「金正日の料理人」藤本健二氏シリーズのラストです。
改めて確認しておきますが、「兄王子」が長男の金正哲(ジョンチョル)で、「弟王子」のほうが金正恩です。そして、後継者に選ばれたのはジョンウン王子のほうです。
金正恩は全米プロバスケチームNBAの元スター選手であるデニス・ロッドマンと友人としても知られている。ロッドマン自身も金正恩氏の友人だと公言している。
だから、彼はトランプの意を受けて米朝首脳会談にも登場した。
背景には金正恩の「バスケ好き」があることは知られている。
ところが、北朝鮮におけるバスケットボール普及のスタート時点で関わっていたのが藤本健二氏であることはあまり世間に知られていない。
粗末なコートで遊ぶ二人の王子、審判が藤本氏、そして観客は金正日・・実はこれが北朝鮮におけるバスケットボールの始まりだったという。
藤本氏のエピソードから垣間見えてくるのは“普通の” 金正日ファミリーの姿です。
金正日の私生活―知られざる招待所の全貌
(以下、同書P164~176から引用 赤字は筆者)
バスケットボールブームの仕掛け人
金正日の二人の王子、正哲(ジョンチョル)兄王子とジョンウン弟王子は大のバスケット好きである。本格的にやり出したのはたしか一九九六年頃だったように思う。
最初は、昌城招待所に中国製のバスケット器具を購入して始めた。
バスケットゴールはバランスが悪く、土台にしっかり砂の重しを置かないと倒れてしまうような貧しい代物だった。
そこでは私がいつも審判を頼まれていた。選手も審判もズブの素人だったけれど、金正日はいつも観戦していた。
今にして思えば、これが現在の北朝鮮のバスケットブームのルーツとなっている。
王子たちは、兄王子と運転手の息子とウエイターのチーム、対する弟王子と高英姫夫人の妹の息子とウエイターのチームで、いつも試合をしていた。(略)
同点だったが、このフリースロー二本が決まり、王子チームは敗北した。ゲーム終了の笛を吹き全員整列して、金正日に挨拶をした。優勝チームへ賞品授与が行われ、準優勝の王子チームへ賞品が授与されると、金正日は会場を後にした。
そのとたん、兄王子が大声で叫んだ。
「藤本があんなところで、笛を吹くから負けたのだ! なんであれがファールなのか!」
と本気で怒っていた。私は兄王子がこんな感情的になる姿を初めて見た気がした。負けたことが心底口惜しかったのだろう。だが、私は金正日に、「エコひいきはするな」と釘を刺されていたので、それを厳守したのだと己に言い聞かせるしかなかった。
日本に出かける直前、金正日に挨拶をした際、私が、
「今回は日本でバスケットのルールブックを買って参ります」 と言うと、金正日は、
「それはよいことだ」と領いていた。(略)一九九六年九月のことだった。
ルールブックを買いに行った日本で逮捕される
翌日、私は通訳の金ヨンナムと一緒に香港を経由して、大阪伊丹空港にやってきた。
北朝鮮とドミニカ共和国の二つのパスポートを所持していた金ヨンナムを、私は空港の入国手続後のバゲッジクレームでずっと待ち続けていたが、出てくることはなかった。
金ヨンナムは空港で逮捕されていたのだった
その二日後、密かに東京に移動し、成田から出国しようとした私も警視庁に捕まった。嫌疑は出入国管理および難民認定法違反扶助であった。
その後、私は沖縄で警視庁の保護のもとでの生活を続けていた。だが、私の北朝鮮への思慕はあまりにも強く、抑えることができなくなった。結果的に警視庁の刑事を裏切ることになったが、保護取り下げのサインをした私は、一九九八年六月九日、再び北朝鮮平壌順安空港に降り立っていた。一年九ヶ月ぶりのことだった。
とにかく妻の厳正女(オムジョンニョ)に会いたかった。
愛する人のために、命を賭けて、北朝鮮に戻ってきた。VIP入国口に連れていかれると、妻が大きな花束を抱えて待っていた。私は、
