ジャーナリスト高沢皓司氏の「『オウムと北朝鮮』の闇を解いた」第10弾です。
第一、これは大事な情報なので、もっと世間に広まるべき。
第二、様々なサイトに転載されてから、すでに15年以上も放置されている。
以上のことから、その公益性を鑑み、「著作権者の高沢氏からの抗議が来たらすぐにやめる」ことを条件にして、勝手ながら当サイトでも転載させてもらうことにしました。
(以下引用 *赤字強調は筆者)
「週刊現代 1999年10月30日号」高沢皓司(ノンフィクション作家)
村井秀夫が極秘指令「原発の機密をスパイせよ!」
村井刺殺犯の徐裕行が、高度に訓練されたテロリストであることは、先週号で指摘した。では、村井はなぜ口封じをされなければならなかったのか。その謎を解くカギとなる驚くべき事実があった。村井は信者たちに、日本各地の原発に労働者として潜り込み、スパイ活動を行うように指示していたのである。
村井が口をすべらせかけた秘密
あまりにも多くの謎に満ちた、オウム真理教「科学技術省」のトップ・村井秀夫刺殺事件。
実行犯・徐裕行は逮捕後の取り調べで、上祐(史浩)でも、青山(吉伸)でも誰でもよかった」と供述している。しかし、当日の徐の行動を詳細にたどってみると、この供述には多くの矛盾点が浮かび上がる。やはりこの暗殺者は、ターゲットを明確に村井秀夫「科学技術省」長官に置いていた。
では、なぜ村井秀夫だったのか。村井でなければならなかったのか?
つまり1000億円という途方もない資金の所在についてと、地下鉄サリン事件で用いられた毒ガスは、じつはサリンではなかった、という驚くべき証言である。
教団武装化を推進しはじめたオウム真理教の資金源に、北朝鮮のからむ偽ドル疑惑があることはこれまでにも指摘してきたが、第二の「サリンか、ほかの毒ガスか」という疑問については、もう少しだけ言葉を足しておかねばならないだろう。
村井は、地下鉄の毒ガス事件で使われたガスの種類について、「サリンではなく別のガスだ。アメリカの研究所でもそのことを証明してくれるはずだ」と、確信をもって話している。この言葉が本当に意味していたのは、どのような内容だったのだろうか。
1994年6月27日、長野県松本市、午後10時45分、突然散布された毒ガスで住民はパニックに陥った。
蒸し暑い夜で、窓を開けたまま眠りに入ろうとしていた人も多い。この事件では窓が開けられていたかどうかが、生死の分岐点になっている。マンションの窓を開けたまま眠りに入ろうとしていた住民は、そのために命を落としたのである。この毒ガスは、空中を漂い、広がり、薄められてなお人の生命を奪った。その毒性が、きわめて強力だったことを、この「松本サリン事件」は教えている。
別の「製造元」のサリンか?
その事件発生の1時間半くらい前、事件の現場から250mくらい南西に位置する開智2丁目付近で、帰宅途中の会杜員は奇妙な光景を目撃した。「銀色の宇宙服のようなものを着ていました。夢を見ているようで、不思議な光景でした」
この銀色をした宇宙服のようなものが、毒ガスに対する防護服であったことは明らかだが、このことは毒ガス(サリン)散布の実行犯たちが、あらかじめ毒ガスの強力な毒性について、正確に認識していたことを示している。
純粋なサリンは常温では液体状だがきわめて揮発性が高く、ほぼ瞬時に拡散してしまう。その霧粒が呼吸器に入るとほぼ即死状態に近く、一粒の霧粒が肌に付着しただけでも、毛穴から体内に浸透し数十分以内に死亡する、とされている。
ところが、翌年3月20日に引き起こされた東京での「地下鉄サリン事件」では、複数の実行犯の誰もがこのような防護策を講じていない。さらに、散布方法についても傘の先で「サリン」を入れた袋を突き破るという杜撰な方法がとられている。また地下鉄車内の床に濡れたような痕跡すら残している。地下鉄の車内およびプラットホームという閉鎖空間では、松本サリン事件の例からすると、さらに被害の規模は大きくなるはずだった。
ところが、数千人にのぼる被害者を出したとはいえ、地下鉄の事件では、その規模と程度には大きな隔たりがある。このことから分かることは、地下鉄事件で使用された毒ガスが、世間一般に伝えられているように「サリン」ではなく、まったく別種の毒ガスであった可能性が濃厚なのである。それがVXガスあるいはタブンなどの別種の毒ガスであったのかは、村井の口が封じられてしまった以上、オウム真理教側から証言をするものは誰もいない。
しかし、少なくとも事件の状況から見ただけでも、松本市で散布された「サリン」と、地下鉄事件で使用された「サリン」は、まったく別の製造元でつくられた、あるいは純度に大きな隔たりがあった、と考えられるのである。
刺殺される直前に、村井が語りはじめた、
