ジャーナリスト高沢皓司氏の「『オウムと北朝鮮』の闇を解いた」第7弾です。
第一、これは大事な情報なので、もっと世間に広まるべき。
第二、様々なサイトに転載されてから、すでに15年以上も放置されている。
以上のことから、その公益性を鑑み、「著作権者の高沢氏からの抗議が来たらすぐにやめる」ことを条件にして、勝手ながら当サイトでも転載させてもらうことにしました。
(以下引用 *赤字強調は筆者)
「週刊現代 1999年10月9日号」高沢皓司(ノンフィクション作家)
「よど号」犯リーダー・田宮高麿が漏らした決定的な一言とは・・・
犯人はもとより、これがオウム真理教の仕業かどうかも、いまだ不明なままの国松孝次警察庁長官狙撃事件。だがこの事件に関し、驚愕すべき証言が存在していた。目撃された犯人像が、「よど号」犯の一人、田中義三容疑者に酷似していた、というのである!
黒いコートを着た、背の高い男
地下鉄サリン事件が起きた日から数えて、ちょうど10日後、1995年3月30日の朝、東京・荒川区南千住の高級マンション、アクロシティFポート(棟)の脇に、黒いコートことに身を包んだひとりの男が立っていた。
最初の目撃証言は、出勤途中の同マンションに住む会社員である。
「ちょうど現場を通りかかった際、その男と出会いました。男は、雨が降っていたのにカサもささずに、Eポートの入り口付近を見ていました。じっと、様子を窺っているというか、凝視しているというふうでした。変な人だな、と思いましたね。ひょろっと背が高く、黒いレインコートを着て、黒いズボンをはいていました。左手に30センチ四方くらいのバッグを持っていたのをおぼえています。顔はよくわからなかったのです。黒っぽい毛糸の帽子をかぶり、メガネをかけ、鼻まで隠れるくらいの大きな白いマスクをつけていました」
その日の東京は前夜からの篠つく雨、隅田川に面して建つアクロシティの上空にも厚い雲が垂れ込めていた。しかし、男は左手にカバンを持っただけで、カサは手にしていない。出勤途中の会社員は、至近距離からこの男を目撃しているにもかかわらず、その顔を見てはいない。男の顔はすっぽりと帽子やマスクで覆われていたからである。
当時の報道記事や捜査資料から、この男についての目撃例を再検証すると、この朝、アクロシティFポート付近で目撃された不審な人物の報告は数件。そのうち捜査当局がもっとも重視している目撃情報は、この会社員によるものと、やはり同日7時半頃、Eポート周辺を往復していた男についての目撃例。さらに、ほぼ同じ時劾頃、ちょうどEポート、Fポートと向きあうように建っているBポートのエレベーター内にいた「ずぶ濡れの男」の目撃例である。Bポートのこの場所からは、国松長官の部屋の中が見通せた。
いずれも、服装および持っていた所持品等についての目撃内容が一致しているところから、同一人物と見られている。
それからおよそ1時間後、男は同マンションFポートの、Eポートの玄関が見える小さな植え込みの陰にいた。
午前8時25分頃、隅田川沿いの一般道、Eポー卜玄関横に、黒塗りの車がつけられた。アクロシティEポート6階に住んでいた国松孝次警察庁長官(当時)に対する迎えの車だった。
インターフォンで秘書官の連絡を受けた国松長官は、すぐに階下に降りた。エレベーターを降りると、ふと彼はその日に限って正面玄関からではなく、すぐその横にある通用口から表に出た。秘書官の差し出すカサに寄り添うようにして車に向かった国松長官が、6~7歩、歩みはじめたちょうどそのとき、突然、銃声がした。国松長官はこのとき、どうっ、と地面に向かって倒れながら、わずかに秘書官の方に顔を向けた、という。
ほんの少し間をおいて、2発目。3発目。さらに、一瞬の間をおいて4発目。
