本格ミステリー短編『もしもし』

小説




みなさん、こんにちわ。

私の投稿リストの中では、短編小説は一番不人気です(笑)。

もうね、小説と分かっただけで、読者が引き潮のごとくさっと引く。対して、政治的な記事だと、すごく読まれる。

私的には、本当は小説こそが一番面白いのになあと、思っているのですが・・・。

今回は、ある殺人事件の捜査をめぐる「ベテラン刑事 VS ミステリー作家の戦い」を描いた、いわゆる「本格ミステリーもの」(?)です。

九十九豊(つくもゆたか)という白髪の刑事が完全犯罪に挑みます。

携帯電話が重要なアイテムになっています。

もう十年以上前、「ガラケー」全盛期に書いた作品で、作中に登場する「携帯電話」はすべてこのタイプを指していますが、別に現在の「スマホ」に脳内変換していただいても、トリック自体は通用するので、問題ありません。

果たして、あなたはこのトリックを見抜くことができるか?



「もしもし」

窓際で女が首を吊っていた。

カーテンレールの固定具にロープをかけ、夜の闇を背に部屋の内側を向いて亡くなっていた。長い髪が顔の前に垂れ下がっているおかげで、断末魔の形相を目に入れなくてすむのが、現場検証を担う捜査官たちにとってせめてもの救いだった。

そこは新宿にあるビジネスホテルの一室だった。ホテルの玄関前には複数のパトカーと救急車が乗りつけていた。辺りは野次馬たちが群がり、物々しい雰囲気に満ちている。

一報はホテルの従業員からだった。夜間にゴミ出しをしたひとりが、何気なく建物を見上げたところ、ある部屋の窓に「人影」が映っているのを発見した。その影がどうも「首吊り」に見える、ということで従業員たちが確かめたところ、事件が発覚したのだ。

現場は四階の角部屋だ。隣部屋との境に廊下を横断するように非常線が張られ、その内側への関係者以外の出入りを遮断していた。部屋の中では、鑑識課のカメラマンがフラッシュを焚く中、所轄の新宿署と機動捜査隊の刑事たちがホテル関係者から事情を聴取し、盛んにメモを取っている。彼らの周りでは、別の鑑識課員がテーブルやドアまわりから指紋を採取したり、カーペットにライトを照らして毛髪を採取したりしていた。

話のネタにとでも目論んでいるのか、非常線のところには十名近い宿泊客が詰めかけていた。彼らは、鑑識課員がアルミ粉末をドアノブに叩いている様子や、ふたりの刑事が先ほどから非常階段へと続くドアを頻繁に開け閉めしている様子などを、興味深げに眺めていた。その野次馬をかき分けて、ひとりの刑事が非常線をくぐり、DVDケースを掲げて部屋の中へと消えていった。「防犯カメラの録画をコピーしました」という声が、野次馬たちの耳に入った。浴衣着の混じる宿泊客たちも、すでに「若い女が自殺したらしい」という情報をどこからともなく聴きつけ、ぞっとした様子で互いに囁きあっていた。

一通り現場検証を終えると、その日の夜遅く、捜査員たちは引き上げていった。

 自殺か、それとも他殺か――。

初動捜査の焦点はそこに絞られていた。

遺書はなかった。部屋が荒らされた形跡はなく、持ち物もそのままだった。死亡推定時刻は、その日の午後九時から九時半の間と見られた。

宿泊者名簿の名は偽名だが、当人が所持していた身分証などから身元もすぐに割れた。

女の名前は東野真子(ひがしのまこ)、二十七歳。

無職だが、一年前まで銀座でホステスをしていた。

刑事たちは悩んでいた。遺体頸部の索条溝(ロープ痕)は、首の前部にはあるが後部にはなかった。これは縊死体が自殺か他殺かを見極める上で重要なポイントだった。というのも、絞殺の場合、首の後ろにも締めた形跡が残るからだ。つまり、死体は自殺を物語っていた。だが、事件現場には彼らが「首吊り自殺」と断定できない要素もあった。

その一。なぜ真子は部屋に鍵をかけていなかったのか?

その二。真子の右足のつま先に、素足でデスクを強く蹴っ飛ばしたと思われるうっ血と親指の骨のヒビがあるのはなぜか?

その三。フロントの防犯カメラに映っている真子が、ごく普通の様子というよりは、係員に対して自然な笑みさえ浮かべているのはなぜか?

その四。なぜこれから自殺しようとする真子が、ホテルを予約する際にわざわざ「西側の角部屋」のシングルルームを指定する必要があったのか?

刑事が引っかかったのは、以上の点であった。

部屋には争った形跡がなかったが、それでも死亡推定時刻の夜九時頃に、隣部屋の宿泊客が「バン」という、振動を伴った物音を耳にしていた。真子の右足の怪我は、その時のものと思われた。デスクの角にもかすかに血痕が付着していた。

だが、常識で考えて、骨にヒビが入るほど、素足でデスクを蹴る人間がいるだろうか。ましてや女性が。これは、何か突発的に襲い掛かった事態に対する反射行動の結果とでも考えない限り、説明しにくい傷跡だった。

そして、彼女の部屋に第三者がいたと仮定すれば、部屋に鍵がかかっていなかった理由と、真子があえて西側の角部屋を予約した理由も、浮かび上がってくるのだった。

事件後、真子がフロントで預かった部屋のキーは、デスクの上に置かれたままだった。仮に彼女の死を自殺に見せかけたい第三者がいたとすれば、キーを持ち出すわけにはいかないはずだ。なぜなら、外から部屋の鍵をかけて逃走すれば、第三者の存在を臭わせてしまうからだ。だから、鍵を開けっ放しにする他なかった。

だが、ホテルの玄関・受付・エレベータ籠内に設置された防犯カメラの録画を分析したところ、事件当日、宿泊客とホテル関係者以外に不審な者が入退館した形跡はなかった。ただ、第三者がホテル側に察知されずに侵入しうる唯一の可能性があった。

それが、建物の西壁面に設置されている非常用の外階段を利用するルートである。

ただし、各フロアの、外階段に通じる鉄製ドアは、建物「内側」からは開くが、外からは開かない造りになっている。

よって宿泊客が「手引き」しない限り、第三者は中に侵入することができない。

実は、真子がわざわざ「西側の角部屋」を指定したのも、ホテル側に気付かれないように第三者を「手引き」するためではなかったか。

つまり、第三者がいたとすれば、それは彼女の知人に他ならないのではないか・・・捜査員たちはその可能性を考えた。

というのも、ホテル関係者への事情聴取を進めるにつれ、東野真子が数年前から度々このビジネスホテルを偽名で利用し、しかも常に「西側の角部屋」をリクエストしていたことが判明したからである。

捜査員たちは、彼女の死を他殺と仮定すれば、その一から四までの疑問も氷解すると考えた。

そして現場周辺の聞き込みを行ううち、ある容疑者も浮上した。

それが当夜、事件の直前まで真子と一緒にいた男だった。

目撃証言によると中年の男だが、人相はよく分からなかった。なぜなら、コートを羽織った男は、ハンチング帽、サングラス、マスクなどで顔を隠していたからだ。ちなみに手袋もしていたという。

いったい、その男は何者だろうか。何か顔を見られたくない理由でもあるのだろうか。

結局、捜査員たちは、東野真子の死を自殺と断定するのは早計であると結論を下した。

 その首吊り遺体に事件性の疑いあり――。

初動捜査の判断を受け、警視庁捜査一課の殺人犯捜査第六係に出動がかかった。十名の部下を率いるのは警部の九十九豊(つくもゆたか)、五十歳だ。

九十九は、禿頭の気はないし、それどころか髪のボリュームは豊かだが、七三別けしたそれが完全に真っ白という異相の持ち主だ。

十一月も終盤、窓から差す真昼の陽光は弱々しかった。九十九たちは、死体が片付けられ一見平穏を取り戻した事件現場の部屋で、所轄刑事の説明を受けていた。

「なるほど、マル害は元銀座のホステスか…」

九十九は部屋を見回しながら、真っ白な頭をかいた。それは彼の癖だった。

「遺体を確認した母親が、号泣しながら『娘が自殺するはずがない』とずっと叫んでいましてね」

「ほう、それはなぜ?」

「一週間後に女友達と行くはずの台湾旅行を楽しみにしていたからだと」

「うむ」九十九は頷いた。「娘の男関係については、何か言ってませんでした?」

「何も知らないと言っていました」所轄刑事は肩をすくめた。

一見、自殺か他殺かよく分からない…。こういうグレーゾーンの事件は少なくない。なぜなら、犯罪者は他殺を自殺に見せかけようとすることがよくあるからだ。

その場合、普通は検視や司法解剖によって導き出される科学的な事実が判断の決め手となる。そういった科学捜査は、首吊りだけでなく、一見焼身自殺や拳銃自殺でも直ちに擬装を喝破する。

だが、今回は、検視結果が自殺の可能性を訴え、状況証拠が他殺の可能性を訴えているというレアな、そして厄介なケースだった。

「あっ、そうそう」所轄刑事が付け足すように言った。「持ち物は盗まれていないと言いましたが、どうやら確認した母親によると携帯電話だけは見当たらないみたいですよ」

九十九たちは所轄署の会議室に設けられた準捜査本部に戻った。本件はまだ変死体扱いなので、捜査本部も仮設置に過ぎず、捜査員の数も少なかった。

 九十九たちがタクシー会社各社に照会したところ、当日、事件現場周辺で東野真子および同伴していたと思われる男を乗せた記録はないとの結果だった。

がっかりさせる報告はさらに続いた。彼のもとに鑑識課からの調査結果が早々と入った。

通常、不特定多数が出入りする場所での鑑識は、種々雑多な指紋・毛髪・繊維・体液などが採取されるために難航するが、くだんのビジネスホテルは掃除が行き届いていたらしく、変死者以外の毛髪や指紋はわずかしか残されていなかった。それゆえ鑑識がはかどったが、それらがすべてホテル関係者のものと鑑定されたのだ。

