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山田高明作「探偵小笠原裕美シリーズ2 たった一つの計算外」後編

私の中の主人公のイメージに近いということで、女優の仲間由紀恵さんの写真をお借りしております。

前編はこちら。

山田高明作「探偵小笠原裕美シリーズ2 たった一つの計算外」前編
短編ミステリーです。やや長めなので、前・後編に分けました。 今回は、果たして名探偵小笠原裕美は「完全犯罪」のトリックを突き崩すことができるのか、というお話です。 始める前に、簡単に登場人物を紹介させていただきます。 主人公...

物語の後半ですが、改めて登場人物の紹介。

主人公の小笠原裕美

探偵会社「インテリジェント・ヘッドクォーター(IHQ社)」創業者兼CEO。年齢は本人いわく秘密。元警察庁のキャリア。天才的な頭脳と推理力、そして高邁な精神の持ち主。行動派で自ら現場の先頭に立つ。ただし恋愛指数だけはゼロで、未だ彼氏なし。

鏡義雄(通称・ヨシオ)

二枚目半だが、頼りがいのある青年探偵。通常の調査はもとより、変装や潜入なども得意。万能タイプ。ひそかに裕美に思いを寄せている。

藤井源之助(通称・源さん)

元警視庁刑事。退職後の第二の人生としてIHQ社を選んだ。聞き込み・尾行など足を使った調査のプロ。江戸っ子で恐妻家。裕美のことを「お嬢」と呼ぶ。

風間雪(通称・お雪)

元スケバン。陸上自衛隊出身。スポーツ万能で各種格闘技のプロ。スポーツカーやバイクの運転もプロレーサーなみ。長身で容姿はモデル級。調査のためにホステスやキャバクラ嬢になることもしばしば。口が悪く、裕美のことを「カシラ」と呼ぶ。

大塚信孝

IHQ社の創業メンバーで専務。裕美が事務方を一任している人物。常に冷静沈着で、総務全般を取り仕切る。堅物なのが玉に傷。経営面などで裕美に諫言もする。

三上サクラ

事務・経理を担当するが、IT技術者でもある。理工学部卒のメガネっ子。

北王子英明

警察庁時代の裕美の元上司。茨城県警察本部長を経て、警察庁長官官房総括審議官。階級は警視監。今でも裕美のよき相談相手。実は警察組織の革新官僚グループに属し、裕美を警察と探偵業界の橋渡し役にすべく、前々から画策している。

不動道直

探偵業界の大御所。調査業者の業界団体である社団法人全国調査業協会の元理事長で、裕美の後見人。富豪。戦中派で今も隠然たる力を有する老人(まだ登場せず)。



探偵小笠原裕美シリーズ2 「たった一つの計算外」後編

改めて、I市にとんぼ返りした。後回しにしていた寮での聞き込みのためだ。時刻はちょうど夕方過ぎ。N製作所での仕事を終えた従業員たちが寮に帰宅しているころだ。

一部屋ごとに戸を叩き、草川と河野について尋ねていく。ただし、警察ではないので、「今手が離せない」とか「困ります」などと言われれば、いったん引き下がるほかない。

早くも数人目で収穫があった。相手は二十代の真面目そうな男性だ。「事件当日のことで何かご存じないですか?」と尋ねたところ、「そういえば…」と話してくれた。

コンビニで草川と会った、という。そこは寮から一番近いコンビニのため、彼らがよく利用するらしい。会った時、草川は雑誌コーナーで立ち読みをしており、互いに「おう」という感じで軽く挨拶したという。帰る時も、彼は立ち読みのままだったそうだ。

「それは何時ごろでしたか?」

「えーっと…」男性は目を上にやった。「あれはたしか『わくわく発見』を見た直後だったから…夜の十一時ごろだったと思いますよ」

その番組なら知っている。若手芸能人が都内の美味しい飲食店や遊びのスポットを訪れ、体験するという内容だ。週に一度、夜の十時から同五十分までの放映である。

事件当日と曜日は合っている。それどころか、犯行時間帯にもほぼ等しい。

「間違いありませんか?」

「ええ」

「間違いなく草川さんでしたか?」

若者はやや不審がりつつも、「ええ、絶対に」と頷いた。

ふと、「草川と飲んでいたら、いつの間にか寝込んでしまった」という河野正志の証言を思い出した。やはり、草川は河野の部屋から出ていたのだ。

一通り聞いて回ったところ、有力な証言はこれだけで、あとは草川と河野の人となりと両者の関係について知っていることの再確認に留まった。草川のケータイ番号を知っているという人もいたが、それは履歴書に記されたものと同じだった。

さっそく、そのコンビニに向かった。レジの若い女性に尋ねてみる。

「ああ、それなら、夜の十時から来る人のほうが、よく知っていると思いますよ」

なんでも、夜の十時にシフトが交代するらしい。彼女は週に二回しか勤務しないが、深夜担当のアルバイト男性はほぼ毎日勤務しているのだという。

それまで車の中で待つことにした。その間、会社のほうに電話を入れ、指示を出したり、顧客に連絡したりと、テキパキと他の用事をこなした。

あっという間に十時になった。レジには三十代半ばの小太りの男性が立っていた。さっそく、草川の写真を見せて尋ねる。彼はよく覚えていた。

「そういえば、あの日、二時間くらいいましたよ」

彼が店の一角を見やったので、同じ方向を振り返った。

「雑誌コーナーに?」

「ええ」

「何時ごろからですか?」

「私が勤務に入ってから、すぐですよ」男は不快そうに顔を歪めた。「正直、うっとしかったですねえ。というのも、ちょうど雑誌を入れ替える時間帯だったので、もう邪魔で邪魔で…。さっさと帰ってほしかったので、それとなく、ぶっきらぼうに棚おろしをしてみたんですが、それでもずっと粘っていましたよ…」

「ということは、十二時くらいまでいたのですか?」

「ええ…。まあ、最後は青年漫画誌とかジュースなんかを買っていったので、こっちも笑顔で見送りしましたけど」男性は苦笑いした。

「その間、彼は一度も店を出なかったんですか?」

「さあ」と首を傾げた。「私もずっと見張っていたわけではありませんので」

「彼はそういうことを、この店でよくやるんですか?」

「いえ。他の時間帯は知りませんが、私の勤務時間帯だと、その時が初めてですよ」

チラリと天井に目をやった。防犯カメラがある。その日の草川の姿は、ばっちりと録画されていることだろう。

裕美は礼をいって、その場でパンとコーヒーを買って店を出た。

少なくとも、これで一つの事実がはっきりした。草川が河野を陥れようが陥れまいが、その草川には宮本氏を毒殺することは物理的に不可能だということだ。

神奈川県のアパートで被害者が毒を盛られたまさにその時間帯、草川信行はここ(ルビ)にいたのだ。彼のアリバイは証明された。

だが、店員に嫌がられながらも、二時間も雑誌コーナーで粘っていたという事実、またその奇行が一度きりという事実が、逆に裕美を不審がらせた。

(これはなんだかアリバイ作り臭いわ…)

やはり、草川が怪しいと確信した。

だが、仮に彼が河野を陥れたとしても、動機が分からない。なぜ、会社の同僚を陥れる必要があるのか? 恨みがあったのか? それとも、誰から金銭でも掴まされたのか?