この日に限って国松長官が玄関を使用せず通用口を出たことは、雨のせいであったかも知れず、深い意味はなにもなかっただろうが、待ち受ける狙撃犯にとっては、ほんの数メートルとはいえ、ターゲットとの距離を縮めることに作用した。
狙撃者から国松長官までの距離は約21・5mだった。狙撃の狙いは正確で、1発目は上腹部に命中。2発目、3発目も下腹部、腎部に命中した。アクロシティEポート側玄関付近は流れ出した血で染まり、おりからの雨に滲んだ。国松孝次警察庁長官狙撃事件である。
訓練された特殊技術の持ち主
早朝に不審な男を至近距離で目撃していた会社員は、職場に到着後、はじめて事件を知った。彼は、あわてて、自宅に「不審な男を見た」と、電話を入れている。さらに、この会社員だけでなく、事件前に目撃された不審な男についての情報は、アクロシティの住民から事件後にいくつか寄せられている。先に紹介し次数例の目撃情報も、それらのうちに含まれるものである。
事件直後の、逃走する「犯人とおぼしき一男の目撃情報は、かなりの数にのぼる。
Fポートのある住人は、
「銃声で目を覚ました。窓から外を見ると、エントランス付近で男性があおむけになって倒れているのが見えた。腹部から血が流れていた。付近には二人の人間がいて、ひとりは倒れている男を支えていて、もうひとりの男が『そっちだぞ』と大声で叫んでいた」
当時の管理人のひとりは、
「パン、パン、パン、と3回くらい銃声を聞いた。同僚のひとりが『あれは銃声だ』と叫んだので、管理人棟から飛び出した。銃撃現場のEポートの方から猛スピードで走ってくる自転車の男を見た。男は黒っぽいレインコートに、同じような色の帽子をかぶり、口元には白い大きなマスクをしていた。両手でしっかりとハンドルを握り、何度もあたりを見回しながら、管理人棟の前を走り去った。管理人のひとりがマンション西側のスロープまで追いかけたが、見失った」と誕言している。
またBポートに住む主婦は、「銃声が聞こえてからベランダに出た。4回目の銃声が聞こえてから約5秒後くらいにFポートの入口付近から、黒っぽいレインコートを着込んだ男が、すごい勢いで表に飛び出してきたかと思うと、自転車で南側に走り去った」
この自転車の男が、早朝に目撃されていた黒いレインコートの男と同一人物であることは、もはや間違いがないだろう。
この事件は、オウム真理教のテロ事件に対して、ようやく強制捜査にふみ切った警察当局に深刻な衝撃をもたらした。捜査を指揮すべき重要な立場にあった警察庁長官が、銃撃されたのである。事件は、ここでオウム真理教の事件と直接に結びつけられ、オウム実行犯説が取り沙汰された。
捜査当局は、狙撃に用いられた銃器をコルト社製38口径リボルバー(回転式短銃)、弾丸は弾の先頭部分が平たく切られたダムダム弾で、国内では入手が非常に困難な種類のものであることを発表した。ここから、この銃撃犯人は、海外で特殊な訓練を受けたプロのスナイパーの可能性が高いと見られた。
また、射撃の技量、事件後に判明した、逃走経路の計算や自転車を利用するという意表を突いた逃走方法などからも、訓練された特殊な技術を持った人間であることが想定された。現場には、捜査を混乱させるかのように、北朝鮮のものと思われるバッジと韓国のコインが落ちていた。
事件から4年、この犯人は現在も特定されていないばかりか、事件は迷宮入りに近い。一連のオウム関連事件のなかでも、もっとも謎の多い事件とされている。
捜査当局が、どうやら現在、容疑者と目しているらしいオウム真理教信者の平田信容疑者についても、平田容疑者がかつてエア・ライフルでインターハイに出場した経験があるからというだけでは、この警察庁長官狙撃事件の「狙撃犯」の謎は解けない。同様の意見は、射撃や銃火器に詳しい各方面の専門家たちからも出されている。ライフルと、狙撃に使用された短銃では、その狙撃方法、扱い方がまったく異なるからである。
では、この事件の数多い謎を解く鍵は、どこにあるのだろうか?