また、遺体の爪にも犯人を引っかいたような痕跡はないとのことで、結果として想定上の「第三者=容疑者」を示唆する物的証拠が皆無であることが確定したのである。

検視結果と併せれば、九十九が東野真子の遺体を自殺による「非犯罪死体」と断定し、捜査を引き上げたところで、どこからも文句のつかない状況だった。

ただ、科学的事実とは対照的な、ベテラン警部の中に潜む刑事の勘というか、野生の本能に近い非論理的な何かは、この事件を「殺し」だと訴えていた。

そして九十九豊という男は、その己の直感に忠実だった。

真子の交友関係を洗わせていた部下から、九十九のところに次々と報告が入り始めた。

それに伴い、彼女の人物像も浮かび上がってきた。

東野真子という二十七歳の女は、生前、美貌を鼻にかけており、かなり自分勝手で我の強い性格だったらしい。それゆえ、彼女を快く思っていなかった周辺の人間も、男女に限らず相当数いることが分かってきた。

「彼女はだいぶん恨まれていたようだ」

聞き込みに回っていた捜査員たちは、いつもそんな感想を抱いた。

九十九は真っ白な頭をかいた。その動作は「警部が頭の血流を高めようと無意識にやるのだ」と部下たちから評されていたが、本当は刑事に憧れていた学生時代に金田一耕助やコロンボ警部の真似をしているうちに癖になってしまったというのが真実だった。

九十九が捜査会議の席上で言った。

メンバーは、彼の直属の部下である殺人犯捜査第六係十名と、所轄新宿署から割り振られたほぼ同数名だ。

「今までの捜査から、仮に容疑者がいるとすれば、それは真子の知人で、男である可能性が高いことが分かっている。それに怨恨動機という条件が加われば、該当者はかなり絞られることになる。だいぶん、分かりやすくなってきたぞ」

捜査員たちが一斉に頷いた。

 彼らがさらに聞き込みを進めたところ、過去に真子と関係した男が十名近くいることが分かり、その中から彼女の殺害を目論んでも不思議ではない者の名も複数、浮かび上がってきた。九十九は部下に指示し、事件当日の彼らのアリバイを探らせ、消去法で潰していくことにした。

そのひとりが、真子が主な金づるにしていた作家だった。

名前は御木本幹夫(みきもとみきお)、四十四歳。

中堅のミステリー作家として有名だ。本人は、上の名は気に入っているが下の名がそうでないらしく、筆名は「御木本美喜男」で通している。

東野真子とは、元愛人という関係だ。一年ほど前に愛人関係は解消しているが、それ以後も密会したり、金を受け渡したりしていたらしい。真子のある知人の言によると、彼女が作家から金を無心する様は「強請りに近い」ものがあったという。

九十九の手元に、御木本の最近の顔写真と全身写真がもたらされた。

瞬間、彼は「目撃情報と似ている」と思った。事件直前まで真子と一緒にいたハンチング帽の男は、身長が一七五センチ前後で、肩幅が広く、がっちりした体型だったという。若い頃はスポーツで鍛えたという御木本の容姿も、ちょうどそんな感じだった。

一方、真子の携帯電話に関する捜査から、ある興味深い事実も浮かび上がった。

携帯電話事業者に確認したところ、彼女が最後に携帯端末を使用したのは死亡推定時刻の少し前である午後八時五十分で、しかもその位置はくだんのホテルを中心とした地域だという。

携帯電話はGPS搭載機種であればその測位情報から正確な位置を割り出すことができるが、通常のタイプでもその機種からの電波を受信した端末基地局の場所や電波の到達範囲・強度などをもとに大まかな位置を算出することができる。基地局の多い都市部ではその誤差は百メートル以内といわれる。

また、スイッチの入った携帯電話からは常に微弱な電波が発信されているので、その現在地も把握することが可能だ。

もっとも、現在、真子の携帯電話のスイッチは切られたままになっており、その所在位置は不明だ。そして死の直前にそれを使用していながら、遺留品として見当たらないことから、死後、何者かによって持ち去られた可能性が高いと推測された。

九十九は、ようやく第三者の存在を裏付ける有力な状況証拠が出てきたと思った。

それだけではなかった。その通話記録から、一台の不審なプリペイド式携帯電話(以下プリケイと略)の存在が浮かび上がったのである。

彼女が死の直前に連絡を入れたのが、そのプリケイだった。通話記録を携帯電話事業者で調べたところ、そのプリケイは真子との連絡のみに使用されており、事件の後は、使用はおろか、スイッチさえ切られたままになっていることが分かった。

ちなみに、真子側の通話記録から判明したのは、御木本の所有する携帯電話との連絡が数ヶ月前を最後に途絶え、それと入れ替わるようにして新たな連絡先として登場したのがそのプリケイということだった。

捜査員たちは、そのプリケイの持ち主を探った。当然、その主が御木本であることを期待して。

今では悪用防止のため契約時に販売店等で身分証明書の提示と本人確認が義務付けられており、ユーザーの名前はすぐに割れるはずだった。

だが、調べてみると、そのユーザーは多重債務者の男Aで、転売目的でプリケイを契約・購入していた事実が判明した。

九十九たちは直ちにAを通称「携帯電話不正利用防止法」で逮捕し、取り調べた。

Aの供述によると、インターネットの闇サイトで「プリケイを高く買い取ります」の広告を目にし、主の“サウザー”と名乗る相手――若い刑事が異口同音に「それは偽名です!」と言うので九十九もそれを信用しているが――と連絡をとったという。

ふたりは山手線の某駅で会い、Aがプリケイを購入した直後、サウザーがその価格に数万円を上乗せして買い取ったという。ちなみに、そのサイトはもう無かった。

九十九でもなくとも、そのサウザーとやらが中古のプリペイド式携帯電話の闇販売業者であることは容易に想像がついた。

「警部!」

御木本の内偵に入った捜査員が慌てて彼に連絡をよこした。

「妻が…御木本の妻の良子が、数ヶ月前に首吊り自殺しています!」

 九十九は捜査会議の席上、真っ白な頭をかいていた。

その場で捜査員たちが持ち寄った様々な報告が順番に上がっていた。

それによると、作家・御木本幹夫の周辺でふたりの女性が短期間のうちに相次いで首吊り“自殺”しているが、調べたところ死亡保険金の類いは一切絡んでいなかった。

第一、御木本は年収が数千万円もあり、金に困っている様子はまったくなかった。

ただ、妻・良子の周辺を洗い始めた捜査員から、生前、夫婦の仲が悪化していたらしいことが報告された。

「どうも臭うな…」

一通り最新情報が集まったところで、九十九が感想を漏らした。それは彼の長年の経験に拠るものだった。

九十九がまた頭をかき始めた。それは係長の推理力がフル回転している証拠だった。

捜査員の誰もが沈黙し、指揮官の言葉を待っていた。

九十九は咳払いし、口を開いた。

「なあ、みんな。こうは考えられないだろうか。作家先生と東野真子は、以前からあのビジネスホテルで密会を重ねていたんだ。そのことが妻との関係悪化の原因か否かは今のところ分からないが、いずれにしても著名人の先生にしてみればスキャンダルだ。発覚を恐れていたことは十分に想像できる。当然、真子と連れ立ってホテルに入りたくないし、フロントのカメラにも映りたくない。だから、いつも彼女がホテルの西側の角部屋をリクエストし、ひとりで部屋に入った後に、先生の携帯電話に連絡を入れていたんだ。こうして外の非常階段を利用すれば、先生は誰にも知られずにホテルに入れるというわけだ…」

九十九が会議の席を見回した。誰もが納得したように「うん」と頷いた。

「だが、先生は、金を無心してやまない真子に、次第に殺意を抱き始めた。先生が思いついた手口は、自殺に見せかけて彼女を殺すやり方だ。そこで数ヶ月前、匿名性を確保するために、裏市場で中古プリケイを買い、それを新たな連絡手段とした。ただ、先生のほうの匿名性は確保されたものの、真子の携帯電話には着信発信履歴が残る。当然、彼女は自身の携帯電話の中で、そのプリケイの電話番号を『御木本』名義で登録しているはずだ。つまり、われわれ捜査当局が彼女の携帯電話を遺留品として押収すれば、彼女が死の直前に電話した相手が先生であることが分かってしまう・・・」

捜査員たちがまた「うん」と頷いた。

「むろん、ホテルの一室で真子を絞殺した後、彼女の携帯電話をいじくって電話やメールの履歴を消去すれば済む話だ、という見方もできる。だが、表面上は消せても、万一、記憶装置のどこかに残っていることを先生が心配し、それゆえ持ち去って処分する道を選んだという見方も可能だろう。今までもたらされた情報から、私はとりあえず以上のように推理してみたが、どうだろうか?」

このように、部下から忌憚のない意見を聞くのが彼のやり方だった。列席の捜査員一同が互いの顔を見合わせた。

ひとりが挙手し、九十九が彼を指名した。

「正直申し上げて、『自殺に見せかけて彼女を殺した』という点の証明が不十分だと思います。彼女の携帯電話を持ち去った者がいるらしいことから、第三者の存在は、一応は裏付けられたと思いますが、殺しとは直接、結びつきません」

「うむ」

「仮にその作家先生が」別の捜査員が口を開いた。「ホテルの部屋で真子と密会していたとしても、『シャワーに入っている間に自殺されたので、慌ててその場から逃げ出した』とでも開き直られたら、反論のし様がありませんね」

「なるほど」

「やはり、遺体の、あの首回りの索溝がネックです」さらに別の者が言った。「殺しならば、なぜ首の後ろに絞めた痕が残らなかったのか、その謎を解かないことには、本事案の解決には絶対に至らないと思います」