ますます謎めいてきた。おそらく、今回の事件の真相は、草川を徹底的に調べてみないことには浮かび上がってこないに違いない。

改めて、彼の履歴書に目を通した。おそらく、住所だけでなく、氏名・学歴・職歴などの他の情報も嘘だろう。せっかく手に入れたのに、あいにくクズ情報の塊だ。

派遣会社としては、要は人手が集まりさえすればいい。つまり、携帯電話が通じれば事足りる。むろん、己の正体を隠したい側にとっては、匿名のプリペイド式ケータイを使うなどして、予防線を張ることもできる。今では匿名で借りることは難しくなったが、依然として抜け道はあるし、だいたいネットで匿名プリケイが売買されている。

給与が振り込まれる銀行口座はどうか? これもネット上では、仮名口座がそれこそ数万円で売買されている。情報屋に委託すれば、名義・口座番号などから引き出しに使用されたATMの場所が分からないでもない。仮に彼の本当の住所の近くで引き出されていれば、正体を絞るのに役に立つが、寮の近隣で全額が引き出されていれば意味がない。

しかし、たった一つだけ偽物では通らない要素もある。

裕美は履歴書に貼り付けられた数センチ角の切抜きをしげしげと見やり、呟いた。

「手がかりといえば、この写真だけか…」

どういう風の吹き回しだが、藤井・風間・鏡の三人がそろって協力を申し出てくれた。それぞれ自分たちが請け負っている調査の合間に手伝いたいという。

彼らのいい点だ。

「そう、ありがとう」

裕美は素直に礼を言った。これまでの調査結果は、簡単な文章としてまとめてある。それを彼らに見せた。三人はしばしの時を費やして、それを読み込んだ。

「相変わらずカシラは聞き込みがうまいね」

風間が感想を口にすると、藤井たちも頷いた。

「お嬢は美人だから得なんだよな」

「社長みたいな人に近寄られたら、男なら誰だって口を割っちゃいますよ」

鏡も頷く。みな、口々に彼女を褒め始めた。

(まったく、どいつもこいつも見え透いたお世辞で人を担ごうとしよってからに・・)

一瞬、彼らの調子のよさに、そう憤慨した。が、しかし…。

「そうお?」つい顔がほころんでしまう。

乗せられていると知りつつも、女の性なのか、褒められるとニヤけるのを抑えることができなかった。三人が安心したように互いの顔を見合わせた。

「まあ、冗談はさておき」と風間。「これで当面の調査の対象がはっきりしたね」

「この草川ってやつだな。まあ、どうせ偽名だろうがな」

「問題はこの男の正体を暴くために、どういう線から攻めていくかですねえ…」

三人は急に真面目くさった顔つきになり、議論を始めた。

「…………」

裕美が固まったままでいると、鏡がやや不審そうに顔を上げた。

「どうしたんですか、社長」

「カシラ、真面目にやろうよ」

「そうそう、ケジメをつけやしょう、ケジメを」

「あ、あんたらねえ…」思わず頬が引きつる。しかし、咳払いして、スイッチを切り替えた。「まあ、そうね…。今までとは別の角度から調べてみる必要があるわね」

「そういえば、今回の毒殺事件の被害者ですが」鏡が切り出した。「少年院にいたということですが、そもそも何の罪で入所したのでしょうか?」

「その部分で河野や草川と何か繋がりがあるやもしれませんぜ」と藤井。

「宮本進さんね。河野正志とは同じ少年院出身だと聞いてるけど…」

「神奈川はあたしのホームグランドだから、あたしが宮本とその周辺を調べてみるよ」

「そう、お願いね」裕美は頷いて、鏡のほうを振り返った。「義雄君、ちょっと嫌な仕事だけども頼んでいいかしら?」

「何でしょう?」

「河野正志がかつて犯した事件についても気になるの。彼のお母さんに会って、できるだけ詳しく尋ねてくれない?」

「お易い御用です」

「源さんは少し待ってて」

「了解」

風間雪が神奈川県に飛び、宮本進とその交友関係について調査を始めた。警察では人間関係に対するこの種の調査を「カン取り捜査」というが、警察手帳の威力を有しない探偵は、独特の手法で似たことを行う。基本は足を使った地道な聞き込みである。

「妙なんだよ、カシラ」

しばらくして、風間がそう電話してきた。

「宮本の友人知人に片っ端から当たってみても、河野のことが影も形も出てこないんだ。誰に聞いても、宮本にそんな知り合いがいた事実は知らなかったって言うんだ」

「彼はム所仲間との付き合いがあったの?」

「数人いたけど、みんな河野の名なんて聞いたことがないって」

「変ねえ…」

ふたりの接点は少年院のはずだ。収監期間が数週間ほどダブっていた。もしかして、周囲も気づかないほど、両者の関係は希薄だったのだろうか。

だが、だとしたら、事件と矛盾する。一方が片方を毒殺するほどだから、本来なら相当な感情のもつれがあったはずだ。そして、それだけの衝突が両者に生じていれば、周辺のム所仲間が気づかないはずがない。

事件は衝動的な犯行だったと見れなくもないが、事前に毒を準備していることから、その可能性は低い。

だが、ふたりが知り合いだったという証言が第三者から一向に出てこないという。そういえば、河野の側も宮本について「全然知らない人です」と答えていたが…。

「それから…」風間が声を落とした。「宮本の罪が分かったよ」

裕美は続く言葉を待った。

「強姦殺人だった」

一瞬、喉を詰まらせた。五秒ほどしてから、「そうなの…」と返事する。

「被害者は当時、女子高生だった吉川正美さん。少年Aこと宮本は、たまたま通りがかった彼女に目を付けて、自分の車に引きずりこんでレイプしたんだ…」

風間によると、宮本はヤクザとその情婦との間に生まれた子供で、ずっと母子家庭で育ってきた。中学入学前には早くもワルの仲間入り。すぐに手がつけられなくなり、卒業後は建設現場などで働くも、一方で窃盗などの犯罪に手を染め始める。

そしてとうとう、取り返しのつかない罪を犯してしまう。母親は収監中に蒸発し、以来、独りだという。

「一応、事件に関する資料なんかを送っておくから」

「よく調べてくれたわ、ありがとう」

裕美は風間をねぎらい、引き続き調査に専念するよう指示した。

依然として、漠然たる疑念がくすぶったままだ。いっそうのこと、河野が宮本の預金を奪ったという話なら、動機が金目当てということで分かり易かった。だが、盗んだとされるのは腕時計だけ。仮に河野が宮本を毒殺したとしても、なんで彼がそれをしなければならないのか、すっきりしない。

つまり、証拠はあっても、犯行の動機がさっぱり分からないという不可解な事件だ。いや、それどころか、両者の関係すら見えてこない。

ふと、「これだけ証拠が揃っていてもですか?」という鏡のセリフが脳裏をよぎった。

そうなのだ、たしかに証拠は揃っている。

いや、というより、揃いすぎて(ルビ)いないか。つまり、証拠過剰(ルビ)なのだ。すべてがアレンジされたような不気味さすら漂う。

その時だった。社のパソコンに風間からのメールが入った。彼女が調査車両から送ってきたものだ。カチカチという音を立ててマウスをクリックし、さっそく添付ファイルを開ける。当時の事件を報じる新聞記事などに混じって、殺された被害者の写真もあった。

それを見た瞬間、記憶の扉が叩かれた。

(どこかで見たことがあるような気が…)

しばし記憶と格闘した。「まさか!」と突然声を張り上げたので、一瞬、社内の視線を集めてしまった。草川信行の写真を取り出し、しげしげと比較した。

(似ている!)

そう思った瞬間、受話器を挙げていた。相手は風間だ。

「ねえ、雪さん。殺された吉川正美さんに兄弟とかいないの? …え、分からない? すぐに調べてみてくれない? いたら、写真も手に入れてちょうだいね…」

夕方だった。風間から再び連絡が入った。被害者に弟がひとりいたらしい。出身高校の卒業アルバムから、彼の写真をスキャンすることに成功したという。パソコンにその情報が送られてきた。それを見た瞬間、身体に電流が走った。

「やっぱり!」と叫んだ。

その顔写真は「草川信行」の若かりし頃そのまんまであった。名前は吉川基樹。偽名を使い、N製作所で働いていたのは、殺された吉川正美さんの弟だったのだ。

ようやく、真実の一端に触れることができたと思った。少なくとも、草川こと吉川には、宮本を毒殺する動機がある。そう思っていると、裕美は背後に複数の視線を感じた。

だが、宮本が毒殺されたまさにその時間帯、吉川はコンビニで雑誌を読んでいたはずではなかったのか。やはりあればアリバイ作りだったのだろうか。

あるいは、「草川」役の別人と入れ替わり、本人は宮本のアパートに向かっていたのだろうか。だが、そう易々と宮本を殺せるはずがない。なにしろ、部屋に上がりこんで毒を盛ったのだ。

まさか宮本にしても、自分が殺した女の弟を部屋にあげ、酒でもてなすだろうか。

やはり、コンビニにいたのは吉川本人で、宮本のアパートには別人が向かったと考えるべきではないか。

いずれにしても、一人では犯行は不可能。つまり、まだ他に共犯者がいる!

