戦前の歴史に見る――なぜ国家は戦略を誤るのか

オピニオン・提言系




戦前に戦争指導をした東条英機以下は陸軍大学卒の「戦争のプロ」たちだった。

だが、結果は惨敗。亡国一歩手前だった。

専門家だから、その道のプロだから、正しい判断が下せる、とは限らないのだ。

又、とりあえず動く、何か対策をすればいい、というものでもない。

あえて「何もしない」ことも、また“対策”なのである。

こういう「戦略センス」は、学識よりも、持って生まれた資質に拠るところが大きいかもしれない。そして戦略センス無き者が国を指導すると、国が誤る・・。



昭和天皇の意志通りなら満州国建国で事は終わっていた

当時、同じ戦争指導の立場にあって全員が「拡大派」だったわけではない。たとえば、昭和天皇と石原莞爾は「満州国建国で拡大方針はいったん打ち止め」派であった。

そして後の歴史から見れば、この判断は戦略的にまったく正しかった。このラインで日本帝国の国益はマックスであり、ここから先が戦略的敗北の始まりであった。

一時は東条と出世レースを争った石原莞爾は、満州事変をリードした人物だが、その彼は無制限な中国侵略派ではなく、満蒙を得た後は「日本は外征をしばらく打ち止め、当面は重工業などの国力の充実に尽力すべき」という信念を持っていた。

また、関東軍の独走を黙認した大元帥たる昭和天皇もそうだったようだ。

天皇は「満州の切り取りまでならギリギリ英米との戦争を回避できる」と読んでいたようで、それは正しかった。おそらくは英国との直ルートからの判断ではないか。

だから、満州国までは軍部の行動を追認し続けた昭和天皇だが、関内(万里の長城よりも内側)へと侵攻することは、絶対に認めなかった。

わざわざ閑院宮参謀総長を呼んで、「関内には入るな」と厳命した。

だから関東軍が「また追認してもらえる」と踏んで勝手に侵入した時には、昭和天皇はたいそう憤慨したと伝えられている。

そういった大元帥の意向もあり、1933年5月31日、日中両軍の間で「塘沽(タンクー)停戦協定」が締結された。これで31年9月の柳条湖事件に始まる「満州事変」はいったん終わりを告げた。以後、戦火は止む・・・はずだった。

昭和天皇も石原莞爾も「ここでとにかく打ち止め」という考えだった。

ところが、陸軍内には東条英機らのように大陸をどんどん切り取っていけると算段するグループがいて、関内での軍事衝突と安全保障を理由にして、1935年から「華北分離工作」を進めていった。「華北分離工作」とは、満州国と中国との間に緩衝地帯を作るという名目で、北支五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)を蒋介石政府の影響下から切り離して、日本のそれへと置くための軍事政治工作である。

日中戦争の真の始まりとなった華北分離工作

実は、私見では、ここからが戦前日本の破滅の始まりだったのである。

私自身は、ここからがまた「中国本格侵略の始まり」であり、日本帝国としての「戦略的敗北の始まり」であると、常々考えている。

これは現代の日本人・中国人の双方が誤解していることであるが、当時の中国人の中国観・領土観は、今とは少し違っている。清から解放された直後は「漢民族意識」が強く、「万里の長城よりも北にある満州は満州人の領土」という考えが支配的だった。

なにしろ、蒋介石からしてそういう考えだったのである。

逆に言えば「関内」からは真性の「漢民族の領土」(≒当時の中国)である。

だから、孫文も蒋介石も、関内における自分たちの支配権を承認してくれるなら、満州は日本にくれてやることもやむなし、とすら考えていた。

当時の大半の漢民族にとって、満州というのは、その程度の存在だったのである。

だいたい日本が本格開発するまでは、茫漠としたとんでもない未開地だった。

だから、1935年から日本軍が「華北分離工作」の名の下に関内に侵入してきた時、蒋介石は「日本がついに中国の侵略を始めた」と受け止めて、徹底抗戦を決意した。

そして、それが国共合作へと繋がり、国民的抗日へと繋がっていく。

教科書的歴史では、1937年7月、北京市の西南郊外の「盧溝橋」で日中両軍が偶発的に軍事衝突して戦争へと拡大していった・・などと説明されているが、これは間違いではないにしろ、本質的に正しいとも言えない。

日中の宣戦布告なき戦争は、1935年の「華北分離工作」から始まっていたのである。

だから、そういう常識を知悉していた昭和天皇や石原莞爾は、「満州国建国で拡大方針はいったん打ち止めしなければならない」と考えていたのであった。

また、英国支配層と繋がっていた昭和天皇なら当然、蒋介石のバックが「浙江財閥 < サッスーン家 < フランクフルト金融集団」である事実、及び、故に関内を侵略すれば蒋介石だけでなく英米・世界支配層をも敵に回すことも危惧していたに違いない。