「そうだな」九十九が腕組みを解いて、また頭をかいた。「そこなんだよなあ…。その壁を乗り越えないことには、われわれも最終的には本件を自殺と片付けるしかないんだ」

ひとりが恐る恐る挙手した。

「あのう、御木本氏は推理小説家ということですから、彼の作品の中に何かヒントが隠されているのではないでしょうか?」

「それだ」九十九は、発言した彼を指差した。「たしかに、何かのヒントが埋もれているかもしれん。おまえは片っ端から作家先生の作品を読破してくれないか」

彼は己の顔を指差して「えっ、いいの?」というニヤけた顔で周囲を見回した。

同僚たちも、「役得だのう」と言わんばかりに羨ましそうな目で彼を見ている。

「いいか、みんな」九十九が一段と声を大きくした。「相手はミステリー作家だ。通常のマルタイより手ごわいと思ってくれ」

 九十九豊は御木本幹夫を事情聴取するタイミングが訪れたと思った。彼は自ら台東区にあるというミステリー作家の自宅へ連絡を入れた。

「はい、御木本ですが」

出てきたのは、若い女だった。

九十九は警察であることを告げ、新宿で自殺した女性について少し尋ねたいことがあるというふうに要件を伝えた。

御木本は今席を外しているので、戻り次第、折り返し連絡すると、女は返事した。

わずかなやり取りだったが、丁寧でしっかりした受け答えから、気品と知性のようなものが感じられた。

数時間ほどして、御木本本人から連絡があった。当初、九十九は事情聴取にうかがいますと言ったが、作家のほうが快活な声で「ちょうどいい機会だから、警察署の内部を見学しておきたい」と言い張ったので、わざわざ署まで足を運んでもらうことにした。

翌日の午後昼過ぎ。

新宿署の駐車場に年代もののアルファロメオが乗り込んできた。

九十九は、若い刑事によって署内に案内されてきた御木本幹夫と初めて対面した。

アルマーニの高級スーツをきめた作家は、一見して自信に満ち溢れていた。美食家で体重が九十キロはある――当人の最近のエッセイから――らしく、若い頃は様々なスポーツも慣らしたそうで、当然ながら恰幅がよかった。成人男性の平均身長と体重しかない九十九からすれば、対峙しただけで威圧される感じだった。

「はじめまして」

御木本は、お辞儀をせず、握手を求めてきた。

刑事相手にこういう振る舞いをする民間人は、九十九の経験からしても珍しかった。

老警部は、御木本のグリップの強さと相対者をじっと見据える鋭い眼差しに印象付けられた。瞬間、「これは手ごわいな」と思った。

「ほう、これが取調室というやつですか」その部屋に入るなり、作家はさも感心した様子で隅々まで見回した。「実は、本物を見るのは私も初めてでしてね。ドラマと違い、中はずいぶん明るいですな」

九十九自ら質問役をし、部下が少し離れたところで筆記役を担った。

事情聴取は滞りなく進んだ。御木本は、東野真子が自殺したことは知人から聞いて知っていたと言った。そして彼女が元愛人で、金銭をめぐる確執があったことも、意外なほど率直に認めた。

ただし、妻が自殺した数ヶ月前からあまり会わなくなっていたとも主張した。というのも、それまでの自分の振る舞いが妻の自殺に関係していたかもしれないと思い、彼女を追いやったかもしれないという自責の念があるからだという。

話が核心に入った。

事件当日、十一月十八日、真子の死亡推定時刻である午後九時頃の出来事である。

だが、作家はアリバイがあるという。

「その日の、その時間帯は、たしか自宅にいましたよ」

「よく覚えておいでで」

「なにしろ、その曜日は、夜の九時から大好きな連続ドラマが始まりますからね」

「証明できる人はいますか?」

「あいにく、ひとりでしたので…。その番組内容を覚えている、というのは駄目ですかね?」

「駄目です。録画していればすむ話ですので」

「うーん…」と作家は悩み、いきなり手を打った。「あっ、そうそう。そのテレビを見ている最中に、自宅に電話がかかってきましたよ。そのしばらく後には、こちらから別の人にも連絡を入れているはずです」

御木本は相手の名前をすらすらと答えてみせた。九十九の部下がそれをメモった。

とりあえず、事情聴取は終わった。九十九は、何気ない様子で、電話に出た若い女のことを訊いてみた。

「ああ、彼女ね」御木本の顔がほころんだ。「佐野真由美といいまして、私のアシスタントですよ。今年の四月に女子大を出たばかりで、とてもいい子なんです」

 捜査員が御木本の証言の裏をとるため、出版社のZ社に向かった。

作家は、当夜、ある編集者から自宅に電話があり、それを受けて、今度は別の編集者に自宅から電話したと言ったのだ。

電話でその相手の編集者に問い質せばいい、というものではない。勘繰ればキリがないが、作家と編集者が口裏を合わせていたとも考えられる。したがって、直に合い、相手の表情からも何らかの情報を読み取ることが捜査として重要なのである。

捜査員の質問に対して、応接室に現れた若い編集者は「ええ」と、あっさり、何食わぬ顔で認めた。

「たしかにその頃に御木本先生のご自宅に電話した覚えがあります。ちょっと待ってください…」編集者は持参したシステム手帳を繰り始めた。「ええと、間違いありませんね。日付は十一月の十八日、時間は二十一時…。ええ、たしかに」

ふたりの捜査員は互いの顔を見合わせた。

「いつも、そんなふうに、電話した日付や時間をいちいち記録しているんですか?」

「まさか」編集者は笑った。「御木本先生から、その日のその時間帯に自宅に連絡をくれという申し入れが事前にあったから、スケジュール帳に記入していただけですよ」

「先生はそういう申し入れを、よくなさるんですか?」

「よくではありませんが、時々です。たしか一年前くらいから、こういう頼みをチラホラとするようになったかなあ…」

「本当に先生のご自宅の電話ですか? 携帯電話の間違いではありませんか?」

「自宅の固定電話です、間違いなく」編集者の口調はきっぱりしていた。「かけた時、テレビの音がうるさかったのを覚えています。その瞬間、『あっ、先生の好きなドラマをやっているな』と思いました。バタバタしていたので、少し遅れたかもしれませんが」

捜査員は、次に出版社のW社に向かった。

こちらの編集者は、記憶はあやふやだったが、それでも、

「たしかに、その頃に御木本先生から編集部のほうに、新しい連載についての問い合わせがあったのを覚えている」と答えた。

「バックでテレビの音とかしていませんでしたか?」

「あっ」編集者の記憶が焦点を結んだらしい。「今思い出しましたよ。ちょうどその時、先生がファンだという法廷ドラマをやっていました。うるさかったので覚えています」

二人の編集者の受け答えは自然で、不審な点や隠している点は、感じられなかった。

 裏付け捜査はむろん、通話記録にも及んだ。

捜査員たちは電話事業者に出向き、当日の記録を確かめた。

その結果、御木本幹夫の証言が事実であることが分かった。

十一月十八日、午後九時五分、Z社から御木本宅の固定電話に、たしかに連絡が入っていた。そして同三十分、今度はその固定電話からW社に連絡が行っていた。

さらに、これは重要なことだが、その固定電話から別の機器に通話が転送された形跡も一切ないということだった。

ちなみにだが、携帯電話事業者のほうにも確認したところ、同時間帯に御木本所有の携帯電話が使用された形跡もないとの結果だった。

調査に当たったふたりの捜査員は、準捜査本部への帰りの道すがら、こう話し合った。

「たしかに御木本は、真子が新宿で不審な死を遂げたその時間帯、自宅にいたのだ」

 東野真子との利害関係から、九十九たちが怪しいと睨んでリストアップした他の数名に対する内偵も進んでいた。

捜査の進展と共に当時のアリバイも証明され、ひとり、またひとりとリストから脱落していった。

残ったのは、捜査員たちがもっとも怪しいと疑っていた御木本幹夫だった。

だが、彼のアリバイも証明されたように思われた。

「そして容疑者は誰もいなくなった」

行き詰った準捜査本部で、そんな言葉が囁かれ始めた。

そんな折、上野署のほうに出向いていた捜査員から、九十九のもとに報告が入った。

東野真子が亡くなる約三ヶ月前、御木本の妻・良子が“自殺”していた。その件を実況見分し、自殺による非犯罪死体と認定したのが上野署の捜査員たちだった。

報告は、簡単にまとめると次のようなものであった。

それは八月二十日のことだった。いつものように趣味のウォーキングに出かけた御木本幹夫が、午後七時前、台東区三筋にある自宅兼事務所に帰り着いた。だが、いくら呼び鈴を押しても、中にいるはずの妻が出てこなかった。自宅に電話しても、妻の携帯電話に連絡しても、返事はなかった。何か様子が変だと思った御木本は、事件の可能性を考え、鍵屋を呼ぶと同時に交番の警察官も呼んだ。そして、開錠と同時に、警察官と一緒に自宅に踏み込んだ。すると、妻が和室の欄間にロープをかけて首吊り自殺していた。警察官はすぐに署に一報し、駆けつけた捜査員らによって実況見分が始まった。

しばらくして、次のことが判明した。

その一。御木本良子の死亡推定時刻は午後四時から四時半の間である。

その二。その間、自宅に侵入者があった形跡はない。

その三。遺体頸部を調べたところ、咽喉部の溢血点(指の痕)はなく、縊死をもたらしたロープの索溝も一重で、しかも前部にはあるが後部にはなかった。

その四。死亡推定時間帯に、唯一の同居人である夫・幹夫が外出していた事実が確認された。

以上の結果として、上野署は「彼女の死は自殺である」と結論付けた。

九十九たちが気になったその四に関しても、上野署は詳細な調書・捜査資料をまとめていた。

その日、御木本幹夫は執筆仕事を終えると、午後の二時に自宅を出発したという。真夏の、もっとも暑い時間帯だが、「人通りがなくてかえってよい」という理由で、七月からしばしばこの時間帯を選んで趣味のウォーキングをしているとのことだった。