「源さん、頼みがあるの」

後ろを振り返ると、そこにはすでに藤井源之助の顔があった。彼はとうに理解していたらしく、ニヤリとした。

「あっしの出番ですね。さっそくこの吉川ってやつを張り込んでみやしょう」

神奈川県警刑事部捜査一課の引田警部は、やり手の営業部長のような風貌をしていた。ベスト姿の四十半ばの男は眉間に皺をよせ、不快感を隠そうともしなかった。

「あのさあ、上からどうしても会ってやってくれと言われたから、仕方なしに時間を作ったけどさあ、おたくさあ、元警察官僚だか何だか知らんけど、サッ庁のコネを使うなんて、ちょっと強引過ぎやしない?」

本件の捜査を担当した引田は、いきなりまくし立てた。

「お気持ちは察しますが、私どもとしても、どうしてもお伝えしたい情報がありますし、みなさんにとっても新たな発見に繋がるかと思いますが」

「なんで探偵の調査なんかにおれたちが…」引田は小指で耳をほじった。「だいたいねえ、捜査はもう済んでいるんだよ」

とうに終わった事件をほじくり返されることもさることながら、彼らが逮捕した男の母親が探偵の依頼者という事実も、警部を苛立たせている理由に違いなかった。

「むろん、承知していますが、お手間を取らせることにはなりませんので」

嘘も方便だ。本当は手間を取らせることが目的だ。そのために、わざわざ北王子に頼み込んで、今日の会合をセッティングしてもらった。

「で、何なの?」目が面倒くさそうにあちこちを泳いでいる。

「草川信行をご存じですね?」

「草川?」引田は目を上にやった。「草川、草川、草川…ええっと、誰だっけ?」

冷やかしているのか、それとも本当に思いだせないのか、よく分からない態度だ。

「河野正志が一番仲のよかった同僚です。事件当日も一緒に酒を飲んだとか」

「で、彼がどうかしたの?」

依然として、余計なことをしてくれるな、と言わんばかりの表情。

「偽名です」

耳をほじる手が止まった。引田の目がはじめて、まともにこちらを向いた。

「偽名?」

場合によっては、裁判で証人として出廷してもらうこともありうる。偽名を掴まされていたとすれば、捜査当局として大失態だ。

非常にまずいと気づいたのだろう、引田が急に姿勢を正した。

「私どもの調べて、彼の本名が分かりました。吉川基樹、三十四歳です」

「ほう、そうですか」引田は礼を述べる代わりに、しきりと咳払いをした。「んんっ、ほう、なるほど、なるほど…」

「かつて宮本進が犯した強姦殺人事件の被害者・吉川正美さんの弟です」

「なんだって!?」今度ははっきりと驚いた表情を見せた。

「となると、犯行時間帯に酔い潰れていたという河野の証言は、本当かもしれませんね。なにしろ、彼に宮本を毒殺する動機はなくても、吉川にはありますから」

吉川にアリバイがあることは、あえて触れずじまいにした。

「…そ、それは…」

得心しつつも、立場上「たしかに」と言えない警部の顔がそこにあった。

「そう仮定すると、途端に、あらゆることの筋道が通るのではありませんか。吉川は酒盛りと称して頻繁に河野の部屋を出入りしていた。だとしたら、彼の毛髪や、彼の指紋の付いたコップを盗むことくらい、た易いでしょう。殺された宮本氏の部屋には、さも証拠品ですと言わんばかりに、それらが置いてあったそうですね」

「し、しかし、河野のケータイが被害者宅のすぐそばで受信を…」

「うかがっています。彼を逮捕した時、証拠品として押収なさったそうですね。ところが、私が河野に面会したところ、彼はケータイが一時期、行方不明だったと主張しました。その間は事件の日を跨いでいます。彼は刑事さんにもそう言ったはずでは?」

「いや、それは、見え透いた嘘だとばかり…」

「仮に、河野からケータイを盗んで、また彼の部屋に戻しておくことができる人物がいるとしたら、それは誰でしょうか?」

引田は圧倒されていた。ただただ無言で裕美の顔を見つめていた。

「警部さん。再捜査の必要があるとお思いになりませんか。もちろん、私どもも全面的に協力させていただきますわ。ただ、その場合、互いの情報をある程度、交換するという作業も必要になると思いますけど」

「いや、その必要は、なんというか…」妙に歯切れが悪い。「ないと思いますし、それに民間企業のあなた方と共同作業するというわけにも、なかなか、そのう…」

「あら、そうですの。別に構いませんわ。協力してくれないのでしたら、この件は警視庁の知り合いの方にもっていきますから」

裕美が腰を浮かせると、引田が慌てて引きとめるジェスチャーをした。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。まあ、なんだ、そのう、おたくの言うことを全面的に認めるわけじゃないが、万一ってこともあるので、一応は検討してみるから」

「本当にやる気があるんですか?」疑わしそうに引田をねめつけ、机にバンと手をついて腰を浮かせた。「やっぱり警視庁と…」

「うわあ、タンマ、タンマ! 分かった、分かった、もう一回、調べてみる! 情報も交換するから、警視庁と手を組むのだけはやめてくれ…ください、お願いだ!」

引田警部の焦った様子を見て、裕美は内心で舌を出した。

仮に誤認逮捕だったとしても、自らが真犯人を捕まえれば、なんとか体面も保たれる。しかし、よりによって警視庁に真犯人を挙げられたとしたら、どうなるか。捜査ミスを警視庁に矯正された格好の県警は面目丸潰れとなる。

引田も途端にカイシャ内での居心地が悪くなるだろう。警察のように普段から権力をふるう機関ほど、地方公務員同士のセクショナリズムも激しいらしい。

「約束していただけますか?」

「むろんだ」汗を垂らした引田はいきなり席を立つと、応接室のドアを開けて事務所内に目をやった。「おい、古賀、ちょっとこっち来い!」

鳥の羽ばたきかと思うほどの手招きで、一人の部下が呼びつけられた。

「なんですか?」三十歳くらいの刑事が怪訝そうにやって来た。

「おまえ今、暇だろ?」

「暇じゃないですよ」

「いいから、こっちの専従でやってくれ」

古賀という名の刑事は、上司に腕を掴まれ、強引に応接室に連れ込まれた。警部が「実はな…」と簡単に事情を説明すると、古賀刑事もまた驚愕の色を浮かべた。

「まさか!?」と言い、驚きと尊敬の入り混じった表情で裕美のほうを見た。

「あいにく、私は他の事案にかかりっきりなもので」引田警部が申し訳なさそうに頭をかいた。「以後はこの古賀と連絡を取り合ってもらえませんか」当の青年刑事を険しい顔で振り返った。「いいな、こちらの探偵さんには、全面的に協力するんだぞっ」

鏡から報告が入った。河野正志が少年時代に犯した強盗殺人の被害者の名前は中島博、当時四十歳。家族構成をみると、妻と一人娘がいた。

一方、風間は引き続き宮本の交友関係を洗っていた。当人を中心にして、同心円状に周辺を調べていく。追っているのは、事件当日、宮本宅に上がりこんでいたと思われる人物だ。吉川と何らかの連携をしていた可能性がある。一緒に酒を嗜むくらいだから、きっと普段から宮本と付き合いのある人物に違いない。それもかなり親しい間柄のはずだ。

風間の執念の聞き込みの結果、浮かび上がったのは男女数名だった。そこからさらに、ひとりずつ潰していく。

その中で裕美のアンテナに引っかかったのが「矢島裕子」という名の女性だった。品行方正な人となりらしく、どちらかというと宮本とは住む世界が違うタイプに思えた。彼女は宮本が参加していた同じ絵画教室の生徒らしい。宮本は収監されていた際に絵を描くことに目覚めたという。不思議と心が落ち着き、自分の内面と向き合えるかららしい。

矢島裕子はあとから入ってきて、すぐに宮本と親しくなったという。

「どこかで聞いた話ねえ…」

裕美はまた記憶の引き出しを探った。ピンと閃いた。何のことはない、河野・吉川の関係と似たパターンである。裕美は彼女を集中的に調べるよう、風間に指示した。

案の定、「矢島裕子」は偽名だった。住所もデタラメ。ケータイの電話番号は、以前は繋がっていたのかもしれないが、少なくとも今は不通だ。

しかも、絵画教室に当たってみると、事件からしばらくして、参加しなくなったという。同会では、ホームページとケータイサイト及び付設の会員専用ページを通して情報をやり取りしているので、個人情報がすべてデタラメでもケータイ一本あれば会員として普通に活動できるとのことだった。

調査を一段落させて帰ってきた風間がいきなり謝った。

「カシラ、ごめん、矢島の写真は手に入らなかった」

「雪さんに無理なら、他の誰にも無理だわ。ありがとう」

「ふたりは付き合ってたかもしんねえって」肩をすくめて言う。

「ズバリ、宮本の彼女じゃなかったの?」

「うーん」と風間が腕を組む。「宮本の友人に当たってみたけどさ、『せっかく彼女ができたのに全然やらせてくれない』とか、宮本が嘆いてたって。相当フラストレーションが溜まっている様子だったと」

「あら、そう。ともあれ、その女なら宮本の部屋に自由に出入りできたわね」

「うん」風間が急に下品な笑みを噛み殺した。「自宅に来てくれる、料理を作ってくれる、肌を露出させる、でもやらせてくれないって、まるで蛇の生殺しじゃん…ククク」

ふと、風間の言葉に冗談以上の内容を感じた。何らかの意図があるように思えた。

それに、吉川が自分の手を汚さずに、この自称矢島裕子を操って、姉を殺した宮本に復讐を遂げた…という推理は成り立つ。

だが、その犯人として陥れる相手として、吉川はどうして河野正志を選んだのだろうか。いくら復讐のためとはいえ、アカの他人を冤罪に陥れることは、さすがに寝覚めが悪いはずだ。いったい、どういうことなのだろうか?

