ひとりで歩むべきか。
群れで歩むべきか。
それはその時に置かれた状況をみて判断しなければなりません。
林の中にいる象たれ
ブッダさんは次のように教えています。
もしもつねに正しくこの世を歩んで行くときに、明敏な同伴者を得ることができたならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念(おも)いをおちつけて、かれとともに歩め。
しかし、もしもつねに正しくこの世を歩んで行くときに、明敏な同伴者を得ることができなかったならば、(戦いに負けて)広大な国を捨てた国王のように、唯だひとりで歩め。悪いことをしてはならぬ。
旅に出て、もしも自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴れにしてはならぬ。
愚かな者を道伴れとすることなかれ。独りで行くほうがよい。孤独で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。――林の中にいる象のように。
中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』(14:13~16より)
まことに核心を突いた教えですね。
今日、良き友人ほど得がたい存在はありません。
ブッダさんは、あなたが「つねに正しくこの世を歩んで行くとき」という条件を付けていますが、そのような時に、周りを見回して、共にいることがふさわしい「明敏な同伴者」がいるか否かを、まず問うています。
悪が四分の三を覆っている今の「カリユガ」期においては、そのような同伴者を得ることができる人は、まことに幸運な人と言わざるをえません。
しかし、残念ながら、私たちが生きねばならない今の時代、今のこの世俗の世にあっては、むしろその正反対の、欲と執着にまみれた、利己的な人々が多数派なのが、偽ざる現実です。
もっとも、その中にあって、自分自身もそうでない、そうならない、と断言できる自信は、少なくとも今の私にはありませんが・・・。
カリユガの時代の世俗にありながら、悪しき風潮・周囲に流されず、染まらずに、正しく道を歩むことは、非常に困難です。
それに、今の時代「世俗にあって、心は世俗に属さず」となると、たいてい周囲からの孤立を招いてしまいます。
寂しいといえば、確かに寂しい。
とりわけ若い時にありがちなのが、そのような孤独を恐れて、良き友とは正反対の人たちと付き合うことです。
また、行動において悪人とまでいかなくても、想念や言葉において悪しき振る舞いを繰り返す人たちと、「仲間」として、ズルズルと付き合ってしまうことです。
いったんそういう人々の仲間になってしまうと、独特の同調圧力により、あなたも同じ振る舞いをすることを余儀なくされます。
それが政治的に極端な団体やカルト的な団体だったりすると、人生そのものを誤ってしまうことにもなりかねません。
実際、このパターンで人生を台無しにする人は、現代では本当に多いのです。
「尊敬できるかどうか」が本当の友人として付き合うか否かの基準
いつの時代にもそういう状況はあったのでしょう。
そのような時、私たちは、たとえば「”仲間”がいなくて寂しい」というふうに思えたとしても、きっぱりと、勇気をもって、決然とした態度をとらなければならない、と教えているのが仏教です。
ブッダさんは、
「愚かな者を道伴れにしてはならぬ。愚かな者を道伴れとすることなかれ。」
と二度繰り返して忠告しています。
低質な者と一緒にいるよりも「独りで行くほうがよい」と断言します。
だから、もし今、学校や職場の人間関係において、あなたが、内心では尊敬もしていない、もしくは軽蔑している人々と「仲間」となっており、ずるずると付き合っているとしたら、それは人生にとって何のプラスにもなりませんから、徐々に離脱しましょう。
ただし、そのような人々と仲間になってしまった事実に対して、他人に責任を帰すべきではありません。
相手の方は、本当にあなたと友達になりたいと思って近づいてきたかもしれないのです。
どんな人であっても、一人の人間として、それなりの敬意を払うべきです。
そもそも「自分が寂しいから」とか、「孤独になるのが嫌だから」といった理由で、誰でもいいから友達として付き合うというのは、実はあなたのエゴでしかありません。
あなたが内心でそう思っているとしたら、相手にとっても、あなたはその程度の存在でしかないということです。
尊敬できない人とは、あえて付き合う必要はありません。
良き師や良き仲間に巡り合うことができなければ、「林の中の象」のごとく、孤高の歩みを選ぶことも、また人生の選択なのです。