彼のスタイルは、自宅の鍵は持たず、万歩計を装着し、腰のポシェットにお茶のペットボトルと携帯電話を入れて、その日の気分で北か南に向かって歩くというものだった。

当人によると、歩速・歩幅等は正確に一定しているという。十キロを一万三五〇〇歩で踏破し、一万歩をあゆむのに一時間半を要するらしい。

つまり、二時間歩くと、一万三三三二歩であり、ほぼ十キロの距離に相当する。

事件当日、御木本は気分的に北の方角を目指した。隅田川と荒川を渡り、休みなく二時間歩いて、目的地である足立区のN公園に到達した。時間もちょうど午後四時だった。

彼はそこでいつものように十五分ほどの休憩に入った。

ちょうどその時だった。彼が所持していた携帯電話に、ある編集者から連絡が入った。

休憩を終えると、御木本はまた元来た道を戻り始めた。そして、その十数分後、午後四時半頃、今度は彼のほうから別の編集者に電話を入れた。

帰りは、行きよりもペースが遅く、自宅に帰りついたのは午後七時前だという。

上野署の捜査員は電話事業者に赴き、通信記録の裏づけをとっていた。

その結果、午後四時頃の一本目の連絡は、たしかにP出版の編集部から、御木本の携帯電話へと繋がっていた。その連絡は、事前に作家から編集者に対して要請されたものであった。そして電波のやり取りをした端末基地局等の記録から、その携帯電話のあった場所も、ほぼ御木本がいたと主張したN公園付近であることが判明した。

さらに、午後四時半頃の二本目の連絡も、たしかに御木本の携帯電話からG出版の編集者へと行ったことが分かった。基地局等の情報から、その位置もN公園からほぼ一キロ南下した場所だった。つまり、御木本の自宅から約九キロ離れた場所であった。

むろん、上野署の捜査員は、そのふたりの編集者に対しても事情聴取を行い、彼らがその時、御木本本人と会話したという証言を得た。

そして記録によると、午後七時前、今度は自宅前で、その同じ携帯電話から、錠前屋への連絡や警察への通報が行われていた。

ちなみに、御木本の携帯電話から、何らかの通信の転送が行われた形跡はなかった。

以上のことから、妻・良子が死亡したと思われる午後四時から四時半の間、夫はまさに自宅から九、十キロ離れた地点にいたと考えられたのである。

そして、妻の首に他人が締めた形跡がなく、その時間帯に誰かが家に侵入した形跡もないことから、その死は自殺と断定されたのである。

報告を受けた九十九ならびに準捜査本部内は、一様に同じ驚きに包まれた。

「東野真子のケースと、ほぼ同じだ…」

「その日の午後四時にケータイに連絡してくれ」

御木本は事前にP出版社の編集者にそう頼んでいたという。

そして、まさにその電話の時間帯、妻の良子が自宅で“自殺”した。

それから約三ヵ月後。作家は、今度は「その日の午後九時に自宅に電話をくれ」とZ出版社の編集者に頼んだ。

またしてもその電話の時間帯、愛人の東野真子がホテルの部屋で“自殺”した――。

捜査会議は興奮に包まれていた。

東野真子の件でアリバイが“証明”されたことで、いったん疑いが晴れかかった御木本幹夫だったが、妻・良子の件の詳細がもたらされるや、誰もが口々に言い始めた。

こんな偶然はありえない」と。

そして、二件もの「殺し」であるから、直ちに準捜査本部から殺人事件捜査本部へと格上げすべきだという意見が噴出した。

だが、九十九豊だけは、普段と変わりない様子で、白い頭をかいていた。

「まあ、待て」白髪の指揮官は、口々にやいのやいのと言う部下を制止した。「おれも偶然ではないと思うが、ただ、今の段階ではそんなものは単なる主観に過ぎないぞ」

全員が黙り込んだ。

「いいか、おれたちが何の証拠も押さえていないことを忘れるな。検視は二件とも“自殺”だと言っているんだ。ある人物の周辺でそれが連続したからといって、推定無罪の建前をそう簡単に崩せると思うか? 感想程度の主張をいくら繰り返したところで、送検する上での証拠価値はゼロだぞ。上の連中だって、首を縦に振っちゃくれんよ」

捜査員たちは、今はまだ東野真子の死の事件性の有無を判断する段階でしかないことを、改めて思い知らされた。とくに直属の部下である第六係員たちは、それまでも警部の冷静沈着さのおかげで、幾度も捜査上の窮地を脱してきた経緯を思い起こした。

「こういうのはな、慌てちゃ負けなんだよ」九十九の口調が急に和らいだ。「それに、ここまで調べたら、あとはそんなに人数はいらない。おまえたち精鋭だけで十分だ。御木本の内偵をさらに進めようじゃないか。やつを徹底的に洗うんだ。カン取り(親族・知人・利害関係者などへの聞き込み)の範囲も、妻の良子やその周辺にまで広げるぞ。いいなっ」

「はいっ」

九十九の言葉は、捜査一課の殺人捜査十七チームの中でも、幾多の難事件を解決してきたことで名高い屈指の集団としての、部下たちのプライドを蘇らせるものだった。

 たしかに怪しい――。

実は、誰よりも九十九自身が内心、引っかかっていた。

なにしろ、ひとりの作家の周辺でふたりの女が相次いで“自殺”を遂げ、どちらも彼女たちの死亡推定時刻にやり取りした電話の記録が、作家のアリバイを証明する形になっているのだ。

しかも、どちらのケースでも、編集部のほうから連絡を入れるよう、作家側から事前に時刻指定して要請されている。

どう考えても作為的だった。それはまるで手の込んだミステリー小説のように、あまりに人工的だった。

やがて、聞き込みを続けた結果、御木本幹夫を中心とした人間関係が、捜査陣の前に完全に浮き彫りになった。

家族や友人に漏らしたところによると、妻の良子は離婚を考えていたという。しかも、夫に対して財産の半分の譲渡を迫っていた。子供ができないこともあり、夫も離婚自体には同意していたが、その財産の分配をめぐって夫婦の間にいさかいが生じていた。

さらに、東野真子の存在が必ずしも離婚原因でなかったことが判明した。彼女が幹夫の愛人に納まったのは、妻が離婚を考え始めた頃だったという。そして妻もまた彼女の存在を知っていたというから、ほぼ公認の状態だったらしいことが推察された。