「まったく別のガスだ」という言葉は、そのことを指し示していた。
しかし、村井はそのことの詳細を語ることなく、一命を落とした。なぜなら、オウム真理教内で「サリン」製造責任者だった村井のその発言は、さまざまな不都合を関係各方面に呼び起こすことになるからだ。
製造元が違うということが明らかにされれば、その製造元がどこか、どこの国かが問題にされるだろう。これは、当の製造国だけにとどまらず、日本政府にとっても利害関係は奇妙に一致していた、と考えざるを得ないのである。
それが国内で製造されたものではない、とされれば、製造国、搬入ルート、入手ルート、さまざまな部分が一挙に複雑になり、国際謀略の壁にぶつかってしまうことは必至である。オウム真理教第7サティアンのサリンプラント設備では、高純度のサリン製造が不可能とされつつも、この問題が曖昧な形で封印されているのは、どうやらそのあたりに原因がありそうである。村井の発言は、その封印されるべきストーリーを一挙に解きかねない危険性を持っていた。
専門家も「すごい資料だ」
しかし、村井が知っていた事実、語りすぎてしまうかもしれなかった事実はオウム真理教「科学技術省」トップという彼の立場を考えたときに、偽ドル、サリンだけにはとどまらず、さらに深い第三の秘密まで白日のもとにさらけ出す危険性を、じつははらんでいたのである。
ここに取材班が入手した、膨大な機密書類の束がある。一枚一枚をめくっていくと、さまざまな図面、設計図、人員配置表、各種のメンテナンスのマニュアル、作業工程表などが混在しているのがわかる。表題の打たれていないものも多いが、いくつかの文書には次のような文字が見える。
「原子カプラント定検および増設・改良工事」
「原子カプラント主要工程表(社外秘)」
「5号機R/B地階サーベイ記録」
「原子炉PCV全体図」
「原子炉班体制業務分担表2号機」
「標準部品表示基準」
実はこの書類は、現在稼働中の日本の原発についての、膨大な機密書類の束なのである。われわれが入手したのは、東京電力福島第一原発、同第二原発と、中部電力浜岡原発(静岡県)、さらには、石川島播磨重工業原子力事業部などの研究施設のものだ。いずれも公開されているものではない。書類は、原子炉のボルトの位置、管の口径、内寸、メ一ターの位置、全体図におよぶ。
民間の原発監視機関でもある原子力資料情報室(東京)の上澤千尋氏に、いくつかの資料を見てもらい、コメントを寄せてもらった。
「これはすごいですね。一般公開されているものでは、ここまで詳しく書かれているものはありません。しかし、これには部品の材料配分、どういうステンレスを使っているかが明記されています。私もはじめて見ました。
また、ここに含まれている詳細な検査記録のようなものは、情報公開の対象にもなりません。なぜなら、検査をして問題がなければ、問題がなかったという事実だけが重要であって、作業工程や数字を公開するのは意味がないという孝え方からです。もちろん、それは原発側、企業側の言い分なんですがね」
一般の目にふれる原発関係の資料は、重要な部分はすべて真っ白なのだという。原子力資料情報室の所有する資料でも、枠取りだけが印刷されて、各原子力発電所の次のような文面の判が押されているものが多い。『この資料はメーカーの未出版特許情報、ノウハウ等の機密情報を含んでおりますので、該当部分については非公開とさせて頂きます』と。
「要は、企業秘密なんですよ。寸法、計算プログラム、設計図面、材料の分量などは、すべて“白ヌキ”の対象になるんです」
さらに目を通してもらう。
「これはBWR型。(東芝・日立・石川島播磨の3社産業グループのつくる沸騰水型原発)のものですね。作業過程のチェック・シートとか運転記録などは、運転技術レベルの低い国にとっては非常に参考になるでしょう。
この資料を見ただけで、いつ、どこで、どの原発がどのような処理を施されたかがわかります。その上、配管とバルブの位置もわかります。どのバルブがどれだけ腐食していたのかが、記録に残っています」
どうやら、かなりの機密資料であることだけは間違いがなさそうである。出所を明らかにしてしまえば、これらの機密書類は、オウム真理教の中から出てきたのである。
オウム真理教「科学技術省」では、組織的に原発の機密資料を入手しようとしていた。’90年代のはじめ頃から、常時、各地の原発に下請け要員などの資格で作業員を潜入させていた。オウムの信者たちは、下請け作業員として各地の原発をまわり、あるいは研究員を教団に勧誘することを行っていた。そして、これらの原発、原子炉についての機密データの収集を命じたのは、他ならぬ「科学技術省」長官の立場にいる村井秀夫だった。
「カルマが落ちる」と言われ