(そもそも、なぜ陥れる相手が河野でなくてはならないのか?)

もしや「必然」なのか。仮に、河野・吉川の関係と「対」になっているとすれば…。

「ねえ、義雄くん、中島博さんの娘の写真を手に入れてくれない?」

裕美は古賀刑事と一緒に車で事件現場に向かっていた。神奈川県K市にあるアパートの部屋を見学させてくれるよう、頼みこんだのである。

「実は、正直いうと、われわれもまったく疑問がなかったわけじゃないんです」ハンドルをさばきながら古賀が口を開いた。「鑑識が調べてみると、ドアのノブやテーブルなどに、指紋を拭き取った痕跡がたくさんありました。なのに、なぜ肝心のコップだけ拭き忘れたのか、われわれも悩みました。しかし、状況から見て、コップが被害者の所有物で、さらに被害者の指紋まで付いていたことから、やはりド忘れしたのだろうと結論しました」

「警察の悪い癖ね、事実をありのままに受け入れるのではなく、つい己の都合のよいように恣意的に解釈してしまうことは」

青年刑事が眉をしかめてチラリと裕美のほうを見やった。

「それに、一番気になったのが」といって、いったん前方に注意を向けるかのように数秒ほど沈黙した。「被害者の遺体のツメから発見された、誰のものか分からないDNAです」

初耳だ。裕美も驚いた。思わず背もたれから身を起こす。

「なぜそんな重要なことを今まで?」

「重要? 果たして、そうですかねえ」ハンドルを切りながら言う。「他人のDNAなんて比較的簡単につくものです。触ったとか、くしゃみを浴びたとか。なにぶん、河野の犯行を裏付ける物証のほうが圧倒的でしょう」

たしかにそうだ。証拠の質と量が違いすぎる。河野が残したそれと比較すれば、ツメの間にある誰のものか分からないDNAなど、相対的に無視される程度のものでしかない。

「誰のものか分からないということは、一応はデータベースと照会したのね。でも性別くらいは分かるでしょう?」

「女でした。少なくとも記録にある前科者じゃないですね。でもこれでは漠然としすぎていて、ほとんど意味がありません」

「毛髪もいろいろあったのね」

「ええ。宮本のものでも河野のものでもないものが数人ほど」

「別人のものは、よく調べてないんですね?」

「調べる必要がありますか? どの事件現場だって無関係な毛髪が出てくるものです。こういった場合、容疑者の髪が発見できれば、それで捜査として十分なんですよ」

その「容疑者」像が悪意ある第三者から植え付けられたものでないという保証がどこにあるの、という意味の言葉が喉から出かけたところで、車が目的地に着いた。

宮本が住んでいた二階建のアパートは、白地のきれいな軽量鉄骨造だった。管理会社への事前のアポで、当該部屋だけ開錠してもらっている。

古賀の案内で宮本の部屋に入ってみた。荷物がそのままだ。その理由を刑事が説明した。宮本は変わった家賃の支払い方をしていたという。契約の際に二年分の家賃を前払いすることで、保証人を免除してもらっていたのだ。頼れる者がいない彼なりの苦肉の策だったのだろう。明け渡しの条項に賃貸人死亡の項目がないおかげで、契約が切れる何カ月も先まで荷物を片付けることができないという、笑えない事態になっているらしい。

裕美は1LDKの室内をじっくりと見て回った。思いのほか小ぎれいだ。キッチンにはIHクッキングヒーターが据え付けられている。

「刑事さん、死体発見時には、部屋の照明は点灯していたのですね」

「ええ、そうです」

「その他には?」

「他には…ええっと、エアコンも点けっぱなし。あとは、風呂場の換気扇も回っていました。それから…それくらいかな」

エアコンを見た。暖房設定だ。どうやら、ガスの使用は給湯のみらしい。

次に、ベッドを見て、おやっと思った。敷布団がむき出しのままだ。しかし、掛け布団のほうにはカバーがある。前者のシーツは洗濯にでも出したのだろうか。

「シーツは、はじめからなかったのですか?」

「ええ。使っていなかったんじゃないですか」

しゃがんで、敷布団の模様をじっと見る。ほとんど汚れていない。一方、掛け布団のカバーのほうも見て、両者の汚れ具合を比較した。

ふと、「矢島裕子」という、偽名を使っていた女のことが脳裏をよぎった。風間の聞き込みによると、品行方正な人となりが浮かび上がってきたという。

「死亡推定時刻の少し前に、ドタバタとここで争ったような音を、近所の人たちが聞いたんですってね?」

「ええ、ほんの十数分ほど前のことです」

裕美はいったん廊下に出た。ドアのすぐ脇に、パイプシャフト用の開閉扉がある。しゃがんで、そこを開いてみた。ガス・水道管がある。マイコンメーターが点灯中だ。

「どうしてそんなところを?」古賀が不思議そうに訊いた。

「刑事さん」振り返った。「ちょっとお願いしていいかしら?」

裕美は古賀に対して、ガス会社とコンビニについて要調査である旨を告げた。

鏡が中島博さんの娘の写真を手に入れてきた。名前は中島香織。とても清楚な印象の女性だ。彼女こそ、かつて河野正志が犯した事件の被害者の娘に他ならない。

裕美はその写真を持って、宮本が参加していた絵画教室に自ら出向いた。

「ええ、写真は少し若いですけど、この人が矢島裕子さんですよ」

会の誰もが口々にそう断言した。

自称矢島裕子は、やはり故中島博の娘であった。ついに事件の真相が見えた。

「これは交換犯罪よ」

裕美は社のみんなに己の推理を語ってきかせた。中島香織は父を殺した河野正志への復讐を、そして吉川基樹は姉を殺した宮本進への復讐を決意していた。二人は何らかの形で知り合い、復讐の対象を交換することを思いついたのだ。

道理で、吉川が河野を陥れる動機が分からないわけである。直接、両者に繋がりはないのだから。しかも、宮本が毒殺される時間帯には、しっかりとしたアリバイも作れる。

河野と宮本は、同じ少年院出身とはいえ、やはり互いに知己はなかった。刑期がわずか数週間ほど重なっていたのは、本当に単なる偶然だったのだ。

おそらく、真相はこうだ。吉川基樹と中島香織は、まず匿名のプリケイを手に入れ、偽名を考えた。それから吉川は、河野正志が働いている工場を見つけ出し、その求人広告を探した。それは例の小岩の人材派遣会社のものだった。吉川は「草川信行」になり済ますと、その広告に応募し、まんまと同じ会社の期間工として就業することに成功した。そして同じ寮へと入り、次第に河野に接近していった。一方、中島香織は、宮本進が参加している絵画教室を見つけ出すと、「矢島裕子」と名乗って入会した。こうして、偶然を装って宮本と知り合い、ついには部屋に出入りできるほど、親しい間柄へと発展させていった。

ただし…である。

この推理が成立するには、吉川基樹と中島香織がどこかで接触していなければならない。その証拠を押さえない限り、単なる推測の域を出ない。

だが、しばらくして、吉川を尾行していた藤井が成果を上げた。

「お嬢! とんでもないものを見つけてしまいやしたぜ!」

藤井が目撃した様子はこうだ。都内H市の公民館で二週間に一度、開かれている市民活動の会があり、吉川は欠かさず参加している。そこに中島香織が現れたという。

「ついに両者は繋がったわ!」裕美は興奮して叫んだ。

中島香織は苦悩の最中にあった。

果たして、自分は正しかったのだろうか? 己の良心は、よもや答を知っていた。「間違っている」である。これまで頭脳があらゆる自己正当化の論理を紡ぎ出してきたが、「内なる声」は一時的にしか屈服させられなかった。それは何度倒しても、より強大になって蘇ってくるのであった。今では勢力が逆転し、彼女の頭脳のほうが陥落寸前だった。