要するに、身もフタもない言い方をしてしまえば、ふたりの女が、経済能力の高いひとりの男からタカっていた、又はタカろうとしていたのだ。

それゆえ、そのふたりの女と作家との関係は日々、悪化していた。

そんな時に現れたのが、別の若い女だった。御木本が佐野真由美と知り合ったのは、彼女がまだ女子大に在籍していた頃で、きっかけは小さな講演会だという。

御木本作品のファンであった彼女は、卒業後、今年の四月にいったん事務機器メーカーのOLとして就職したが、オフィスの雰囲気にとてもなじめないと思い、すぐに辞めた。

そして、御木本の強い勧めもあって、作家のアシスタントとして“就職”した。そして今では、ふたりは半ば同棲という関係に入っていた。

つまり…と九十九は思った。ふたりの女の死に共通するのは、その受益者が御木本幹夫であるということだ。

その詳細な人間関係から、犯行動機のほうはひとまず推察がついたように思われた。

だが、作家には鉄壁のアリバイがあった。

 師走も半ば、まだ午後四時にもかかわらず、黄昏の足音が急速に忍び寄っていた。

九十九とひとりの部下を乗せた捜査車両が、透明なオレンジの光線の中、足立区のN公園前の道路に停車していた。

先日、彼らのほうでも、妻・良子が亡くなった八月二十日の、御木本の携帯電話の通話記録を改めて調べてみた。すると次のことが分かった。

その日、午後四時三分、御木本宅から約十キロ離れたここN公園付近で、それはP出版社からの連絡を受信していた。御木本と編集者が会話を終えたのは同八分だ。

基地局などの情報から、端末が会話中に移動していた形跡はない。

そして同二十八分、今度はそこから約一キロ南の地点で、G出版社に向けて発信されていた。つまり、その間は二十分である。

そして良子の死亡推定時刻は、午後四時から四時半の間だ。

以上の情報から、九十九たちはひとつの仮説を立てた。それはこうだ。

御木本はN公園でP出版の編集者と話を終えた直後、車(自家用車か否かは問わない)を発進させ、急いで自宅に戻ったのだ。

そして、妻を絞殺した後、自宅に鍵をかけると、今度は休む間もなく来た道を戻って、N公園の南一キロ地点へと向かい、そこでG出版の編集者に電話したのだ。

つまり、往復十九キロの道のりと、妻を絞殺して自殺に偽装する工作とを、わずか二十分の間にやってのけた、というわけだ。

今回は、同じ曜日の、同じ時間帯に、それを実際に試してみようというわけである。

「よし、じゃあ、行くか」

九十九が腕時計で午後四時八分を確認すると同時に、部下が車を発進させた。

だが、隅田川を越えてしばらく行った辺りで、ふたりは半渋滞に捕まってしまった。台東区三筋にある御木本宅前にたどり着いた時には、四時半を優に回っていた。

自宅内での工作時間を最速五分と見積もり、往路最大限に車を飛ばしても、N公園の南一キロ地点にたどり着く頃には、おそらく午後五時にはなっている計算だった。

実験結果は、彼らの仮説を机上の空論と結論付けるものだった。

「駄目だったか…」

九十九たちは、ため息をついた。

同じ結論は、東野真子のケースにもそっくり当てはまると思われた。

新宿のビジネスホテルと御木本宅間の距離を考えれば、なおさら無理だと考えないわけにはいかないからだ。

 捜査は行き詰っていた。

一足早く犯行動機の解明は進んだように思われたが、肝心のアリバイ崩しが追いついていなかった。

そんな折だった。準捜査本部内の九十九豊は、自分の携帯電話で自宅に電話した。

私用である。出てきたのは妻だった。

「あら、あなた? 今、塾帰りの瑞穂(みずほ)と電話しているところよ」

瑞穂は小学六年生になるひとり娘だ。昨今の日本では珍しくないが、九十九家では家族全員がマイ携帯を持っている。

「おい、その瑞穂が言っていた『魔法なんとか少年』の『ジョン』のグッズだけどな。紀伊国屋書店向かいのアニメショップに問い合わせたら、筆入れならあると言っていたぞ」

「あれ、瑞穂のお気に入りは『ジョー』じゃなかったかしら?」

「…え?」

「たしか、似たようなヒーローの男の子が五人いるのよ。私もこの前、間違えたグッズを買ってしまって、えらい怒られたわ」

「じ、じゃあ、『ジョー』でいいんだな?」

「ちょっと待って。私も自信がないから、あなたから直接訊いてやって」

九十九の耳元に、カツンとプラスチック製品をかち合わせるような音がした。

「もしもし、パパぁ?」娘の声が聴こえてきた。

「…………」

「あたしが好きなのはジョー君だよ。ジョンは五人の中でただひとりのデブで、あんなの買ってきたら本気で怒るから…」

「…………」

九十九豊の身体を電流が貫いた。

「ねえ、パパぁ? 聴いてるの? どうかしたの?」

「・・・・そうか! そういう方法があったのか!」

「では、今から実験を開始する」

新宿署の準捜査本部内で、九十九はやや芝居がかった調子で厳粛に宣言した。

いきなり九十九が席を外した。

指揮官が不在の会議室内で、捜査員たちは壁にかかった時計の針を見つめていた。

数分ほどして、それが午後七時を差した。すると、ひとりの捜査員がテーブルの電話をとり、どこかへダイヤルした。

「もしもし…」

受話器の向こうから聴こえてきたのは、まごうかたなき九十九警部の声だった。

「おおーっ」という、感嘆の声が上がった。

九十九がまた会議室に戻ってきた。

「どうだ、おれはたしかに自宅にいただろう?」

捜査員たちが興味深げに指揮官を取り囲んだ。彼は今しがた、捜査員が九十九宅にかけた電話にリアルタイムで出るという芸当をやってのだ。

「警部、説明してもらえませんか?」

「うむ…」

九十九はトリックの手順を説明した。

会議室を出るなり、彼が真っ先に向かったのは新宿署の一階にある公衆電話だった。彼がそこからかけたのは、妻の持つ携帯電話だった。午後七時、捜査員のひとりが九十九の自宅にある固定電話に連絡を入れた。妻はその受話器をとるなり、手にもった携帯電話を逆さまにして、ふたつをかち合わせたのだ。

「なるほど…」

単純な仕掛けだが、誰もが口々に感嘆した。

そして彼らは、この方法はそっくりそのまま東野真子の件で御木本が使ったと思われるアリバイの説明にもなると話し合った。

捜査員たちは、犯行当日の様子を、次のように推測した。

その一。御木本が、新宿の某公衆電話から、自宅にある某携帯電話に連絡を入れた。応対したのは、自宅にいた協力者だ。

その二。Z社の編集者が、御木本宅の固定電話に連絡した。

その三。その某協力者が、その某携帯電話と固定電話受話器を逆さまにあわせた。

御木本の携帯電話はその時間帯、使用されていないことが分かっているので、このように推測することができた。

おそらく、マイ固定電話とマイ携帯電話の両方を同時刻に使うと、怪しまれるだけでなくトリックまでがすぐにバレてしまうので、使うに使えなかったのだろう。

「つまり」と九十九は言った。「必要なのは公衆電話と、他人名義の携帯電話と、そしてひとりの信頼できる共犯者だ」

 このトリックには協力者が必要だ。そしてその協力者といえば…。

九十九が真っ先に思い浮かべたのが、御木本のアシスタントをしている佐野真由美だ。

ということは、御木本はアリバイを作るにあたり、佐野の携帯電話を「仲介」に使った可能性がある。

さっそく部下に命じて、彼女の所持する携帯電話の通話記録を調べさせた。

だが、結果はシロだった。

次に九十九が思い浮かべたのが、東野真子との連絡専用に使われていたプリペイド式携帯電話の存在だ。これは裏市場に転売されたことで、「匿名プリケイ」と化していた。

彼は「御木本はもう一台の匿名プリケイを所持していたのではないだろうか」と考えた。もし存在するとしたら、それは公衆電話との連絡専用に使われていたと推測される。

だが、そのプリケイを割り出すためには、まず例の新宿のビジネスホテル周辺の公衆電話の記録を片っ端から調べて回らなければならない…。

そんなことを考えていた九十九はふと閃き、再び自ら――と言っても部下に車を運転させて――足立区のN公園に足を運んでみた。

「やっぱり!」

先日の実証実験の際は見過ごしていたが、公園前に一台の公衆電話ボックスがあった。

「この電話の通話記録を調べるんだ」彼は部下に命じた。

しばらくして結果が出た。それは九十九の予想通りだった。

「やりましたよ、警部!」

八月二十日の、午後四時前のことだった。N公園前公衆電話から、一台のプリペイド式携帯電話に連絡が行っていた。

捜査員は、次にそのプリケイの携帯電話事業者に向かい、記録を追った。

すると、基地局等の情報から、そのプリケイが電波を受信した場所が御木本宅のある台東区三筋の辺りということまで判明した。

またしても、一台の不審なプリペイド式携帯電話の存在が捜査線上に浮かんだのだ。

さらに、そのプリケイの通話記録から、別の公衆電話ボックスの存在も浮上した。

ひとつは、同日の午後四時半頃に使用された、N公園より南一キロ地点の公衆電話

そしてもうひとつが、十一月十八日、午後九時前と同半頃の二度にわたって使用された、新宿のある公衆電話だった。

後者の場所は、例の新宿のビジネスホテルにほど近く、そしてプリケイの電波受信場所も、またしても御木本宅を含む地域だった。

 それは実に不審なプリケイとしか言いようがなかった。

なぜなら、通話記録によると、利用された回数がわずかに四回だけだからだ。しかも、八月二十日の二回と、十一月十八日の二回である。

仮にスイッチが入っていたなら、その現在位置を追うこともできるが、あいにく切られていた。おそらく、東野真子の事件後に処分されたのだろう。

九十九たちは、この二台目の不審なプリケイの持ち主を探した。その結果、販売店で契約・購入したフリーターの男Bが割れた。

想像はしていたが、案の定だった。

Bもまた多重債務者Aと同じパターンだった。取り調べたところ、この男もインターネットの闇サイトで“サウザー”の出した広告を見て、「アルバイト代欲しさ」に手を出したという。Aと同様、〇六年の通称「携帯電話不正利用防止法」施行後、不正な譲渡が違法行為になったことを知らなかったらしい。

供述によると、その広告は「即金が必要な方、プリケイの代理購入をしませんか? 報酬は三万円以上。その場で支払います」という内容だったという。

Bによると、広告を見てサウザーのメールアドレスに連絡をとったというが、もはやその広告もアドレスも存在しないことは、Aを取り調べた時点で分かっている。

だが、インターネット上には、似たような文面の広告が複数出ていた。おそらく、こういう違法な商売をしている者は、足がつかないように頻繁に広告の場所や連絡先を変えるのだろう。そしてこの種の業者は、そう多くはないはずだ。

九十九は、AとBの供述をもとに“サウザー”のモンタージュ画像も作成した。

「“サウザー”を探せ」九十九は部下たちに号令した。「広告主をひとりひとり当たっていけば、必ず本人に行き当たることができるはずだ」

 九十九たちは密かに佐野真由美の内偵を行っていた。

足立区のN公園周辺でも、佐野の顔写真などを持って聞き込みを実施した。二十三歳の彼女は、黒いショートヘアとつぶらな瞳が印象的な、清楚な雰囲気の女だった。

その結果、御木本幹夫がいかにもウォーキングのスタイルでしばしばこのN公園で休んでいたことは裏付けられたが、佐野がこの場にいたという確証は得られなかった。

なにしろ、御木本良子が“自殺”したのは、数ヶ月も前の出来事である。仮にその日、御木本のアリバイ作りのために、佐野がN公園前の公衆電話を使用していたとしても、そんなことをいちいち覚えている人がいるとは思えなかった。

だが、聞き込みが不発に終わりかけたと思ったその時だった。

この公園をよく散策するという老婆から、貴重な目撃証言が得られた。

なんと、真夏の時期に「サングラスにマスク姿の怪しい女」がその電話ボックスから出てくる場面を目撃したという。なぜ老婆が覚えていたかというと、なんでもその女がそこを出た途端に「手袋を脱ぎ始めた」からだというのだ。

どうやら、真夏に似つかわしくないよそ者のそのチグハグなスタイルが、老婆の脳裏に強い印象を残したらしい。

彼女の記憶によると、その怪しい女の背丈と歳格好は、佐野真由美と似通っていた。

「おそらく、指紋を残すのを警戒してのことだ」

九十九は自身の推理にますます確信を深めた。

「警部、ここを」

御木本作品を調べることを命ぜられていた捜査員が、やや興奮した様子で、九十九にある文庫本の、ある箇所を示してみせた。

「…男は、絞殺とばれないよう、苦心の末、特殊なロープを開発した。簡単にいえば、締めた際に首の前にだけ跡が残るようにし、後ろには残らない仕掛けを施したものである。

(中略)それは、輪状にしたロープの交差部が、筒状の皮製ケースの中に納まる構造になっていた。そのケースの断面は『Ω型』とでもいうのか、横棒の上にゼロがくっ付いている形とでもいうのか、いずれにしてもそんな加工がされていた。むろん、首に直接当たる部分になるのが、平べったいほうの面である。

(中略)男は、その平らな面に、長さ約十五センチのスポンジを貼り付け、それを固定具とすることで、さらに幾重にも折り畳んだタオルをその内側に貼り付けた。このように、スポンジに固定されたタオルが、うなじにあてがわれるようにすることで、索溝がそこに残らないように工夫したのである。

(中略)注意すべきは、首吊りに似せるためには、顎に引っ掛けるようにして締める必要があるということだ。しかも、二種類の索溝が残ったり、ヒモを除こうとして咽元に引っかいた傷跡が残ったりしては、擬装がばれる可能性もある。男が考えた対策は、相手を迷いなく一気に締め上げた瞬間、そのまま背後から床に倒れこみ、両足をつかって相手の腕をブロックするという手法であった。こうして相手の上半身を股で挟み込めば、より腕に力を込めることもできるので、その分、本物の首吊りに近づけることもできる。まさに一石二鳥である。後背部にベッドがあれば、倒れこむのにさらに都合がいいと思われる。つまり、殺害場所は寝室又はホテルの一室が適当である。