射撃の腕は仲間うちでも一番
事件の起こった1995年の春、私はこの連載の以前の回でも書いたように、たびたび北朝鮮を訪れていた。「よど号」ハィジャック・グループのリーダー・田宮高麿と、いくつか打ち合わせをする必要やインタビューの仕事があったからである。田宮をはじめとする「よど号」グループと、取りとめのない話も含めて、さまざまなことを話し合っていた。
その後、私は彼ら「よど号」グループのあまりにも多い「嘘」と、不誠実にほとんど嫌気がさしたこともあって、訣別を余儀なくされるが、折からのオウム真理教の事件や、この国松警察庁長官狙撃事件についても、何度か話をする機会があった。
田宮と「よど号」グループは、ちょうどそのころ、「愛族同盟」という民族派組織を日本国内でつくることを計画していた。もちろん、この発想は彼ら「よど号」グループの発想にもとづくものではなく、朝鮮労働党の指導によるものであったろう。「愛族」という言葉そのものが、金正日が北朝鮮国内に向けてスローガンとしていた言葉であったからである。ただ、私には、それらのスローガンと語られる内容がひどく時代錯誤で、ナチスにも近いファシズムとしかみえなかった。
「やめろよ……」と、私は一度だけ彼に言った。
田宮は、そのとき、「もう、遅い!」と、叫ぶように言った。
私たちの間に、気まずい沈黙が落ちた。
そのあとに、田宮はこう言ったのである。
「貴賓室に呼ばれてな、そうやれと言われたら、それには従わざるをえないやろ……」
私は黙っていたが、それがあの国の最高権力者を意味していることは明らかだった。田宮高麿が、少なくとも当時、そうした立場にいたことは確かである。彼が語らないまま胸の奥にしまいこんで、あの世に持っていってしまったことは数多いと思われるが、国松警察庁長官狙撃事件にかかわることについても、彼は口に出して言うことのできない何かを知っていたのだと思えるのである。
もっとも私にしてみれば、当時、オウム真理教の事件についての関心は、ごく普通の一般的な興味を越えるものではなかった。
しかし、警察庁長官の狙撃事件は、事件の性格や、その意外性からしても大事件だったから話題にのぼらないわけはなかった。その話の途中で彼は意外なことを言ったのである。
「似てるんだよな。あの身のこなしといい、身軽さといい……射撃の腕といい……」
彼が、心配していたのは、同じ「よど号」の仲間である田中義三についてだった。
「射撃の腕は、仲間うちでは田中が一番やった。たしか、あの犯人は自転車で逃げるんだろ。あれは、よっぽど身のこなしが軽くないと思いつかんだろ。そういう意味ではプロだと思うよ。意表を突くことが、一番、大事なことだしな」
田宮はそのとき、狙撃事件の犯人像について詳しく聞きたがった。私にしても、すでに報道されている以上の犯人像や手がかりを知っているわけではなかったが、知っているかぎりの情報は彼に話した。ときどき、なにかを必死に考えるようにしながら、田宮は、結論めいた口調で、こう言ったのである。
「……似てる」と。
正直にいうと、私は田宮の心配しているところがどこにあるのか、そのときはわからなかった。なるほど、そうか。あの犯人と田中はそんなに似ているのか、漠然とそんなことを考えていただけである。国松長官狙撃事件と「よど号」グループのことが、私のなかでは、しっくりとまだ結びつかなかったのである。
別の指揮系統で活動していた
ここにきて、あらためてオウム真理教の一連のテロ事件と、その背景の闇に溶けこんでいる北朝鮮工作組織のつながりに光をあてようとして、私は、そのときの田宮の言葉について、はじめて考えをめぐらせるようになった。
「よど号」をハイジャックした赤軍派が、北朝鮮に渡ってから、あの国でどのように扱われ、どのような訓練を受けてきたかについて、私は『宿命-「よど号」亡命者たちの秘密工作』(新潮社)という本のなかで、詳細に辿った。
だから、ここであらためて詳しく辿りなおすことはしないが、彼らが北朝鮮に渡ってから数年後に、金日成主義とチュチェ思想に完全に転向し、隔離された日本人だけの「村」で、軍事訓練をはじめとするあらゆる工作技術を学び、朝鮮労働党の傭兵と化していた事実だけは、ここにもくり返して述べておかなければならないだろう。
彼らの軍事訓練は、日本人革命村と呼ばれる彼らの居住施設内で、数年にもわたり、朝鮮人民軍の指導教官から直直に行われていた。銃火器の扱い、短銃、自動小銃(カラシニコフAK47だったが)の分解と組み立て、狙撃訓練(これは彼らの「村」のなかに射撃訓練場が建設されていた)、火薬の扱い方、ほかにもありとあらゆる破壌工作の技術と諜報技術が教えこまれた。
もちろん、それぞれの人間に特性というものはあり、すべてのメンバーがそうした軍事的な技術や工作技術に熟練したかどうかは疑問だが、そのなかでずば抜けて優秀な成績を示したのは、他ならぬ田中義三だったとされている。
田宮高麿の心配も、根拠のないことではなかったのである。田宮の証言には、もうひとつの重要な意味が隠されている。それは、実際上「よど号」グループのリーダーであった田宮が、「もしかして、あれは田中ではないのか」という心配を一時でもしたということは、彼にとって、田中の行動は自分の指揮系統以外のものであることを、暗に語っていたことになるからである。