朝、目が覚めて、慌しく職場に向かう間やOLとして働いている間は、余計なことを考えずにすんだ。しかし、いざ帰路につくころになると、苦悩が頭をもたげてきた。

(自分はどうしてこんな人生を歩むことになってしまったのだろうか。神はどうしてこんな試練を私に与えたのだろうか…)

その日も、帰宅者で混雑する駅の構内で、独りそんなことを考えていた。ぼんやりしていたせいだろう、誰かとぶつかった。

目の焦点が結ぶと、申し訳なさそうに頭をかく女の姿が眼前にあった。

「わりい、わりい、急いでたもんで」

革ジャンを着た背の高い女は、それだけ言うと、足早に去っていった。

「あのう…」

香織のほうも謝りたかったが、機会を逸してしまった。

それにしても、一瞬、髪の毛を引っ張られるような感覚がしたのは、不思議だった。

夜の九時前。都内H市の公民館で二週間に一度、定期的に開催されている「犯罪被害者の会」が終わったようだ。ホールから見上げると、人々がどやどやと階段を下ってくる。

会の代表へは、会員の二人を引き止めておくよう、事前に申し入れてあった。

裕美は引田警部・古賀刑事らと顔を見合わせた。互いに無言で頷くと、階段を上っていった。

先まで会合が開かれていた二階の会議室に入る。眉間に皺を寄せた会の代表者が真っ先にこちらのほうを振り返った。残るふたりは怪訝そうな顔をしていた。

「お話があるというのは、この方たちです」代表者は会員のふたりに向かって言った。「それでは、私はこれで」

彼は去り際、引田警部に目配せして退室した。警部も頷いた。残されたふたりはすでに顔面蒼白に近かった。すべてを察した様子だった。

今回、裕美がこの場に同席させてもらった理由は、彼らにどうしても言いたいことがあったからだ。引田は「分かりました」といって、実に素直に同意してくれた。

中島香織のほうが観念した様子で何かを言おうとしたが、吉川基樹が手を水平に伸ばし、ジェスチャーでそれを制した。

「われわれに何か御用ですか?」

気丈にもシラを切る男に対して、古賀刑事が懐に手を入れながら一歩、前に踏み出した。

「宮本進さん毒殺事件の容疑者として、あなた方を逮捕します」

少なくとも男のほうは、逮捕状に何ら動揺する様子はなかった。

「いったい、なんのことだか、さっぱり分からない。われわれを逮捕する前に、きちんと説明してもらおうか?」

目に敵意の光を宿した男は、毅然としてそう言い放った。裕美は引田に目配せした。任せたというふうに、警部は頷いた。裕美は一歩前へ出た。

「私が説明しましょう」

「はじまりは、まさにこの場所――犯罪被害者の会でした。ここであなたたちふたりは知りあった。同じ少年犯罪の被害者遺族ということで、互いの境遇に同情し、共感した。ふたりとも今の刑罰や遺族へのサポートのあり方についてやりきれない思いを抱き、加害者への報復感情を抑えることができなかった。吉川基樹さんは、姉を強姦して殺した宮本進への憤怒を、中島香織さんは、父を殺した河野正志への憤怒を抱きつづけた。

やがて、ふたりは復讐という共通の目標で結びつく。しかも、互いに復讐の相手を交換することを思いつた。そうすれば、万一、動機を理由にした捜査の対象になっても、吉川さんは対宮本で、中島さんは対河野で、それぞれアリバイがある。

ふたりは、宮本さんを毒殺し、河野さんをその犯人に仕立て上げる姦計を思いついた。そのためには巧みに両者に近づかなければならなかったが、偽名と匿名のプリペイドケータイを使うことで本性がばれないようにした。運もふたりに味方した。宮本さんと河野さんは偶然、同じ少年院出身であり、収監期間もわずかだがダブっていた。警察がふたりを顔見知りと判断しても不思議ではなかった。

かくして、吉川さん、あなたは草川信行と偽名を名乗り、河野さんに近づくことにした。当時、河野さんは自動車部品工場の派遣社員として千葉県で寮生活をしていた。あなたは同じ派遣会社の募集広告を探し出して、同じ寮に入ることに成功した。そして、巧みに河野さんに接近し、次第に仲良くなり、飲み友達に収まった。

一方、中島さん、あなたは矢島裕子と偽名を名乗り、宮本さんに近づくことにした。あなたは宮本さんが参加していた絵画教室の会に入った。そして、徐々に親しくなり、最終的に男女の関係一歩手前までいったところで踏みとどまった。

吉川さんが河野さんを陥れるのは、た易かった。ふたりは、仕事を終えたあとや休日のたびに、互いの部屋に行き来しては飲む仲です。河野さんの指紋と口跡の付いたコップを手に入れることくらい訳はない。新品のコップを使わせ、酔って寝込んだ隙を見計らって、手袋をはめた手で回収すればいい。同じような手口で、犯行の数日前に河野さんのケータイを盗むことも不可能ではありません。髪の毛ならばもっと簡単に手に入れられる。

こうして、吉川さんは、ビニール袋に入れた河野さんの『使用済みコップ』と、同型の新品コップ、工場から盗んだ青酸化合物、河野さんの髪の毛、そして電源を切った河野さんのケータイなどを、順次、中島さんに手渡していった。

犯行は休日の前の日が選ばれた。河野さんによると、吉川さんが作業中に『明日はふたりとも休みだからたくさん飲もう』という意味のことを言ったそうですね。実際に、一升瓶を掲げて河野さんの部屋を訪れた。ふたりはそこで夜の七時ごろから酒盛りを始める。だが、目的は河野さんを酔い潰すことにあった。おそらく、万一のために、隙を見て睡眠薬も飲ませたのかもしれません。こうして、河野さんを二日酔いと睡眠薬で翌日の昼まで動けなくした。むろん、吉川さんのほうは巧妙に酒量を抑えていた。

一方、同じ時間帯、神奈川では、中島さんが宮本さんの自宅アパートを訪ねていた。ふたりもテーブルを囲んでビールや焼酎などを嗜んでいた。そして、夜の十時半ごろ、中島さんは隙を見て宮本さんのコップに青酸化合物を入れた…」

その場は針一本落ちても響くくらい、静まり返っていた。吉川基樹と中島香織は、苦しそうに胸を上下するばかりで、酸欠に陥っているようにすら見えた。

裕美は胸のつかえを吐き出すかのように軽く深呼吸すると、話を続けた。

「おそらく、宮本さんの眼前でわざわざ新しいコップを用意してみせると疑われる可能性もあることから、毒殺に用いたのは宮本さんが最初から使っていたコップでしょう。本人はすぐに苦しがって床に倒れた。それを見届けるや、中島さんは手袋をはめる。そして持参したバッグから、ビニール袋に入れた例の二つのコップを取り出した。

まずは河野さんの『使用済みコップ』です。これが元から宮本家にあり、かつ宮本さんが取り出したように見せかけるために、中島さんは倒れている宮本さんに近づき、コップの周りにいったん彼の指を付けた。これでそのコップには、河野さんと宮本さんの両方の指紋が付いていることになる。これをテーブルの、自分の座っていた側に置き、そこにあった飲み物を入れておいた。

次に、新しいほうのコップは、倒れている宮本さんの手や口元に何度も押し付けた。そこに、直前まで宮本さんが飲んでいた焼酎と毒物を入れなおし、いかにも宮本さんの手から滑り落ちたというふうに床に転がした。一方、ふたりが当初から使っていたコップは、シンクで洗い、棚に戻しておいた。さらに、数本の河野さんの毛髪をテーブルや椅子の周辺にばら撒いた。

最後は後始末です。中島さんは部屋の中で自分が触ったと思われる個所をきれいに拭いてまわった。それから宮本さんのスイス製高級腕時計を盗むと、ドアに鍵をかけ、静かにアパートを出た。鍵は持って帰ってから処分したのでしょう。出たところで、河野さんのケータイを取り出して電源を入れた。また、自分の匿名プリケイを取り出し、吉川さんの匿名プリケイに連絡を入れた。それを受けて、コンビニにいた吉川さんは、近くの公衆電話ボックスに行き、そこから中島さんの持つ河野さんのケータイへと連絡を入れた。

コンビニの防犯カメラの録画には、ケータイに連絡が入ったのを確認した吉川さんが、いったん店を出るシーンが残されていました。そして、通話記録によると、この直後、店の近くの公衆電話から、河野さんのケータイに連絡が行っている。通話終了後、吉川さんはまた店に戻り、十二時ごろまで雑誌コーナーで粘った。この方法によって、あなたたちは、犯行直後、河野さんがさも現場近くにいたように見せかけた。そして、電波を受信した痕跡を残したあとは、その履歴だけを消し、再びケータイの電源を切った。