(中略)さて、復讐に燃える男は、飼い犬のシベリアンハスキーを実験の生贄に捧げることにした。犬の首の周りの毛を剃った。そして、この特殊ロープで、犬の顎に引っ掛けるようにして、思い切って締めた。犬は窒息死した。しかも、たしかに首の前部にだけ絞めた跡が残り、後部には残らなかったのである。男は『これで首吊り自殺に似せてやつを殺すことができる』とほくそえんだ…」

九十九は本を閉じると、部下に言った。

「よくやったぞ」

この作品は五年も前に書かれたものだった。どうやら、この問題は、御木本にとってとっくに解決済みだったらしい。

九十九は捜査会議で言った。

「おそらく、推理小説家の御木本にとって、今回の犯罪もまた“作品”なのだろう。そして、やつにしてみれば、それを完全犯罪のうちに終わらせることが、“作品”を仕上げることに他ならない。だが、その“創作”の過程でふたりもの人間が殺され、その死が闇に葬られようとしているんだ。被害者の無念を晴らせるのは、おれたち警察しかいない。“作品”の結末は、なんとしてもおれたちの手で書き換えてやるんだ!」

「はいっ」みんなが一斉に頷いた。

 予想通り、中古のプリペイド式携帯電話の闇販売業者は、そう多くはなかった。

九十九たちは、わずか数人目にして該当者に行き当たった。

一番若い捜査員が“シン”と名乗っていた広告主に客を装って連絡をとり、接触を試みたところ、その男は作成した“サウザー”のモンタージュにそっくりだったのだ。

待ち合わせ場所である上野駅前某所で、男の説明した手順はこうだった。

まず販売店に身分証明書を提示して「本人確認」し、プリペイド式携帯電話本体とそのカードを購入する。その直後、男が三万円を上乗せして買い取る…それだけである。

むろん、それが別人の手に渡っているということは、男が別のところで「中古プリケイ売ります」の広告を出し、買い取り価格にさらに数万円ほど上乗せして、裏市場で販売しているということだろう。

捜査員自らがプリケイを購入し、それを男に買い取らせ、かつそれを逮捕の根拠としてしまっては、いわゆる「囮捜査」と非難されかねない。

その若い捜査員は、理由をつけていったん退いた。代わりに、別の捜査員たちが以後、その闇業者を張り込むことにした。

そして数日後、現行犯で逮捕することに成功した。

「いいか、長ったらしいから、よく聴け」手錠を取り出した捜査員は、懐からメモも取り出して読み上げた。「携帯音声通信事業者による契約者等の本人確認等及び携帯音声通信役務の不正な利用の防止に関する法律の違反でおまえを逮捕する」

通称「携帯電話不正利用防止法」である。

もっとも、軽犯罪であるためか、男はさして悔やんだ様子はなく、以後の取調べにも淡々として素直に応じた。

捜査員たちは、男の手で不正に転売された、例の二台の中古プリケイとその客について追及した。

だが、闇販売に関しては「購入希望者の身元を問わない」ことが売りであり、指定した待ち合わせ場所で「現物手渡し・現金決済」するのが常なので、「客の名前や電話番号などはまったく分からない」と、男は供述した。

おそらく、男の言う通りだろうと、九十九たちも思った。

だが、容姿なら記憶があるはずだ。

九十九が佐野真由美の写真を見せた時だった。

「ええ、この女のことなら覚えていますよ」男はあっさりと認めた。「なぜかっていうと、一度に二台を購入したからでさあ。そういう客は滅多にいるもんじゃない。しかも若い女がね」

ただし、男によると、髪型が大きく異なっているという。なんでも茶髪の巻き毛のロングだったそうだ。これは佐野の黒く真っ直ぐなショートヘアとは異なる。

おそらく、カツラを被っていたのだろう。しかも、彼女が闇業者との連絡用に使用したメールは、不正に取得されたと思われる「捨てアドレス」で、プロバイダーに当たってみても、当人はおろか御木本やその周辺の人間ですらたどることはできなかった。

いずれにしても、佐野真由美が裏市場を通じて二台の匿名プリケイを手に入れたことは分かった。しかし、その客が彼女であることを証明するのは、闇業者の言葉以外になく、有罪に持ち込むのは難しいように思われた。

ただ、彼女を署に引っ張る口実にはなりそうだった。

御木本は、彼女に買わせたその一台を愛人の東野真子との連絡専用に使い、もう一台を犯行時における公衆電話との連絡専用に使ったのだ。自らの痕跡を消すために。

だが、東野真子の携帯電話を含めたこの三台は、現在スイッチを切られ、その位置が把握できない状態にある。

そして御木本がこの危険な物的証拠を残しておくはずがない。

おそらく、とっくに処分されているだろうと九十九たちは推測した。

 新宿署の準捜査本部で、捜査会議が開かれていた。

列席者は九十九豊・捜査一課殺人犯捜査第六係長以下、本件の捜査員全員である。

各員の前には、会議用の資料が配布されていた。

これはあくまで議論のたたき台であって、正式な記録として残す資料ではない。

その一枚の文面は、次のようなものだった。

第一の殺人――日付・八月二十日

被害者・御木本良子 場所・御木本宅 死亡推定時刻・午後四時から同三〇分の間

N公園前公衆電話と匿名プリケイの通話時間……午後三時五五分から四時〇八分の間

P出版と御木本名義携帯電話の通話時間……午後四時〇三分から同〇八分の間

N公園より南一キロ地点公衆電話と匿名プリケイの通話時間……午後四時二七分から同三四分の間

G出版と御木本名義携帯電話の通話時間……午後四時二八分から同三四分の間

*二度とも携帯電話を切った直後に、公衆電話と匿名プリケイも切られている。

第二の殺人――日付・十一月十八日

被害者・東野真子 場所・新宿ビジネスホテル 死亡推定時刻・午後九時から同三〇分の間

某三丁目公衆電話と匿名プリケイの通話時間(一度目)……午後八時五五分から九時〇八分の間

Z出版と御木本宅固定電話の通話時間……午後九時〇五分から同〇八分の間

某三丁目公衆電話と匿名プリケイの通話時間(二度目)……午後九時二八分から同三四分の間

W出版と御木本宅固定電話の通話時間……午後九時三〇分から同三四分の間

*二度とも固定電話を切った直後に、公衆電話と匿名プリケイも切られている。

 九十九が捜査会議を先導していた。

「第一のケースだが、N公園前公衆電話が何者かによって使用され始めて間もなく、同じ地域にあった御木本の携帯電話に出版社からの連絡が入っている。次に、その約二十分後、同様にN公園から南一キロ地点の公衆電話が使用され始めてすぐ、やはり同じ地域にあった御木本の携帯電話から出版社へと連絡が行っている。つまり、同じ地域にある公衆電話と携帯電話が、同じ時間帯に使用されているんだ。ちなみに、ふたつの公衆電話から連絡の行った匿名プリケイだが、二度とも台東区三筋にある作家宅の周辺で受信している。そしてその時間帯は、まさに作家の妻が“自殺”した時間帯でもある…」

九十九はここで列席者の顔を見回した。どの顔も真剣そのものだ。

ある者は緊張の色を浮かべ、ある者はしきりに頷いている。

警部は続けた。

「次に第二のケースだ。こちらの場合も、やはり同じ匿名プリケイが常に作家宅の周辺で使用されている。何者かによって新宿の公衆電話からその匿名プリケイへと連絡が行ってしばらくすると、作家宅の固定電話に出版社からの連絡が入っている。次に、その二十分後、やはり同じ公衆電話からその匿名プリケイへと連絡が行き、その直後、その固定電話から出版社へと連絡が行っている。つまり、同じ地域にある固定電話と匿名プリケイが、同じ時間帯に使用されている。そしてその二度の連絡の間こそ、作家の愛人が“自殺”した時間帯だ…」

九十九はまた列席者の顔を見回しながら、言った。

「以上は、単に客観的事実を述べたまでだ。これに関して、みんなから忌憚のない意見を聴かせてほしい」

さっそく数名から手が上がった。九十九はそのひとりを指した。

「問題は、その通信記録上の客観的事実が、事件にとって持つ意味だと思います。はっきり申し上げて、事件性を間接的に裏付けているに過ぎないと思います」

次に、別の捜査員が発言した。

「私が思うに、それらの事実が事件にとっての状況証拠に貶められている理由は、御木本名義の携帯電話と匿名プリケイの受信位置が、常に『公衆電話と同じ地域』とか『作家宅と同じ地域』というふうに、ぼやけていることにあるのではないでしょうか」

うむ、と皆が頷いた。

「たしかにそうだ」九十九も頷いた。「事業者のほうで算出される非GPS携帯電話の電波受信場所は、いつも誤差が数十メートル以上ある。つまり、使用されたのが公衆電話ボックスの中だとか、御木本宅内だとか、明確に特定できるわけではないんだ」

一同は「うーん…」と考え込んだ。

「それだけではありませんよ」ひとりが口を開いた。「公衆電話と裏プリペイド式携帯電話は、使用者にとってどちらも匿名性が保障されています。この二つの間でいくら連絡をやり取りしたところで、いかなる記録にも通信者の名前は刻まれません。ですから、その二つを使っていたのが御木本と佐野であることを証明するのは、至難の業だと思います」

「それなんだよ…」九十九がやや苛立たしそうに、いつもより激しく頭をかき始めた。「ある意味、これがホシの最大の強みなんだ。なぜなら、たとえトリックがバレたところで、その証明が難しい以上、逮捕に繋がることはない。ホシにしてみれば、堂々開き直っていりゃいいというわけだ」