田中義三は、「よど号」ハイジャッカーの一員であり、たしかにグループのメンバーでもあったが、彼の行動は謎に包まれていた。多くの場合、彼はピョンヤンで仲間とともに行動することはなく、「よど号」グループがヨーロッパでの工作活動の第一線から身を引いた後も、彼だけは海外での活動にとどまっている。ひところは、そのことでもってグループ内で対立があったのではないか、彼だけは別の工作活動に従事しているのではないか、という噂も根強くあった。
別の工作活動を裏付けるかのように、田中は1996年3月、偽ドル紙幣を使用した容疑で、カンボジア当局に逮捕されている。
田宮の発言は、そのことをはっきりと裏付けていた。田中の活動内容について、組織のリーダー田宮は、まったく把握していなかったのである。すでに連載の中で何度か指摘したとおり、田宮は、オウム真理教の一連のテロ事件が話題になったときに、
「筋がちがう……」と、言った。
田中義三の活動も田宮にとってみれば、「よど号」グループとは「筋がちがう」という性質のものだったのだろう。出自そのものは「よど号」グループという同じ仲間であっても、活動内容はまったく別の指揮系統の中に位置づけられていたというのが、真相だった。
わかりやすい例えをすると、彼、田中は「よど号」グループという労働党の“子会社”から、“親会社”に出向した出向社員のようなものであったのだろう。その出向社員は、職場の任務や仕事の内容について、当然のように親会社の指示に従わざるをえず、子会社の指示で動くわけではない。あくまで労働党という親会社の指示で動かざるをえない。
リーダー田宮が、田中のことを案じたのも、そういう事情があったのだろう。田宮は、出向した社員、田中義三がどこで、どのような活動をしているかについて、詳しい報告を聞いてはいなかった。
その田宮のまえに、突然、オウムのサリン事件に引き続いて、国松長官狙撃事件が伝えられた。報道される犯人像は、その田中義三に酷似していた。彼には、私のうかがい知れない、なにか思い当たるふしがあったのだと、思わずにはいられないのである。
帰国する田中に当局も重大関心
そして、この田宮の反応のもっとも重要な意昧は、これら一連の事件のなかに、それこそわれわれのうかがい知ることのできない北朝鮮工作組織の影を、田宮自身が色濃く感じ取っていたということの何よりの証明だった、と考えられることである。「よど号」グループー=北朝鮮は、本誌の連載に対して、すでに何度か声明を出し、抗議をしてきている。連載冒頭に記した、「筋がちがう」という田宮発言についても、
「北朝鮮では指揮系統が違うというときは、線が違うという言い方をする。筋が違う、と一言ったのだとすれば、それは、そんなことを俺に聞くのは筋が違う、という意味で言ったのだ」と言っている。
さらに、「オウムのテロ事件を田宮同志が、外勢(外国勢力)だと言ったのは、アメリカの謀略だ、という意味で言ったのだ」とも、言っている。
しかし、こうした文脈で考えて、どこにオウム真理致事件はアメリカの謀略だ、と解釈できる余地があるのか?
もちろん、田宮は、狙撃事件の犯人は田中だ、などとは言っていない。しかし、もしかして、あの日、雨に煙る朝のアクロシティにあらわれた、黒いレインコートに身を包み、黒い毛糸の帽子を目深にかぶった腕の立つスナイパーが、田中と酷似していると心配したのだとすれば、それは必然的に彼が北朝鮮工作組織の関与を、問わずがたりに語っていた、ということではないのだろうか。
金正日の「日本破壊工作」の親筆指令から始まった日本攪乱工作は、オウム真理教の一連のテロ事件と輻輳(*)して、日本の警察機構のトップを狙撃するというクライマックスを演出しようとした事件であったのではないだろうか。
(*ふくそう:物が一箇所に集中し混雑する様態)
北朝鮮工作組織が、あらゆる重要工作のプロセスに、常にダミーを用意していることは、これまでの工作例でも明らかになっている。この事件については、オウム真理教自体が、ダミーの役割をふられていたとしても何も矛盾しない。むしろ、それこそが攪乱工作のひとつの側面を構成している、とも言える。実際に日本の捜査当局は、これまでにも北朝鮮の工作活動について、このダミーにいく度も苦汁をなめさせられているはずである。
さて、ここにきて取材班は、さらに興味深い元オウム真理教幹部信者の証言を得ることができた。
オウム真理教の初期の活動と教団武装化計画のなかで、あるところから多額の資金提供を受けていた疑惑がでてきたのである。しかも、それはどうやら「偽ドル」だった疑惑が濃い。
偽ドルといえば田中義三がカンボジアとベトナムの国境で逮捕された時の容疑だった「スーパーK」がすぐに、思い出されてくる。偽ドル=スーパーKを接点として、北朝鮮とオウム真理教は、どのような深層でのつながりを見せてくるのだろうか。
田中義三は、その逮捕理由となった偽ドル事件の容疑について、この夏、証拠不充分による無罪判決が言い渡された。近く、日本に身柄の送還が予定されている。帰国後の田中の取り調べについては、捜査当局も、重大な関心を寄せている。
(文中敬称略、以下次号)
■取材協力 時任兼作、今若孝夫、加藤康夫(ジャーナリスト)
(以上引用終わり)