当時、その村井の指示のもとに、原発作業員として各地の原発に潜入していた元オウム信者の、次のような証言がある。
「ある時、村井さんとの雑談のなかで原発の話が出ました。私が原発で仕事をしたことがあると言うと、
『今度、行くときにはどんな資料でもいいから持ってこい写真もとってこい、これはいいデータとして使える。持ってくれば、カルマが落ちるぞ。救済につながるから、頑張れ。行くときが決まったら直接、私に連絡しろ。具体的な原発の名前と仕事の内容も知りたい』
と言われました。
原発は意外と管理が甘くて、資料などを外部に持ち出すことや出入りも簡単でした。
私は結局、次に行く機会がなくて駄目でしたけど、村井さんはほかの信者にも、『原発に働きに行く人間はいないか』と聞いたりしていました。
原発で働くと給料がいいものですから、それだけ教団に多くのお布施もできるのです。
私には原発のなにが役に立つのか、参考になるのか、まったくわかりませんでしたが、村井さんは、『オレは専門だから、たいていのことは見ればわかる』と話していました。
これは、別の信者の話ですが、ある信者が。『科学技術省』のスタッフに原発から持ってきた数枚の資料を渡したときに、『よくやったぞ。功績があれば、ステージもあがるぞ』と村井さんに言われたそうです。 村井さんは亡くなる3~4ヵ月前にも、『原発にはもっと人を送ってもいいな』と言っていました」
原発で働いていたもうひとりのオウム信者の証言は、さらに衝撃的である。
「オウムから原発に働きに行っていたのは、200人はくだらないですね。きっかけは山口県の信者でUさんという人が、人材派遣業をやっており、その会社が原発からの仕事を受けていたからです。当時、信者の間では、お布施がたっぷりできる仕事がある、と噂になっていました。それが原発でした。
近所の安いアパートとか下宿に泊まり込みで、仕事をします。一度行くと、3~4ヵ月働きました。給料は月に40万~50万円くらいになりましたね。
Uさんは全国各地の原発に多くの人間を送り込んでいました。原発は、意外なことに管理がいい加減で、資料のコピーもとり放題でしたし、施設内の出入りも自由。原発の中心部のプールも、写真撮影できると思ったほどでした。
また、その気になれば爆弾を仕掛けるくらいのことはいくらでもできました。金属探知機はあるにはあるのですが、プラスチック爆弾なら問題はないですし、そんなことをしなくても、金属探知機を通るときには、荷物は探知機の横からいくらでも手渡しできましたから。
私はよく配管検査をやらされましたが、最初に赤い液体を塗ってから、次に白い液体を塗って配管の不備を調べます。ほんとうは資材とかが必要な部分もあるのでしょうが、まったく要求されたことはありません。もし、麻原がそのことを知り、目をつけていれば、大変なことになったのではないでしょうか」
資料が北朝鮮に流れた可能性
取材班は、この証言のなかにでてきたUという人材派遣会社および科学機器検査会社の社長であり、もとオウム信者とされている人物に何度か連絡をとろうとしたが、現在までのところ行方が不明である。しかし、ここに紹介した元オウム信者の証言と手もとの機密書類の束だけでも、オウム真理教が各地の原発の機密資料収集に手を染めていた事実は疑いえないだろう。
9月末に茨城県東海村で起こった核燃料の臨界事故、その数日後にとなりの韓国・慶尚北道で起こった月城原子力発電所3号機の事故と同じような事件が、オウムの言う「ハルマゲドン」として実際に引き起こされたとしても不思議ではなかったことを、この事実は教えている。
しかし、オウムはそのことを実行に移さなかった。このことはすべての資料と情報が村井「科学技術省」長官のもとに、留め置かれたことを示している。
なぜか? 村井は、これらの資料を大量に収集し、どのように使おうとしていたのだろうか。ここで、思い出さねばならないのは、村井が早川紀代秀「建設省」長官とともに、たびたびロシアに出国していたという事実である。
さらに早川はロシアを経由して、たびたび北朝鮮に渡り、その北朝鮮側の窓口が朝鮮労働党の「第二経済委員会」であったであろうことも指摘した。
オウム真理教の総勢200人にのぼる信者によって収集された日本の原発の機密資料が、じつは、この早川ルートによって北朝鮮に流出していた可能性が、ここに浮かび上がってきたのである。
さらに、このルートを通じて流出した機密資料は、じつは原発の資料だけにとどまらず、さまざまなハイテク技術、最先端科学技術の膨大なデータであった可能性が、闇のなかから浮かび上がってきたのである。
オウム真理教「科学技術省」長官・村井秀夫刺殺事件の背景には巨大な国際謀略が渦を巻いていた。
(文中敬称略、以下次号)
■取材協力 時任兼作、今若孝夫、加藤康夫(ジャーナリスト)
(以上引用終わり)