「いくらわれわれが犯行動機と殺害方法を解明したところで、それを証明する直接証拠がない以上、起訴に持ち込むことは難しいというわけですか」

「そうだ。せめて、犯行に使われたと思われる携帯電話の現物が残っていりゃ助かるんだが、その唯一の物的証拠もとっくの昔に隠滅されてしまったと思われるし…」

その場は、「さて、どうしたらいいものか」という雰囲気になった。

会議が次第に重苦しい沈黙に覆われ始めた。

状況証拠のほうは、ほとんど出揃ったといってよい。

切り札はないが、弱いカードなら手元にある。これを使って、果たして御木本を有罪に持ち込めるのか否か。

あとは「ミステリー作家 対 刑事警察」の知恵比べだった。

「あのう…」と、ある新米捜査員が恐る恐る挙手した。

九十九は、その自信なさげな、中途半端な挙手の若者を指した。

「実は、つい昨日、そのプリケイの携帯電話事業者のところで調べものをしてきたついでに、『何かの役に立たないか』と思って借りてきたんですけど…」

それは一台の、銀色の携帯電話だった。公衆電話との連絡専用に使われた例の匿名プリケイと、まさに同じ機種・同じカラーであるという。

彼は言うには、その後に聞き込みに回り、署に戻ってきた時には夜も更けていて、警部以下メンバーがみな帰宅してしまっていたので、提出のタイミングが今日になったとのことだった。

彼は「役に立つかどうか分かりませんが…」と言って、それを差し出した。

九十九はテーブル越しにその携帯電話を受け取った。だが、しばらく手にとって弄んだ後、あまり興味なさそうに「うん」とだけ言って、隣の捜査員に回した。

彼は警部から受け取ると、ほとんど一瞥しただけでまた隣に回した。

その携帯電話が次々と隣にパスされていった。

「こんなもの、借りてきたって、何の役にも立たないだろ」

受け取ったひとりが口火を切った。すると、順番にそれを手にした捜査員たちが、気まぐれに開いたり閉じたりしては、散々こき下ろし始めた。

「立たねえよなあ」

「うん。意味ねえよ。返しに行くのもおまえだぞ」

「で、これで、どうしろと?」

酷評だった。

やがて、携帯電話はテーブルをぐるりと半周し、「そうすっか…」と頭をかく新米のところに戻ってきた。その時、突然、九十九が頭をかく動作をやめた。

「いや、待てよ…」

 暮れが押し迫っていた。クリスマスを前に、新宿の街も華やいでいた。

その街中にある新宿署の取調室で、うら若き女性が椅子に座っていた。

事情聴取に呼ばれた彼女の名前は、佐野真由美。

自ら対峙した九十九は、写真で見るより、ずっと清楚で上品な印象だと思った。

おそらく、彼女は、御木本から知らぬ存ぜぬで通せと指示されているだろう。犯行当日のアリバイに関しても「そんな前のことは覚えていない」の一点張りだ。

「この男を知っていますね」九十九はさっそくある写真を差し出した。「あなたに中古のプリペイド式携帯電話を売ったと証言していますよ。しかも二台も」

「…………」佐野は目を伏せていた。

「周知のとおり、プリペイド式携帯電話は、振り込め詐欺とか、ドラッグの売買とか、犯罪に利用されるケースが多発したので、不正な譲渡を禁止する法律が作られました。売人だけでなく、裏市場で買った側も違法性を問われるんですよ」

佐野は黙秘をしていた。

「まあ、いい」九十九は男の写真を引っ込め、次に別の写真を差し出した。

「この公衆電話ボックスに見覚えがありますね?」

「!」

佐野が一瞬、驚いたように目を見開いた。それはN公園前の、一見何の変哲もない公衆電話ボックスだった。

九十九は、彼女の明らかな反応を見逃さなかった。

「知りません」

だが、佐野はそう言い切ると、元の無表情に戻った。

九十九は、そんな佐野の顔をしばらく見据えて、「うむ」とだけ言った。

そしていきなり同室の部下のほうを振り返るや、「おい」と叫んだ。

その捜査員は白い手袋をつけていた。そして両手でビニール袋を摘まんでいた。

その中には、一台の携帯電話が入っていた。

「いやあ、急な申し出で、申し訳ありません」

九十九は御木本幹夫に対して詫びた。

ふたりは新宿署の取調室でテーブルを挟み、対峙していた。そこは数時間ほど前まで佐野真由美がいた場所だった。

「で、ご用件は、何ですかね?」

舶来もののセーターとスラックスを着込んだ御木本は、急な事情聴取に呼び出されたためか、ややふてて椅子にふんぞり返っていた。

「実は、あなたの妻である良子さんが、殺害されたのではないかと思いましてね」

「ほう、それはまた」作家は疑わしそうに目を細めた。

「しかも、東野真子さんを殺した犯人と、同一犯ではないかと」

「彼女もまた殺された、とおっしゃる?」

「ええ」九十九が頷いた。「しかも、あなたのアシスタントをしている佐野真由美が共犯者である疑いが強いのです」

作家は刑事を睨みつけた。

「まるで出来の悪い三文ミステリーですな」

「ではその三文文学で結構ですから、私の考えたストーリーを聴いていただけますかな?」

作家は呆れたように大きく肩をすくめると、「どうぞ」と一言いい放った。

 その作家先生は、ふたりの女に心底うんざりしていた。

ひとりは、金を無心しつづける元愛人の女。そしてもうひとりは、離婚して財産を半分よこせと主張する妻。

このふたりに嫌気が差していたそんなある日、作家はひとりの清楚な女子大生と出会う。名前は佐野真由美。ふたりの仲は次第に深まった。

やがて作家は、邪魔なふたりの女を殺して、彼女と一緒になろうと決意する。

彼はその犯行の一年も前から計画を練り始めた。

作家がまず手をかけたのは、自分の妻だった。

決行日は、今年の八月二十日だった。

夏真っ盛りのその日、佐野真由美は、事前に作家名義の携帯電話をもって、足立区にあるN公園へと向かった。彼女は手袋をして近くの公衆電話ボックスの中に入った。ちなみに、他者からその携帯電話に連絡が入ると、その時点における位置の奇妙さや矛盾を後で突付かれる可能性もあるので、犯行使用時以外は、スイッチは切っていたと思われる。

午後四時前。正確には、午後三時五十五分、佐野がその公衆電話から、作家宅にある匿名プリケイに連絡を入れた。出たのは、作家本人だった。ふたりはとくに会話するわけでもなく、通信をずっと繋げていた。むろん、別の部屋には、妻の良子もいた。

午後四時三分、事前の申し入れ通り、P出版の編集者が作家名義の携帯電話に連絡を入れた。佐野はその通話キーを押すと、携帯電話を逆さまにし、黙って公衆電話の受話器と向かい合わせた。

こうして作家は、そこから十キロも離れた自宅にいながらにして、N公園前で受信した携帯電話を通して、編集者と話をすることができた。

午後四時八分、両者の会話は終了した。作家名義の携帯電話を切ると、佐野は公衆電話の受話器を戻し、また自宅にいる作家のほうも匿名プリケイを切った。

それから作家は、自らが開発した特殊ロープ――それは首の前にだけ索溝を残し、後ろには残さない――を取り出すと、背後から妻に襲い掛かった。

作家は妻を絞殺した後、欄間にロープをかけ、その遺体を首吊り自殺に見せかけた。

一方、佐野真由美は、その間にN公園から一キロ南下した地点に移動していた。

佐野は、その付近の公衆電話ボックスに入ると、午後四時二十七分、再び作家宅にある匿名プリケイに連絡を入れた。作家はまたそのプリケイに出た。

佐野は続いて、作家名義の携帯電話を取り出し、G出版の編集者に連絡を入れた。そして相手が出た瞬間、その携帯電話を逆さまにし、公衆電話の受話器と向かい合わせた。

こうして作家は、匿名プリケイを通して、午後四時二十八分から同三十四分までの間、編集者と会話を続けた。そしてそれが終わると、趣味のウォーキングの格好をし、自宅に鍵をかけ、密かにそこを後にした。

どこでふたりが落ち合ったのかは分からない。いずれにしても、作家は事前に決めた場所で佐野真由美と落ち合い、彼女から自分名義の携帯電話を受け取った。

そして午後七時前、改めて「帰宅」した。そして「様子が変だ」と言い、自宅前から、その携帯電話を使って、錠前屋や警察に連絡を入れた。

その後の上野署の捜査の結果、その通話記録から、妻の死亡推定時刻である午後四時から同半の間、作家は「外出していた」と見なされ、疑いがかかることはなかった。

作家は妻の死が「自殺」と片付けられたことに自信を深めた。

彼が次に手をかけたのが、かつて銀座のホステスをしていた元愛人だ。

十一月十八日、場所は新宿のビジネスホテルの一室でのことだった。

四階の角部屋に入室したばかりの東野真子は、午後八時五十分、自らの携帯電話から、生前最後の連絡を入れた。相手先は匿名プリケイだ。それは東野真子との連絡専用に使われていたものだった。出たのは、そこからほど近くにいた作家先生だった。

その時、おそらく作家は、「九時十五分に外階段側から非常用ドアを叩くから、開けて中に入れてくれ」とでも言ったのだろう。

午後八時五十五分、手袋をしていた作家は、そのホテルにほど近い某三丁目公衆電話ボックスに入り、自宅に置いてある別の匿名プリケイに連絡した。

出たのは、作家宅に詰めていた佐野真由美だ。ふたりは通信をしばらく繋ぎっ放しにした。それから十分ほど経った午後九時五分、事前の申し入れ通り、Z出版の編集者から、作家宅の固定電話に連絡が入った。佐野は、無言で固定電話の受話器をとると、一方の匿名プリケイを逆さまにし、向かい合わせた。

こうして、作家は新宿の公衆電話ボックスにいながらにして、午後九時五分から同八分までの間、自宅の固定電話を通して編集者と会話した。

ちなみに、作家宅のテレビの音を大きくしていた理由は、ふたつあった。ひとつは公衆電話の受話器から微かに入る街の喧騒から、編集者の意識を反らせるため。もうひとつは、自分が好みだと事前に言いふらしていたテレビドラマの音を聴かせることで、この時のアリバイを編集者の記憶に刻み付け、後に有利な証言を引き出すため。

さて、編集者との会話を終えた作家は、次にホテルに向かった。時間ははっきりしないが、東野真子の手引きで、午後九時十分から二十分までの間には入館したと思われる。

そして、彼女の部屋に入るなり、例の特殊ロープを使い、絞殺した。

作家は、彼女を自殺に見せかける擬装を施した後、同じ非常階段を使って建物の外へと出た。当然、部屋の鍵をかけて出て行くことはできない。また、彼女の携帯電話も、証拠隠滅の必要性からそのスイッチを切り、持ち去った。