「ミアネ(ごめんね)! チャルモテッソ(悪かった)!」
何度も何度も彼女に謝った。
北朝鮮に戻って二週間後、秘書室の金昌成(キムチャンソン)から指示があり、仕度をして懐かしの八番宴会場の鉄板焼コーナーに行くと金正日、高英姫、二人の王子が私を立って出迎えてくれた。金正日は滅多なことでは立って人を迎えることはない。
実に感概深い光景であった。
私は金正日のもとに駆け寄ると、
「将軍様、帰りが遅くなり申しわけありません」
と陳謝すると、金正日は、
「よく帰ってきた。座って一緒に食事をしよう」
と機嫌よく握手してきた。(略)
目の前にあらわれたNBA仕様のバスケットコート
翌日、二年ぶりに事務所に出てみると、自分の席は一九九六年当時とまったく変わらずにおいてあった。いったんは調査したのだろうが、特になくなったものもなく、すべてが変わりなく、所定の場所に置かれてあった。
十二時になったので食事に帰りますと一階の事務所に挨拶をしにいくと、金昌成は私を車に乗せて、平壌近郊の二二号招待所に連れていった。
そこの第三宴会場にいた金正日に、私は約束の土産を手渡した。
「将軍様。バスケットのルールブックを買って参りました」
と私が言うと、みんなにやにや笑っていた。
金正日に「藤本はまだ知らないのか?」と問われた金昌成は、
「はい、まだ言っておりません」と答えた。
金正日は、「それなら、食事の後で見せてやろう」と言った。
私は何を見せてもらえるのか楽しみにしていたが、まさか、本格的なバスケット専用体育館をつくったとは想像していなかった。第三宴会場に隣接しているその施設は素晴らしいのひとことだった。たった二年でこうも変わるものなのかと思った。
金正日は、
「ゴールから何からNBAが使用しているものとすべて同じだぞ」
と胸を張っていた。しかし、器具に貼ってあるラベルには日本語で説明が書いてあった。これは、まぎれもなく万景峰号で運んだにちがいない。
王子たちがバスケットウェアに着替えてコートに出てきたときの姿は、もうバスケット選手そのものだった。この二年間で王子たちは背も高くなり、体にも筋肉がつき、以前とは比べものにならない。(略)
先刻、自分が金正日に、「ルールブックを買ってきました」と語ったことが、とても恥ずかしく思えてならなかった。
ただし、私にもアドバンテージはあった。当時、世界中で羨望の的だったナイキのエアマックスを履いていたのを王子たちが見つけたのだ。
「それ、本物?」
「私はコピーなんか履きませんよ」と答えると、
王子たちだけでなく、ほかのバスケット選手が本気で羨ましがっていた。(略)
(以下、同書P208から引用 赤字は筆者)
金正日事実上の正妻――在日朝鮮人出身の高英姫夫人
高英姫夫人は金正日の事実上の正妻である。高英姫夫人は在日朝鮮人の帰国者で、万寿台芸術団の元踊り子だった。部下たちは皆、「オモニ(お母さん)」と慕っていた。
ひょっとしたら高英姫夫人は日本語を喋るかもしれないが、私との会話はすべて朝鮮語であった。
私は、買い付けのため帰国した成田空港で、出入国管理法違反扶助の疑いで警視庁に勾留されて係官から話を聞くまで、金正日に複数の妻がいるなどとは夢にも思わなかった。それほど金正日は高英姫夫人を大切にしていたし、信頼していたし、二人はいつも仲睦まじかった。
高英姫夫人はごくプライベートな場面では金正日を「パパ」と呼んでいたし、金正日は高英姫夫人のことを、稀にだが日本名で、「アユミ」と呼んでいた。
たしかに、金正日はブッシュ大統領から「悪の枢軸」と糾弾される北朝鮮の最高権力者ではある。しかし、十三年間にわたって金正日の日常に間近に接していた私は、金正日が非道の独裁者とはとても思えない。私は金正日将軍のすべてを知っているとは言えないが繰り返しになるが、少なくとも、核のボタンを押せるような人ではない。