かくして、宮本さんが毒殺された自宅には、河野さんの指紋と毛髪が、また事件現場のすぐそばには、河野さんのケータイの受信記録が、それぞれ残された。

事件後、中島さんは吉川さんと会い、宮本宅からの『盗品の腕時計』と『河野さんのケータイ』を手渡した。吉川さんは再び河野さんと彼の部屋で飲む約束を交わした。その際、再び彼を酔い潰した。その隙に盗品を押入れの中に隠し、再び電源を入れたケータイをテレビの裏に置いておいた。こうすれば、家宅捜索の際に盗品は押収され、逮捕時の身柄拘束の際にケータイは押収される。どちらも犯行を裏付ける有力な証拠品となる。

ちなみに、同じ日の吉川さんこと草川信行には、十分なアリバイがある。犯行時間帯に近所のコンビニの防犯カメラに録画されているし、その前後には寮で目撃されている。仮に河野さんの同僚の正体が草川ではなく、宮本さんに恨みをもつ吉川さんだとばれたところで、アリバイ自体はビクともしない。

こうして、ふたりは、さも河野さんが宮本さんを毒殺したように偽装した。あとは警察が宮本さんの変死体を発見するのを待つばかりです。捜査が始まれば、鑑識が発見したコップの指紋や毛髪から、すぐに河野さんが捜査線上に浮かぶ。しかも、通信記録から、犯行直後、河野さんのケータイが現場のすぐそばで受信していた事実が判明する。犯行時間帯の河野さんのアリバイも全然証明できない。毒殺に使われた青酸化合物は、河野さんの勤める自動車部品工場で使用されているものとまったく同じ成分。河野さんの部屋をガサ入れしてみると、押入れからガイシャの盗品までが発見される…。捜査当局としても、宮本さん殺害事件の容疑者として河野さんを逮捕するのは、当然の成り行きでしょう。

まさに完全犯罪です。いや、あまりに完全すぎた。というのも、河野さんの逮捕を確実のものとするため、あなたがたは宮本さんの腕時計を盗んで河野さんの部屋に隠すような真似までした。ですが、これが蛇足だったんです。これを聞かされて、さすがの河野さんも『自分が誰かに嵌められたのではないか』と気づいたんです。罠をより完璧にしようとしたことが、かえって仇になったといえるでしょう」

吉川基樹と中島香織は震撼していた。しばらく無言で裕美の顔を凝視する。息を呑んだまま固まっているふたりの様子からすると、彼らの犯行の動機から手法までを、裕美がつぶさに暴露してみせたことは明らかだった。

やがて、顔面蒼白となった中島のほうが何か言いたそうに、あるいは指示を待つように、隣の吉川を見上げた。彼女を守らなくてはという義務感からか、それとも自己防衛のなせる業か、それまで受身一方だった吉川のスイッチが突然、切り替わった。

「まったく、馬鹿げているっ」吉川は急に怒鳴った。「何もかも憶測に過ぎない。そちらが勝手に捏造したストーリーだ。第一、証拠と呼べるものが何もないじゃないか。コンビニの防犯カメラの記録とやらだって、結局は何も証明していない!」

「君たちが犯人だという証拠を見せればいいんだね?」

裕美の斜め後ろにいた引田警部がぐいと身を乗り出した。

「そ、そうだ。ぜひとも見せてもらおうじゃないかっ」

吉川は刑事の冷静な口調に内心戸惑いながらも、恐怖心を悟らせまいとするかのように、攻撃的に目を剥いてみせた。警部が上着のポケットに手を突っ込んだ。取り出されたのは小さめのビニール袋だった。一見したところ、何も入っていない。

「中島さん」と引田が言うと、香織がびくっとした。「これは宮本さんの部屋で見つかった女性の髪の毛だ。調べてみたら、あんたのものだった」

中島香織の顔にみるみる恐怖が浮かんだ。吉川もぎょっとしていた。

吉川基樹は思わず唇を噛んだ。

しかし、これが青天の霹靂というほど意外な話かというと、必ずしもそうではなかった。なぜなら、これは内心危惧していたことの一つだったからだ。

というのも、仮に部屋に掃除機をかけると、河野の毛髪だけが床に落ちている状況がいかにも不自然で、作為的になってしまう。しかも、掃除機をかけたとしても、床以外の場所にある毛髪まで回収することは難しい。つまり、結局、どうあがいたところで毛髪は鑑識に発見されてしまう。それならばいっそうのこと、何もしないでリスクを引き受けた方がいいというのが、ふたりの結論だったのだ。

どうせ鑑識に分かるのは宮本と河野の毛髪だけで、それ以外の毛髪に関しては、特定されることはまずない。つまり、警察が中島香織を容疑者として疑い、彼女のDNAを何らかの方法で採取でもしない限り、部屋内で回収された毛髪の中に彼女のものが紛れ込んでいる事実が明るみになることは決してない、と踏んだのだ。よって、一応はリスクであるが、無視できる類いであるという結論に至っていた。

だが、警察はまさに彼らが針穴サイズとタカをくくっていた弱点から攻め込んできた。いったいどんな手を使ったか分からないが、彼女のDNAサンプルまで採取したらしい。いや、それ以前に、宮本の部屋に出入りしていた者として、彼女のことを特定したらしい。

しかし…と吉川は思った。これは想定済みだった。当然、対抗言論も考えてある。備えあれば憂いなしというが、自然と不敵な含み笑いが浮かんでくるのを抑えきれなかった。

「ははは…」突然、吉川は肩を揺すって大笑いを始めた。「こいつはとんだ迷探偵(ルビ)ときたもんだっ」

「な、なにがおかしい?」

今度は引田警部のほうが感情的になった。

「これが笑わずにいられようかっ」吉川はさも滑稽だと言わんばかりに嘲笑の度を深めた。「まったく、とんだお笑い種だ。こんな茶番を見せ付けられるとはな」

「物的証拠が茶番だというのか?」と警部も気色ばむ。

「証拠といったところで、それは彼女がアパートに出入りしていたことを証明しているに過ぎず、犯行そのものを証明しているわけではない」いきなり挑発的な視線を刑事たちに向けた。「ははん、読めたぞ。どうやら、とにかくおれたちを逮捕して、拘留中に怒鳴ったり殴ったりしながら精神的に追い詰め、証拠を吐かせようっていう魂胆だな。いわゆる自白捜査ってやつだ。それが決定的な物証を欠いているあんたらの企みに違いない」

刑事たちの間から、無礼な、邪推だ、といった抗議が上がった。だが、吉川は動じる気配がなく、再び大笑いした。

「ふん、こいつは傑作だ」余裕の笑みを浮かべて、刑事たちを順番にねめつけた。「しかし、警察も堕ちたもんだな、未だにこんな捜査をやっていたとは。いや、それとも神奈川県警だけか、ここまでレベルが低いのは」

「われわれ県警を愚弄する気か?」警部が顔を赤くして怒鳴った。

「いいだろう」吉川は勝ち誇ったように両手を突き出した。「どうぞ逮捕してくれ。どうせすべては単なる推測の域を出ないのだから。だが、あらかじめ忠告しておくが、おれも彼女も必ず黙秘を突き通す。こんな杜撰な捜査で人を有罪にもっていくことは百%不可能だ。検察が起訴を見送るに決まっている。不起訴になったら、弁護士とマスコミを大勢引き連れ、きさまらに猛烈に反撃して、恥をかかせてやる。県警のお偉方に土下座させてやるからなっ」

吉川は轟然と開き直っていた。刑事たちが歯軋りしながら、そんな彼を取り囲んでいる。

「まだ話は終わっていないわ」

吉川がいきなり刺すような視線を、そう冷静に言った裕美に向けた。

当初から気に食わない女だ、と吉川は思っていた。何もかも見透かしたような顔をし、彼が防戦から攻勢に切り替えても、なおひとり冷静さを保っている。それどころか、時々、哀れむような目さえしている。それが妙に癪に障った。

裕美が無言で引田のほうを見、頷いた。怒りでやや赤らんだ警部も頷いて応えた。

「実はまだあるんだ。こっちのほうが決定打だ」

「なにぃ?」

「宮本さんの遺体のツメには、誰のものか分からない皮膚のDNAが残っていた。誰かを少し引っかいてしまったのだろう。先日、毛髪同様、それが中島さんのものだと判明した」

