さて、『反日種族主義』の著者である李栄薫(イ・ヨンフン)氏や李宇衍(イ・ウヨン)氏たちが批判している朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』(1965年)。
この本は巻頭グラビアからして異常なものがあった。
これは私が所蔵するものだが、いきなり残酷な写真を提示して申し訳ない。
写真の下にあるキャプションは「5.30間島事件. 朝鮮人虐殺の惨状(1930)」。
「間島」とは大雑把にいって「北朝鮮のもっとも北側に接する中国の一地域」であり、現在の延辺朝鮮族自治州にほぼ相当する。
そして、朝鮮の独立運動家や共産主義者の逃げ込み先であり、またソ連赤軍のちに中国共産党に支援された抗日パルチザンが活動した地域でもあった。
そこで実際にどういう事件が起きたかはウィキペディアの「間島事件」(1920年)と「間島共産党暴動」(1930年)を参照してほしい。
問題は朴慶植がなぜこの写真を自著の冒頭にもってきたのかである。
要するに、日本帝国の軍部・警察が、韓国の独立運動を潰すために、朝鮮人の幼児を大量虐殺し、人々を斬首する残虐行為までしていたと、読者に訴えているのだ。
発刊当時、日本人や在日の読者は、最初にこの残酷な写真を見て、ガンと頭を殴られたようなショックを受けて、多くの人が思考停止になってしまったのである。
朴慶植の用いたトリック
だが、今では多くの人が指摘しているが、これはタチの悪いトリックなのだ(私も5年前に「アゴラ」に記事を載せたが、すぐに写真を削除されてしまった)。
もともとの写真には下のようなキャプションが流布時から付けられていた。
上が「土匪之為惨殺サレタル鮮人ノ幼児」。
下が「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」。
この土匪、馬賊、又匪賊であるが、海賊の陸上版といったらいいのか、日本が満州国を建国して宣撫するまで、この地域に跋扈していた武装強盗集団のことである。
「鉄嶺」とは現在の瀋陽の北に位置する小都市のことだ。
この匪賊は、現代人の常識からかけ離れているためイメージし辛いが、小銃や手投げ弾まで所持し、集落を襲って略奪・放火・強姦・虐殺などを繰り返していた犯罪集団だ。
日本だと、この種の無法者の私兵集団の存在は、戦国時代にまで遡らないといけないが、満州では1930年代の前半くらいまで実在していたのである。
だから、当時、満州を実効支配する張作霖・張学良の奉天軍閥の部隊と、朝鮮地方を侵される側の日本帝国の部隊とが繰り返し出兵し、匪賊を討伐していた。
つまり、上の遺体写真はその満州匪賊による残虐行為であり、又下の生首写真は張軍閥によって処刑された匪賊の斬首なのである。
ところが、朴慶植はそれを日本軍による朝鮮人虐殺の証拠写真へと摩り替えたのだ。
こんなにふうにトリミングと黒塗りによって元のキャプションを隠蔽して。
なお、朴はマズいと悟ったらしく、後の版からは削除している。
朝鮮大学教師だった朴慶植はこういう真似を平気でする人物なのである。
この事実から、朴慶植の意図が、歴史の真実を明らかにすることではなく、戦前の日本を悪魔化する点にあったことがうかがえよう。
「朝鮮人労働者=奴隷」と誤認させる朴慶植の政治的手法
いずれにせよ、読者は冒頭からガンと頭を殴られたような心理的ショックを受けた。
朴慶植はそうやって読者の思考を停止させた上で、本命である「朝鮮人強制連行」の“実態”を刷り込む手法を取った。
だが、これがまた政治的な手法そのままなのだ。
朴は自分で作成した表の類いを載せているが、なぜか1939年から「朝鮮人強制連行」が始まっていることになっており、この時点で捏造確定と言えよう。
なぜなら、1941年末の対米戦の開始までは、朝鮮からの人員補充は、通常募集などの自然流入で足りていたからだ。しかも、その現象は、今日のような日韓国境をまたぐイメージではなく、日本帝国内における朝鮮地方から本土への移動に過ぎなかった。
前回も記したように、朝鮮に対しては、1942年1月から「官斡旋」、1944年8月から本土と同じ徴用令が実施された。半強制事案が紛れ込み始めるのは官斡旋からだ。
この徴用は、日本人や台湾人相手にはもっと早く実施(1939年)されており、敵国の連合国においても国民の徴用は行われていた。
また、朴慶植は、同じ職場に日本人や台湾人もいて、朝鮮人と肩を並べて働いていた事実や、大半のケースにおいて賃金が正常に支払われていた事実を黙殺した。
朝鮮人だけが「奴隷」であり「被害者」だったと印象操作するためだろう。
実際には、戦時中、食糧が不足気味で、生産ノルマがきつく、全体的にブラック作業傾向にあったのは、民族を問わず、全労務者にとっての苦悩だった。