作家は、またしても先ほどの某三丁目公衆電話ボックスに入ると、午後九時二十八分、再び自宅にある匿名プリケイに連絡した。出たのは、また佐野真由美だ。

同三十分、佐野が作家宅の固定電話からW出版の編集者に連絡を入れた。相手が出ると、佐野は無言で匿名プリケイを逆さまにし、その固定電話受話器と向かい合わせた。

作家と編集者は、午後九時三十分から同三十四分までの間、話し合った。

その後、作家は密かに自宅に帰った。その交通手段は分からない。ただ、近くでタクシーを拾うのは危険だし、近隣の公共交通機関を利用するのも危ういに違いない。むろん、「自宅にいた」のだから、自宅の最寄り駅を利用するのも論外だ。

一番いいのは、自転車だ。新宿から台東区三筋までは、自転車で三十分くらいの距離に過ぎない。もっとも、本当にこれを利用したか否かは分からない。

いずれにしても、東野真子の死亡推定時刻である午後九時から九時半の間、作家はこのようにして、自宅にいたというアリバイを作ったのだ。

その後、彼が証拠品である東野真子の携帯電話と二台の匿名プリケイを速やかに処分したことは、言うまでもない…。

 九十九の「ストーリー」が終わった。

その途端、御木本幹夫が笑い始めた。

さも滑稽だというふうに、拍手も交えて。

「いやいや、どうして、どうして、警部さんもたいした想像力の持ち主じゃありませんか。聴いていて、なかなか面白かったですよ」

「稀代のストーリーテラーである先生から、お褒めに預かりまして、光栄です」

「どうやら、警部さんも、ミステリー作家としての才能がおありのようですな」

「本件みたいに、いつもリアルなミステリーに取り組んでいるせいでしょうか」

「ところで…」御木本の目が突然、座った。「その“作家”というのは、どうやら私のことらしいですな」

「お気づきになられましたか?」

「気付くも気付かないも、私以外にいないじゃありませんか。なるほど、ご想像が豊かなのは結構でしょう。で、肝心の、私が妻や元愛人を殺したという証拠は、どこにあるんです? それがないのに、私を勝手に犯人に仕立て上げた物語を創作したとあっては、警部さんとしても何かとまずいことになるのではありませんか?」

御木本はふてぶてしく開き直っていた。

「証拠ですか…」九十九はやれやれというふうに頭をかいた。「御木本さん。あなたは事件後、その匿名のプリペイド式携帯電話のスイッチを切り、処分した…つもりだった」

九十九が取調室にいた部下のほうを無言で振り返った。

「?」御木本も釣られてそっちの方向を見た。

その部下が頷くと、部屋の外に半身を乗り出して、廊下に待機していたらしい誰かを手招きした。すると、白手をした別の捜査員が入室してきた。彼は一台の携帯電話が入った透明なビニール袋を、さも大事な証拠品であるかのように両手で摘まんでいた。

それを見た御木本の顔が青くなった。

「おやおや、先生。これに見覚えがあるようですね? 実は、携帯電話が見つかったんですよ。これにはバッチリと指紋も付いていました」

だが、作家は一瞬、目を泳がせただけで、すぐに顔色を回復した。

「アハハハ…」御木本は傑作だと言わんばかりに笑い始めた。

九十九も笑った。ふたりは、しばし声を合わせて笑った。

「刑事さん!」やがて引きつりの収まった御木本が口を開いた。「そんな手には引っかかりませんよ。私はむろんその匿名プリケイとやらのことは知りませんが、今の刑事さんの話からすると、そのビニール袋の中の物がその匿名プリケイと同じ機種であっても不思議ではないことくらいは、すぐに分かりますよ」

「ほほう、それはまたどうしてですかな?」

「なぜなら、その“犯行に使われた”とかいう公衆電話を警察が割り出したということは、その通話先である匿名プリケイの電話番号もまたすぐに割り出せるわけでしょう。ということは、そこから携帯電話事業者や販売店も容易に分かるはずだから、機種を特定することも簡単なはずだ。そして刑事さんは、同じ機種を用意して、私の反応を試そうとしたんだ。要は、私を引っ掛けようとしたに過ぎない」

「引っ掛けようとした?」

「刑事さんは『携帯電話が見つかった』と言った。そう、たしかに見つかった。販売店か事業者のほうで、同じ機種のものが。また、『指紋も付いていました』と言った。そう、たしかに付いていた。誰のものか分からない指紋が」

「うむ」

「実に巧妙ですな」作家は吐き捨てた。「刑事さんは決して嘘をついているわけではない。事実をありのままに言っている。だが、その意図や目的は明白だ」

「フフフ…」九十九がまいったというふうに笑った。「さすがですな、先生。そう、私はたしかに『指紋も付いていました』と言ったが、“誰の”とは言っていない…」

「私がそんな手に引っかかるとでも思ったんですか?」

「まさか。われわれもそんなことは期待していませんよ」

「ならばどうして?」

「そう、たしかにあなたなら、こんな幼稚な手には引っかからない…」突然、九十九の表情が生真面目なそれに豹変した。「だが、あなたのアシスタントならどうですかな?」

その瞬間、御木本は、はっきりと分かるほど、ギクリとした。

「う、うちの佐野が…?」

「実は、ほとんど入れ違いでね。先ほどまで佐野真由美さんを事情聴取していたんですよ。もっとも、今はこの建物の留置場にいますがね」

「なにっ!?」

「犯行に使われた匿名のプリペイド式携帯電話は」九十九の声がふいに大きくなった。「おそらく、今事件における唯一の物証だ。事件の鍵を握るブツといってよい。よって事件後は、完全かつ慎重に始末されねばならない。それゆえ、そんな大事な仕事を、あなたがアシスタントに任せたとは思えない。むろん、理由はそれだけじゃない。あなたにとってこの犯行は、いわば“作品”だ。証拠品の隠滅はその最終段階――仕上げの部分に当たる。あなたが筋書きの創作者である以上、締めくくりの部分は自ら“描く”はずだ。だから、われわれは、あなた自身が証拠品の隠滅を図ったと推測した」九十九が机越しに身を乗り出した。「ドンピシャリでしたよ、先生。本物はハンマーで叩き潰して、燃えないゴミとして捨てたそうじゃないですか」

御木本は息を呑み、目を白黒させた。

「い、いったい何を根拠に、そんなことを?」

佐野真由美の供述ですよ。実は、正直に言うと、われわれも犯行を直接証明する物的証拠がないことが気になっていた。だから、彼女からうまく証言を引き出すことに的を絞ってみたんだ。われわれはまず、中古プリケイの闇販売業者の顔写真を彼女に示し、『買ったほうも違法だぞ』という意味のことを言った。それから次に、足立区のN公園前にある公衆電話ボックスの写真を示した。こうして『われわれ捜査当局は何もかもご存知だぞ』ということを印象付けたんだ。言葉は悪いが、彼女を心理的に追い詰めた。それからおもむろに、今あなたの前でやってみせたのと同じパフォーマンスを演じてみたんだ…」

「ま、まさか…」御木本は顔面蒼白になった。

「そう、ひとりの捜査員がわざわざ白手を付けて、ある特定機種の携帯電話を、さも大事な証拠品らしくビニール袋に入れて、掲げてみせた。そして私は彼女に言った。『携帯電話が見つかった。指紋も付いていた』と」九十九が肩をすくめた。「われわれは別に彼女を騙しちゃいないさ。なにしろ、嘘はひとつとしてついていないのだから」

「そ、そんな馬鹿な…」

「すると、彼女はブルブルと震え出したよ。どうやら、私の言葉を聴いて、『自分の指紋がその匿名プリケイに残っている』と勝手に想像を先走らせたようなんだ。そして自供をはじめた。彼女は悔やんでいたよ。『先生から“ハンマーで粉々に砕いて燃えないゴミとして捨てた”と聴いていたのに…』と。彼女は証拠品の処分の現場を直接は見ていなかったんだ。だから、先生が彼女を安心させるために処分したと言っただけで、本当はまだ先生の自宅のどこかに隠されており、それを警察が家宅捜査で見つけ出したのだろうと、彼女はそこまで想像を先走らせたんだ。そしてつい先ほど、彼女は洗いざらい自供したんだ」

御木本はいきなり立ち上がると、バンと机をぶっ叩いた。

「そんなものは証拠にならん! 誘導尋問によるでっち上げだ! 冤罪だ! 君は刑事のくせに刑事訴訟法も諳んじておらんのか!? 法廷でそんな証拠が採用されると思ったら大間違いだぞ!」

作家はありったけの声で怒鳴ると、またバンバンと机を打った。

だが、九十九は見抜いていた。この威嚇調の態度こそ、追い込まれた容疑者がしばしば見せる防衛反応であることを。

「先生」九十九の声はひどく落ち着いていた。「今回、それに関してはこちらもずいぶんと気を使っていましてね。なにしろ、我ながらトリッキーな捜査手法ですから。ですから、そうやって調書を捏造したと思われないように、たいへん異例ですが、彼女の自供段階で弁護士さんを呼び、同席してもらったんですよ」

「な…」

「彼女の自供から様々なことが分かりました。あなたは自ら開発した特殊な絞殺具の材料を、わざわざ千葉まで車を走らせて、現地のホームセンターで買ったそうじゃないですか。そこに問い合わせたら、防犯カメラの記録もレジの記録も、数ヶ月前のものならちゃんと保存していると言っていましたよ。先刻、捜査員を確認に向かわせました。それから、あなたは東野真子を殺害する少し前、彼女と予約制の高級フランス料理店で食事したそうですね。まさかマスクやサングラスをしたまま食べないだろうから、そこで素顔をさらしているはずだ。写真をもった捜査員が今、店のほうに向かっていますよ」

御木本はもはや茫然自失して椅子に支えられていた。

「一見、完全犯罪に見えても、わずかな綻びがある。そこから犯行が発覚する…それが推理小説の醍醐味ってやつでしょう。そうじゃないですか、先生?」

 

(了)

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