吉川は一瞬、驚いた表情を浮かべた。だが、内容を消化していくにつれ、その顔にはすぐに安堵の色がにじみ、やがてそれは軽蔑へと変わった。

「あんたらも本当に分かんない人だなあ。おれがさっきから言っているのは、彼女の犯行を証明する決定的証拠を見せてくれということだ。宮本の部屋から中島さんの髪の毛が発見された、宮本のツメから中島さんの皮膚片が発見された…仮にそれが事実としても、だからどうだというんだっ?」

「そうねえ…」裕美が涼しげに言った。「せいぜい、中島さんは宮本さんと知り合いだった、部屋に出入りするほど親しい間柄だった、宮本さんが何らかの形で彼女に触れた…ってことかしらね?」

「そうだ!」吉川が強く頷いた。「自分たちでも分かっているじゃないか。証明できるのはたったそれだけだ。『毒殺した』ということが証明できるはずがないっ」

「ところが、調べた結果、ツメに皮膚片が挟まったのが毒殺される直前だったことが分かったのですよ。よって、死亡推定時刻のころ、中島さんが宮本さんと一緒にいたということの証明になるのです」

吉川は一瞬、目を上にやって考えた。そしてすぐに眉をしかめた。

「馬鹿な? なぜそんなことが分かる? 常識で考えても、分かるはずがないじゃないか。DNAに時刻でもプリントされていない限り、そんなことが分かるはずがない」

「たしかにDNAをいくら調べてもそんなことは分かりはしないわ」

「ほらみろ、ふん、なにが決定打だ」吉川は拳を握って、隣の女性を振り返った。「香織さん、これは誘導尋問だよ。うまく言いくるめて、こっちの言質を引き出そうと目論んでいるに過ぎない。姑息な作戦だ、引っかかっちゃ駄目だよ」今度は引田警部を睨んだ。「これは警察のペテンだ。これ以上は時間の無駄だ。逮捕状だかなんだか知らんが、あんたらは出直すべきだ。おれたちは帰らせてもらうぞ」

そう叫んで吉川が中島の手をとった瞬間、裕美があからさまに大きなため息をついてみせた。それは明らかに吉川の神経に触ったらしく、ピタリと動きを止めた。

「つかぬ事をうかがいますが、おふたりのところへは毎月、ガスの検針員が明細書を発行するために訪ねてきますか?」

「な、なに?」吉川が思わず訊きかえし、次に不審そうに睨みつけた。「なんでやぶから棒にそんなことを訊く? 事件といったい何の関係があるというんだ?」

だが、思いも寄らない質問のせいか、口調とは裏腹にかえって動揺している。

「うちは毎月、いらっしゃいますわ」

中島が淡々と答えた。その目は悲哀を帯び、半ば充血していた。

「ほほう、そうですか」裕美の口調もまるで天気の話でもするかのようだ。「実は、殺された宮本さんのところには、検針員はうかがっていなかったみたいですよ」

ふたりは、ますます訳が分からないという表情で互いを見た。

「いったい何が言いたいんだ、あんたは?」吉川が苛立たしげに振り返った。

「オール電化でなければ、どこのご家庭にもガスメーターがありますよね。あれはマイコンメーターといいまして、言葉の通りコンピュータ制御になっています。ガスの使用状況を二十四時間監視していて、何か危険を察知すると警報を出したり、供給を遮断したりします。ほら、地震が起こったりすると、勝手にガスが止まることがあるでしょう」

「あんたはガス屋の販売員か?」

「最新型のものは通信機能が付いておりまして…」裕美の営業員風口調にますます磨きがかかった。「ガス会社のホストコンピューターと常時、接続しています。通信回線を利用したこの自動検針システムでしたら、これまでのように検針員はいりませんし、日別・時間帯別需要などの細かな情報を活用して、ユーザーに対して新たなサービスも提案できるというわけです。宮本さんのアパートにあったのが、まさにその最新型でした。時間ごとの使用量が一定期間、ガス会社のほうで記録されるようになっているんですよ」

突然、中島香織がぎょっとした表情を見せた。

「私はね」裕美の口調が元に戻った。「先日、宮本さん宅にお邪魔したんですよ。暖房はエアコンで、調理はIHクッキングヒーターが使われていました。つまり、ガスの使用は給湯のみなんです。そこで、ガス会社のホストコンピューターに残っていた使用状況の記録を調べたところ、宮本さんは事件当日の夜の十時ごろ、ガスを大量に使用なさっていました。この意味するところは、あなたならお分かりですよね、中島さん?」

中島は眩暈を覚えたのか、急によろめき、机に手をついて身体を支えた。吉川が慌てて彼女の両肩を掴み、心配そうに介抱した。そして、椅子を引き、彼女を座らせた。

「つまり、この時刻に彼はシャワーを浴びていたのです。遺体のツメにあなたのDNAが残っていたということは、宮本さんがあなたに触れたのはシャワーを浴びた後であることを意味します。よって、死亡推定時刻の直前、彼の部屋の中にいたのは、河野正志さんではなく、中島さん、あなたというわけです」

中島は顔を伏せて、苦しそうにしていた。吉川は相変わらず裕美を睨んでいたが、その眼光はすっかり勢いを失っていた。

「厳密には」と、引田警部が補った。「ガスの使用が停止したのが夜十時十分ごろだ。それから十数分後に、近隣の人たちが宮本さんの部屋で人が争うような声や物音を耳にしている。そして十時半ごろ、彼は毒を飲んで急死した。すべては連続しているんだ」

「しかも、シャワーを浴びるように彼に頼んだのは、あなたですね、中島さん?」

中島がすっと顔を上げた。裕美を見上げる目は、哀願するようであった。

「理由は、宮本さんを性行為の強要に駆り立てるためです。おそらく、あなたは宮本さんを毒殺する決心が付かなかったに違いない。いかに父親の仇である河野さんを一生刑務所に閉じ込めておくためとはいえ、宮本さんは自分とは直接関わりのない人間です。たとえ彼が憎むべき元強姦殺人犯であったとしても、毒殺することはためらわれた。殺人と意識すると、どうしても実行できなかった。そこであなたのとった方法が、自身が被害者になることだった。そうすることによって、あなたは自身の犯行を正当化しようとした。

あなたと知り合って以降、宮本さんの葛藤は並大抵のものではなかったでしょう。いくら親しくなっても、あなたが性行為に応じようとしない。彼には元強姦殺人犯としての十字架がある。もしかして彼女は自分の正体を知っているのではないか、それで拒んでいるのではないか、とまで悩んだことでしょう。

それを承知で、あなたは宮本さんに性的な期待をもたせ、その上で裏切り続けた。わざわざ宮本さんのフラストレーションを高めるような残酷な真似をしたのは、極限まで性的な飢餓状態に彼を追い込み、最終的に暴力的な手段に訴えさせるためです。そう、彼をまんまとレイプ犯に仕立てあげることこそ、あなたの意図だった。

それが事件当日に起こった出来事でした。その日、あなたは確実に宮本さんをレイプへと駆り立てる方法をとった。まずは適度に酔わせ、理性を弱めた。さらに『シャワーを浴びてほしい』と頼んだ。当然、ようやく合意を得たものと確信し、彼はセックスを期待する。そこで拒否するとどうなるか。どんな忍耐強い人でも裏切られたと感じて、ついにフラストレーションを爆発させてしまうことでしょう。酒の勢いもある。まさにレイプ犯に仕立て上げるための最後のダメ押しです。

実際、宮本さんは自分を抑えきれず、結局はあなたを強姦してしまう。あなたの狙い通りにね。そしてあなたのほうは、レイプされることによって、彼に殺された被害者の吉川正美さんと、初めて心理的に同化することができた。彼女の復讐を自分自身の復讐とすることで、ようやく毒殺を実行できる心理へと到達できたのです。レイプされた直後だからこそ、あなたも迷わず殺人をやり遂げることができた。宮本さんのベッドのシーツが無かった理由も、そこがレイプの現場だったからです。証拠品になることを恐れて、あなたが剥がしてバッグに入れて持ち帰った、というわけです…」

その場は再び震撼した。中島香織は両手で顔を覆うと、むせ始めた。

「そんな馬鹿な…」

吉川基樹が呆然として言った。その目はほとんど焦点が定まっていなかった。

「おふたりとも。被害者として、殺したいほど相手を憎んでいる気持ちは察しますわ。しかし、その相手にも家族がいるのです。私裁に訴えれば、あなたたちが今味わっている同じ苦しみを、彼らにも味わわせることになる。憎んでいる相手と同じことをして、憎んでいる相手と同じレベルに落ちて、それで本当に満足なんですか。あなたと同じ苦しみを味わう人を増やすことが、本当にあなたたちの望みなのですか。そんなことをしても、誰よりも殺されたあなたたちの身内の方が喜ばないのではないでしょうか…」