現場からの朝鮮人の「逃亡」事案は、むろんブラック職場度を測る指標だが、現代でも外国人実習生などが簡単に逃亡する現実からすると、短絡的に奴隷的労働に結びつけられないことが分かる。今の日本人でもすぐに職場をバックレる者などごまんといる。
だが、朴慶植は、「朝鮮人が植民地奴隷にされた」という主張にとって都合が悪い事実は黙殺して、膨大な官斡旋・徴用対象者の中における「ブラック職場事例」や「民族差別事例」のみを抜き取って束にし、世間が「奴隷」という印象を持つように仕向けた。
しかも、伝聞ソースが多く、それですら虚実ない交ぜ・誇張の疑いがある。
前にも述べたように、こんな手法が許されるなら、在日コリアンの犯罪例のみをピックアップし、在日はすべて凶悪犯罪者の集団であると印象操作することも可能になるだろう。
今なお在日コリアンとリベラル派にとってのバイブル
しかし、朴慶植の政治的な意図は成功を収めてしまったのである。
多くの日本人が『朝鮮人強制連行の記録』に衝撃を受けて思考停止に陥り、「朝鮮民族を奴隷として扱った先祖の罪悪」に恐れおののき、贖罪意識を持つようになった。
在日コリアンのほうは憎悪と被害者意識を植え付けられ、この本を「自分たちの記憶」として上書きし、日本社会に対する言動や態度を決定付ける一因にもなった。
日本人や在日の知識人・運動家にとっては今なおバイブルのような存在である。
戦争の記憶が薄れた頃を見計らって「これが日本の罪悪だ」と喧伝するやり方は、今にして思えば非常に巧妙だった。その工作に当時の日本の知識人はみんなやられた。
おそらく、『美味しんぼ』の雁屋哲や反原発運動の広瀬隆などはその典型だろう。この本でガンとショックを受けて、以来半世紀、情報の更新が止まったままらしい。
実際、1ケタ単位の数字がびっしり書き込まれた表を見て、ものすごい学術調査の結果に違いないと恐れをなして、ほとんどの人は疑う気すらも起きなかった。
私の想像だが、二言目には「植民地支配ガー」の辛淑玉(シンスゴ)などは、どうせこの本しか読んでいないのではないかと思う。
こういう者たちは、李栄薫(イ・ヨンフン)教授たちが命の危険も顧みずに記した『反日種族主義』を読んで、再啓蒙されることで、解毒されるといいのではないか。
ところで、私が思うに、これはたぶん朴の「単独工作」ではない。
まず初めに、「日本が朝鮮人を植民地奴隷にした」などという、タチの悪いイデオロギーのほうが先に北朝鮮内部で作られた。これは韓国でも同じ頃に起こっている。
その神話にあわせるために、歴史的事実のほうを歪め、修正する作業が一斉に行われた。朴はその作業の一員でしかなかったと思う。
つまり、政治工作として始まったが、この植民地奴隷にしたという「正しい歴史認識」の社会的影響力は当時圧倒的で、短期間のうちにほとんど定説化してしまった。
そして、日本の歴史教科書とそれを記す学者のほうも、それに引きずられて、朝鮮人の誇張に寄り添って、事実とその解釈のほうを歪めてしまった。
この概念は拡大再生産され続け、日本人は強い罪悪感を覚え、朝鮮民族に対する贖罪意識を抱えるようになった。むろん、それが工作側の「狙い」の一つでもあった。
今では事実上、朝鮮人に都合の悪い事実は書けなくなってしまっている。
だが、韓国のアカデミズムから、本当は逆ではないのかという問題提起がされるようになった。日韓併合前、大半の朝鮮人は人権など持たず、多くが奴隷だったと。
人権の概念と裁判システムと法治を朝鮮にもたらしたのは日本ではないかと。
私自身も、日本時代になって、朝鮮の一般大衆は史上初めて人間らしい暮らしを知ったのではないかと考えている。だから、日本時代の朝鮮人の写真を見ると、みな一様に明るい表情をしている。その過程にあって、朝鮮人の間にも民族意識が広まり、第一次大戦後の民族自決と社会主義思想の普及も相まって、独立を求める意識が強まり始めた。
だが、その1920年代の時点では、日本はすでに朝鮮を大陸進出の拠点としており、またすでに莫大な投資を実行していたので、手放すことは容易ではなくなっていた。
ボタンの掛け違いに関して、日本にも多くの非があることは疑いない。
記事の趣旨から外れるから触れないだけで、戦前の日本も過ちだらけだ。見方を変えれば日本人も朝鮮人も共に人命軽視の日本国家から酷い目に会わされたともいえる。
だから過ちは過ちとしてしっかり自覚し、二度と繰り返してはならない。
しかし、だからと言って、戦時中の特異事例をピックアップして、これが日帝36年の全容だとか、朝鮮人だけが奴隷だったなどと誇張することは許されない。
それはむしろ、実際の歴史よりも朝鮮民族を惨めに貶める行為に他ならない。