敵を侮る、大衆とマスコミの熱狂に迎合する、「損切り」ができない等の過ちの数々

厳密には、華北分離工作以降も、又、盧溝橋事件以降も、何度も停戦して元の位置に戻れるチャンスはあった。つまり、満州は依然として実質日本領のままである。

ところが、暴走し始めた軍部は、「小さな犠牲を斬り捨てて、大きな戦略的勝ちを取る」ということができなかった。換言すれば「勝ち逃げ」ができなかった。

あくまで、相手を屈服させて責任を取らせるという思考に固執した。

小さな犠牲を払ったがゆえに、それを取り返さなければならない、それまでの方針を貫徹せねばならない・・という、相場でいえばズルズルと追証に嵌まる心理である。

だが、ほぼ全国統一を成し遂げた蒋介石の中国は、それまでの「叩けば屈服する」中国とは変化していた。日本軍に対して猛反発したのである。

それが上海事変へと連鎖し、日本は居留民保護のため二個師団の派遣を決めた。

松井石根大将らは依然として中国軍などすぐに屈服すると侮っていたという。

ところが、ナチスと軍事提携し、顧問団の派遣や武器の支援を受けていた国民党軍の精鋭部隊は頑強に抵抗し、日本軍は次々と追加派遣を強いられた。

戦闘は3ヶ月も続き、蒋介石が最終的に撤退を命令したのは1937年11月。

この頃の日本では「下克上」といい、命令無視が横行し始めていた。

松井大将は勝手に首都南京を落としに進軍してしまう。上海派遣軍が「中国侵略軍」に化けてしまったのだ。大将は南京を落とせば優位な条件で講和を結べると算段した。

しかもその進軍を煽りに煽ったのが従軍マスコミであった。

報道陣は先を争って日本軍の進撃を伝えた。当然、国民は熱狂した。当時の大衆感情を表すのが暴支膺懲(ぼうしようちょう:暴虐なるシナをこらしめる)という言葉だ。

下からの突き上げとマスコミ報道の加熱で、結果的に優柔不断な第一次近衛内閣も、又陸軍参謀本部も、松井大将の独断専行を追認する以外になかった。

ところが、南京を落としても、蒋介石は重慶へと逃れて行き、徹底抗戦を決意した。

英米の世論も「日本の侵略を受けている可哀相な中国を助けろ」と傾いていった。

結局、南京陥落後も問題は終わらず、日本はずるずると戦争を続けていく。

すると、戦いに大量の将兵の命を犠牲にしたことで、かえって、政府も軍部も、有利な条件で講和を勝ち取るまで、政治的に引くに引けなくなってしまった。

為政者にとって、自分の責任問題や面子の問題になったのだ。

この調子で日本は日中戦争の泥沼に嵌まってしまう。そして、そこから西側諸国とも本格的に対立し、南部仏印進駐まで行き、相手を完全に敵に回してしまう。

そして、日中戦争にケリをつけないまま、対英米戦争を始めてしまった。

戦略ミスに、さらに大きな戦略ミスを重ねてしまったのである。

対米戦の前に昭和天皇が激昂したことはよく知られている。昭和天皇的には元々、満州国建国で終わりにして、中国との戦争もやりたくなかった。ましてや英米とも。

東条英機ら戦争指導者は、サイパン島を落とされてB29が襲来しても、ずっとこの調子で、それまでの損失を計上して自分が全責任を取る、という事ができなかった。

似た過ちを繰り返している今の日本

さて、以上のように、戦前の日本は、満州国建国をもってピタリと拡大を打ち止めし、当面は「動かざること山のごとし」でいれば、国益を最大化することができた。

しかも、それは「後だから言える話」ではなく、当時、実際にそうすべきだと考えていた慧眼の持ち主が、昭和天皇はじめ指導部の中にも少なからず存在していた。

むろん、それが良いか悪いかは、今日的な価値観ではまた異論があろう。

ところが、現実の歴史では、大元帥の意志に反して、日本軍は「関内」への侵略を始め、蒋介石中国との本格的な衝突へと突き進んでしまう。

しかし、以後、出血を繰り返しても、その犠牲(損)を早期に斬り捨てる決断さえできれば、まだ戦略的勝ちのままで終われるチャンスは幾度となくあった。

ところが、相対的に小さな犠牲を容認できず、あくまでそれに見合う「対価」(中国側の譲歩)を得ることに執着した結果、どんどん犠牲(損)を拡大していった。

こういった事例は、今の日本にそのまま適用できるわけではない。

しかし、はるかに小なりとはいえ、似たような過ちを犯していることは分かる。

新型コロナウイルスとの「戦い」を戦争になぞらえる向きは少なくない。

それはこの1月半ばから5月末(あるいは完全な収束までさらに一か月か、二か月)までの「戦い」と言うことができる。

果たして、われわれは「欧米がこうだから」と自己洗脳して、欧米と同じレベルで果敢にウイルスと“戦う”必要があったのだろうか。

戦前は敵を「侮る」という過ちを犯したが、敵を「過大評価する」というのも、実は戦う相手を測り間違えている点で、反対側にある同じ種類の過ちである。

初期は情報が不足・錯綜していたからまだしも、3月の半ばから後半にかけては、戦略的判断を下せるだけの十分な材料がすでに揃っていたはずである。

散々恐怖を煽っていたマスコミは今、失業・倒産問題を盛んに取り上げている。

誰のせいなのか。マッチポンプかよと。

すぐに「本当は大騒ぎするほどの事ではなかった」とか、「実はさしたる対策はしなくてもよかったのではないか」という声が出始めるだろう。

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