りづらいものだ。しかも、女性探偵の特権は警戒されにくいこと。聞き込みに有利なのだ。

結局、うまくいった。応接室に通される。男は総務部長だった。

「まったく、とんだ、とばっちりですよ」

部長はひどく憤慨していた。しばらく愚痴の聞き役に回る。

いわく、派遣とはいえうちの会社で働いていた中から犯罪者が出た、しかも使われたのが部品の加工に使う社内の化学物質だ、世間体が悪いといったらありゃしない、マスコミの取材は迷惑だ、勝手に社の写真を撮られ、雑誌に載せられた、等など…。

「それはひどいですわね」

「うちは何も悪いことをしていないのに、まったくマスコミときたら…」

タイミングを見計らって、用件に入った。まずは河野正志について尋ねる。

「いや、本当にびっくりしましたねえ」部長は目を丸くして、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。「勤務態度は本当に真面目でしたよ。早出や残業も全然、厭わないし…。元強盗殺人犯だったなんて、まったく知りませんでした。好青年だったのに、騙された気分です。彼を紹介した派遣会社とは、もう新規の契約は一切しないことに決めましたよ」

今度は草川信行について尋ねてみた。

「草川?」部長は一瞬、誰か分からなかったようだ。「ああ、あの人ね。ほとんど口をきいたことがないから、印象薄いけど…。でも、どうして彼のことを?」

「あのう、彼に会わせていただけませんか。河野と一番親しかったと耳に挟んだものですから、少し尋ねたいことがありまして」

「もういないですよ」

「ええっ? 辞めたのですか?」驚く。

「事件後、しばらくしてね。ちょうど不景気で、正直な話、派遣の人から順にリストラしようかなと思っていた矢先だから、辞めたい人を引きとめる理由はないしね」

「どんな方だったのでしょうか?」

「そうだなあ、目立たない人で、周りと全然打ち解けた様子がなかったけど、なぜか河野とだけはウマが合ったみたいで…」

「それ以外に何か印象はありませんか?」

「あとは…勤務態度は何も問題はありませんでしたよ。それほど仕事に熱心というふうでもなかったけど…。彼について知っていることは、それくらいですね」

「あのう、連絡先を教えていただけませんか?」

「うーん…」と唸った。「それはちょっと…」

「お願いします。ある人の人生が掛かった調査なんです」

本当のことを言おうかどうか迷った。河野さんの罪を晴らすための調査だと。だが、言ったら、かえって相手の態度が硬化するような気もした。

「って言われても…。というのも、うちで把握している期間従業員の個人情報を部外者に教えて、後で責任問題になったりしたら、私が困るし…。かと言って、いちいち社長の決済を仰ぐようなことでもないし…。やっぱり調査会社の人には…」

「お願いしますっ」頭を下げた。

「それじゃあ、ちょっと待っていて。社長に掛け合ってみるから」

部長は奥へ消えた。一分もしないうちに、戻ってきた。

「悪いけど、やっぱりうちで教えるのはマズいということで、どうしてもって言うんなら、人材派遣会社さんのほうに訊いてくださいよ」

その住所と連絡先のメモをもらった。

その人材派遣会社にアポを入れようかとも思ったが、また個人情報保護うんぬんと言われそうな気がした。

というわけで、場所が近いこともあり、直接訪ねることにした。

小岩駅近くの雑居ビルだ。会社の玄関前に立った瞬間、なにか様子が変だと直感した。数人の中年の男女が引越しの準備をしている。とりあえず玄関をくぐった。

「お忙しいところ、すみません…」

中年の女が作業の手を止めて、胡散臭そうな目を向けた。

「なに?」

「わたくしこういう者ですが」名刺を差し出す。「実は、そちらを通してN製作所で派遣社員として働かれていた草川さんについて、少々お尋ねしたいことがあるのですが」

女が後ろを振り向いて、困ったような目を五十歳くらいの男に向けた。ここの経営者らしい男は、作業の手をいったん止めると、腰に手を当てて伸ばしながら言った。

「あのねえ、見ての通り、忙しいの」

「そこをなんとか…。お手間は取らせませんので」

チラリと男の足元を見た。「捨て」とマジックで書かれたダンボールが床にある。ここに次々と書類やファイルを叩き込んでいた様子から、単なる引っ越しではない。

「うちはねえ、派遣業のほうはもう店じまい。撤退して、事業を縮小する予定なんだ。名簿は名簿でね、立派な売り物になるんだよ。よそ様に好意で見せるものじゃないんだ。悪いけど、帰ってくれないかなあ」

道理で誰も彼もが疲れきっていて不機嫌なわけだと納得した。

「名簿業者に売るものだとおっしゃるのですね」

「ああ、そうだよ」

「ということは、お金を出せばよろしいのですね?」

彼らは互いに顔を見合わせた。途端にそろばんを弾いた模様。男がカモを見る目になってこちらを振り返った。

「業者が高ーく買い取ってくれるものだから、安くは売れないんだけどな」といって白々しく咳払いをした。「で、調べたいって、誰のを?」

「草川信行さんという人です」

「草川ねえ…」

男は胸ポケットから取り出した老眼鏡をかけると、無造作にテーブルの上に放り出してあったファイルを選別しはじめた。すぐに、その中から一つの分厚いファイルを探し出す。男は「草川、草川」と呪文のように唱えながら、履歴書ファイルの「く」の項目をめくっていった。やがて、「あった、あった」と言いながら、一枚の履歴書を綴じから外した。

「五千円」と、それを差し出しながら言った。

法外な値段だ。しかし、背に腹は変えられない。裕美は無言で財布から五千円札を引っ張り出した。主人は初めて欲深い笑みを浮かべると、「どうもね」とだけ言った。

草川信行の履歴書を手に入れた。マイカーに戻ると、すぐにそこに記された電話番号にかけてみた。自宅と携帯の両方だ。だが、どちらも現在は使われていないようだ。

今度はスマホをネットに繋ぎ、インターネットで住所を当たってみた。

「え?」と一瞬、固まってしまった。

履歴書の現住所は埼玉県W市S町の4丁目とある。しかし、そもそもS町は3丁目までしかない。いったい、どういうことなのだろうか。単なる丁番の書き間違いだろうか。

迷う間もなく、サイドブレーキを下していた。とりあえず、現地へと向かう。

一時間もしないうちにW市にたどり着いた。イの一番に地元の図書館を訪れる。住宅地図を借りた。拡大鏡を取り出し、S町の1から3丁目までを虱潰しに調べていく。

はっきりした。そもそもS町には「草川」の表札を掲げる家や集合住宅自体がない。

(つまり、この履歴書の住所は嘘…)

後編へ続く