(以下、同書P212~214から引用 赤字は筆者)
北朝鮮を代表する名峰を望む白頭山招待所
ここには忘れることができないエピソードがいくつかある。
一つ日は、二○○○年の七月十六日、金正日ファミリーと北の中国国境付近にそびえる白頭山に登ったときのことである。
十数台の車を連ねて山頂まできたものの、霧が濃く、気温がかなり下がってきた。
弟王子のジョンウンが私のそばに寄ってきて、「藤本、向こうへ行こう」と誘い、霧の中を歩いていった。
すると、ジョンウン王子が立ち止まって、「このあたりでよいか。一緒にオシッコをしよう」と言った。ファスナーを下ろし、二人並んで用を足した。王子に、「私は見えませんか?」と聞くと、王子は、「大丈夫。見えはしないよ」と返してくれた。
ジョンウン王子との初めての「連れション」だった。
「今日は私の記念日にします」と私が言って、二人で笑ったことが忘れられない。
金正日ファミリー用に特別簡易トイレ車も車列に加わっていたが、王子にはそこが離れていたので、私を連れションに誘ったのだろう。
その日はかなり寒さが厳しく、一、二時間ほどで下山となり、白頭山招待所のセンターへ戻った。夜の食事中、金正日は、明朝は全員で「御来光」を見にいこうとみなに話しかけていた。そのとき金正日は私にも、
「おい、藤本。お前も行くか?」と声をかけてきた。
「もちろん、お供させていただきます」
と答えると、金正日はこう言ってきた。
「だが、朝が早いぞ。寝ていてもいいのだぞ」
「行きます。行かせてください」
「オーケー、明日は三時半に出発するぞ」(略)
明くる朝三時半に出発して、四時半頃に山頂に着いた。全員が車を東向きにして、車中で待機していた。十分、二十分と過ぎていくと、だんだん東の空にかかる雲が赤く染まってきた。胸が高鳴ってきて、もう車の中にはいられず、外に飛び出た。
寒かったが、ほかの人たちも次から次へと車から出てきた。前日に今朝の日の出の時刻をチェックしている金正日だけが、なかなか車から出ようとしなかった。
午前五時七分。真っ赤な太陽が顔を出し始めた。
そのときだった。金正日将軍が車から出て、拍手をしたのは。
次の瞬間、全員が拍手で続いて、それは延々七分間に及んだ。
私には感動的な、忘れられない七分間となった。
記録課長のパクキョンスが、「金正日之記念号」の撮影の打診をしていたが、金正日に、「寒いから」と言われ叶わなかった。
金正日ファミリーと共に見ることができた、私にとって初めての御来光。最高に満足だったし、生涯の記念となったシーンであった。(略)
(以上、引用終わり)
三代目と並んで立ちション・・・。
こんな経験をしたのは世界広しといえども藤本健二氏くらいのものでしょう。
藤本氏は北朝鮮に家族もいるし、北朝鮮が好きで好きで仕方がない人です。
ただ、彼が体験してきたことを見ると、当然のことでしょう。
彼に関しては、やれスパイだ、工作員だ、という陰口を叩く人が絶えない。
たしかに、無意識的に北朝鮮をひいきにすることはありえるだろう。そういう意味で、彼の発言や著作は必ずしも中立でないかもしれない。
しかし、そもそも個人の体験は主観的なものだから仕方がない。彼が北朝鮮を愛することを誰も責めることはできない。受け手側が己のリテラシーで割り引くしかない。
それでもなお、彼のもたらした情報のレベルは冠絶したものがあると私は思う。
そして何よりも、藤本氏は金正恩と腹を割って話すことのできる唯一の日本人です。
その事実の意味は今でも、否、今だからこそ、大きいのではないでしょうか。
彼の残した著作は、今なお北朝鮮の真実を知る上で最高の情報源だと思います。
(以下は藤本健二氏の著作の中で、もっともきわどい内容です)
核と女を愛した将軍様―金正日の料理人「最後の極秘メモ」