中島は完全に机に伏せ、泣き崩れていた。裕美は彼女のそばに近寄ると、その肩にそっと手を置いた。

「香織さん。河野正志さんね、少年院を出た後、本当に改心したのよ。彼はあなたたち遺族のためにも、自分の母親のためにも、どんな小さな罪も犯していないわ」

「ええ…ええ…」伏せたまま、中島が頷いた。「河野は…毎月の給与から…数万円の賠償をずっと…私たちに振り込んで…いました。謝罪の手紙も…月に一度、必ずよこしてきました。で、ですが…嫌悪のあまり、いつも破り捨てていたんです…」

しばし話せる状態ではなくなった。誰もが彼女の言葉の続きを待っていた。

「…でも、でも…この前、届いた時、ふと、自分が殺した宮本さんのことを…思い出しました…。それで、はじめて…読んでみようかと気になったんです…。そして、読んだ時、河野と同様、宮本さんも…また内心で苦しんでいたのではないか…と想像し、自分はたいへんなことを…しでかしてしまったのではないかと…罪の意識をお、覚えました…」

中島が突然、くしゃくしゃになった顔を上げた。

「すべて…すべて、この方の言った通りです…」赤い目で裕美を見、それから引田警部を振り返って懇願した。「どうか、どうか、私たちを逮捕してください…」

警部が動こうとしたその時だった。

「ちきしょう!」吉川が真っ赤な顔をして叫んだ。「本当はおれたちだってこんなことはしたくなかったんだ! 国が犯罪者をしっかりと罰し、苦しみでのた打ち回る被害者や遺族を精神的にも物質的にもサポートしてくれるなら、おれたちだって復讐に駆り立てられたりはしなかった! だが、現実はどうだ? 被害者は殺され損じゃないか! 大半の犯罪者も反省なんか少しもしていないぞ! その証拠に再犯率が高いじゃないか! あいつらは逮捕された不運を悔やむだけで、自分が犯した罪なんて自覚していないし、元から罪の意識なんてないんだ! ところが、世間で幅を利かせているのは、そんなやつらの人権ばかり擁護して、遺族の傷口に塩を塗るような偽善者連中ばかりだ! そのせいで、今のおかしな法律や制度は永遠に変わらない! だから、やつらには自分が他人にしたことと同じ目にあわせて、犯罪が割にあわないことを身をもって思い知らせてやる他ないんだ!」

一気に叫び終えると、吉川は虚空を睨み、ぜいぜいと肩で息をした。

「あとは署で聞こう」

引田警部が手錠を取り出した。

真犯人が捕らえられたため、河野正志は拘置所から釈放された。母の悦子は、堀の外で息子と再会できたことを、涙を流して喜んだ。

その翌日、ふたりそろってIHQ社を訪ねてきた。河野正志は見違えるようにパリッとしたスーツに身を包み、頼もしい青年へとカムバックしていた。

「本当に、皆様のおかげで…」

母の悦子は、裕美に菓子折りを手渡すと、目にハンカチを当てながら、何度も何度も頭を下げた。正志も「ありがとうございました」と言って、直角に頭を下げた。

帰っていくふたりの後ろ姿を窓から見送ると、裕美は事務所内を振り返った。

「あのふたりなら、もう大丈夫ね」

誰もが微笑みながら、頷いていた。

「こうして、依頼者が喜んでくれるっつのは、やっぱ嬉しいもんだね」

風間が言うと、腕を組んだ藤井がうまい酒に舌鼓でも打ったかのように頭を傾けた。

「いやーっ、探偵冥利に尽きるってもんよ」

「今回の事案だと、冤罪を晴らすといっても、弁護士の法廷闘争だけじゃ到底無理で、足を使って実際に証拠を集めるわれわれみたいな人間がどうしても必要でしたからね」

鏡が補足すると、またみんなが満足げに頷いた。

「あらあら、全然やる気がなかった人たちの言葉とは、とても思えないわ」

裕美が皮肉ると、三人が頭をかいて照れた。

「でも、今回はちょっと考えさせられたわね」裕美はふとため息をもらした。「昔の殺人にまつわる怨念が、また新たな殺人を引き起こしたわけでしょう」

「被害者の遺族の人たちを復讐に駆り立てたのは、きっと法制度の問題でもありますね」大塚がメガネを直した。「被害者の人権やその遺族の人たちの感情というものをもっと考慮していかないと、同じような復讐劇はまた繰り返されるかもしれませんよ」

専務の言葉に、誰もがうーんと考え込んだ。

「人は誰でも過ちを犯すわ」裕美は窓の外を見やった。「でも、被害者に償える罪と、償いきれない罪がある。人を殺してしまったら、償う相手すらいないという意味で、取り返しがつかないわ。たとえ、法律が許した後でも、遺族の心の傷は癒えない。殺人を犯した者は、たとえ出所後に一度も過ちを犯していなくとも、過去の罪を忘れることは許されないし、また贖罪は、少なくともその気持ちだけは、死ぬまで持ち続けなければならないわ」

みんながまた「うーん」と唸った。

その重たくなった空気を吹き飛ばすかのように、鏡が明るい口調で切り出した。

「それはそうと、今度のことで、神奈川県警の捜査一課には、だいぶん貸しを作りましたね」

裕美は県警の態度を思い出し、急にプリプリと憤慨し始めた。

「本当はあんな生活の余裕のない人からじゃなく、神奈川県警に請求書を回したいくらいだわ。彼らも本当に現金なものよ。会った時と別れるときじゃ、態度が百八十度違うんだから」

彼女のあまりに怒った様子を見て、幾人かがぷっと吹いた。

今回の誤認逮捕に関して、県警は公式に河野正志に謝罪した。この件は全国ニュースでも取り上げられた。県警自身で真犯人を見つけ出したということで、かろうじて面目は保たれた。

仮にこれが警視庁の手柄だったら、県警は今ごろ上を下への大騒ぎになっていたことだろう。事件を実質的に解決に導いたことで、裕美は引田警部ほか、県警幹部からもずいぶんと感謝された。

一方、警視庁の知り合いの刑事たちからは、「なんで相談してくれなかったんだ?」と、苦言を呈された。彼らにしてみれば、神奈川県警の顔を潰し、いっぱい食わせるチャンスだったらしい。

裕美は彼らに対して、「そういう種類の政治って、私は嫌いですの」と、軽く流しておいた。

今回は、北王子も素直に白旗を掲げた。プライドの高い元上司は、「君にしてやられたよ」とだけ口にした。裕美としては、それで十分だった。

「まあ、おかげでコネができたじゃありませんか。これから利子付きで、たっぷりと返してもらいましょう」

鏡が慰めると、裕美は肩をすくめた。

「しかしぃ、あっしが元刑事だから言うんじゃありませんが」藤井がまた首を傾げた。「今回は、捜査当局が騙されたのも、無理はねえと思いますけどねえ」

「あたしも今回ばっかは、爺さんと同じ気持ちだったよ」

「その『今回ばかり』てのは何だよ、『今回ばかり』てのは」藤井が口を尖らせた。

「文字通りだよ」風間がクククと引きつった。

「今度の件は、すべてが計画通りにいったように思えて、実は犯人たちにとってたった一つだけ計算外の要素があったのよね」裕美は今見た母子の仲睦まじい姿を思い出していた。「それが、河野正志という人間をとことんまで信じる人がこの世にひとりだけ存在していた、っていう事実よ」

「わが子に対する母の愛情なんて、犯行計画の中で数値化できないものですからね」

裕美と鏡の言葉に、みなが納得したように頷きあった。

「たったひとりでも最後まで信じてくれる人がいる…」裕美は手を合わせ、自分でロマンチックだと想像する目つきを作った。「あ~あ、あたしにはそんな人がいるかしらっ?」

たまにやるブリッ子。だが、場の空気が急激に冷えていくのが感じられた。

言い終えて十秒ほど経つと、一人また一人と、無言で席を外していった。

最後までその場に残っていた鏡が、ふと何か言いたそうな目を向けたが、ポケットに片手を突っ込むや踵を返し、出口に向かいながらもう片方の手を挨拶代わりに掲げた。

「じゃあ、私も調査に行ってきますので」

(了)

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