前半のつづき。
こうして、2002年9月17日、小泉総理の「電撃訪朝」により日朝首脳会談が実現した。金正日は日本人を拉致した事実を認め、「日朝平壌宣言」なるものが採択された。
今にして思えば、噴飯物の首脳宣言だった。明文化されているのは北朝鮮側ではなく日本側の非ばかりで、結局日本が謝罪して賠償するという、いつもの話の蒸し返しでしかなかった。ところが、当初は、北朝鮮が、自分たちが誘拐した日本人を数人ほど返したら、その“お礼”に日朝国交正常化するというシナリオになっていた。
しかも、会談後、さっそく日本側から「米支援」なるものが行われた。で、北朝鮮のほうは「日本から“謝罪の米”を受け取った」と表明した。そして当の誘拐犯と合同で拉致被害者を“調査”するという、異常としか評せない政治的欺瞞が実施された。
唯一、救いだったのは、当時、普通の日本人が猛烈に怒ったことだ。あまりに国民の反発が激しいので、政府も安易に日朝国交正常化できなくなった。
当たり前である。正常な神経をしているなら、日本人を誘拐して殺したような国家と、なんで国交を結んで金をくれてやらねばならんのかと思う。それが正常な思考であるから、逆にいかに小泉・田中・親北日本人がアブノーマルかということだ。
もっとも、この正常な反応を指して「ウケー化」などと呼ぶ倒錯者もいるが・・。
拉致問題は進展せず、北朝鮮の核開発だけが急ピッチで進展した
しかし、ここで問題にしたいのは「9・17」の是非ではない。それが成功か否かは、北朝鮮が当時必死だった時間稼ぎ工作には、それほど重要ではなかった。
さて、この「9・17」の次に小泉・田中コンビの「官邸主導外交」なるものが飛びついたのが、国際的な対話の枠組みで北朝鮮の核問題を解決する(という建前の)シナリオだった。当然、半島北部に米軍が進駐する事態を阻止したい中ロが積極的だったが、それに日本までが呼応したため、米国としても応じるほかなかった。
こうして始まったのが「六者協議」である。それは2003年8月からスタートし、以後、何の実りもない会合を何度か繰り返した。
そのだらだらとした協議最中の2005年2月、北朝鮮はとうとう核保有を宣言した。六者協議はその9月に、ようやく北朝鮮の核放棄を謳った共同声明を採択した。
しかし、時すでに遅し。北朝鮮はそれに応じるどころか、2006年7月に弾道ミサイル実験を、そして同10月にはついに初の核実験に成功した、と発表した。
このように六者協議は、同国の核問題の解決に何一つ寄与しなかった。むしろ、開発に猶予を与えただけだった。そして何の成果も出せないまま、のちに自然消滅した。
一方、この頃、小泉・田中コンビは奇妙な戦略を思いついた。それが拉致・核・ミサイルの「諸懸案」を包括的に解決するとかいう「三点セット一括解決方式」である。今日の私たちは、北朝鮮が絶対に核放棄に応じないことを熟知しているので、このセットに拉致問題を組み入れると一切解決不能になってしまう図式がよく分かる。
当時の小泉・田中コンビが心の底から北朝鮮が核放棄に応じる可能性があると信じていたかは分からないが、明らかなことは「ワンフレーズ」の小泉氏がパブロフの犬のようにこの「三点セット」を繰り返したことであり、またその後の政権までもがこの方式を踏襲し固執してきたために拉致問題が一切進展しなくなったという事実だ。
ある意味、「三点セット一括解決方式」は、どれも解決させないための方法としては最高のものであり、北朝鮮サイドの視点では田中均氏は最高の功労者に違いない。
そして米国は対北戦略を転換し、北朝鮮は完全なる核保有国と化した
2005年、二期目に入ったブッシュ政権は、イラクの占領統治の悪化などで国内から批判にさらされていた。そこでネオコンをいったんパージして、コンドリーザ・ライスの国務省主導の外交へと転換した。米国は対北戦略を大きく転換した。
もはや北朝鮮の体制転換には執着しなくなった。しかも、軍事的なサージカル・オプションを捨てるだけでなく、北の核保有に対して極めて妥協的な態度を取るようになった。
そして、北朝鮮の核保有から数ヶ月の2007年1月、米国と北朝鮮は再び対話のテーブルについた。六者協議は、北朝鮮の核保有という「既成事実」に対して、参加国の政治的な体面を繕う場と化した。当時、疑問を感じた私は次のような文章を書いた。
07年10月の6カ国協議では北朝鮮の非核化について合意をみたが、明らかに国際社会を欺ける余地を残している。すでに廃施設同然とも言われる寧辺の核3施設を無能力化し、第2段階措置として年内の“すべての核計画の完全かつ正確な申告”を北朝鮮に義務付けているが、ウラン濃縮施設と既存の核兵器の扱いについては曖昧なままだ。
要するに、北朝鮮が核開発を停止したというパフォーマンスさえすれば、それで認めて援助をしましょうという筋書きである。裏でいくらでも開発可能なので、事実上核開発を黙認したのと同じことだ。六者協議はこのような「形だけの非核化」をもって参加各国が一応の義務を果たしたと自己を慰撫する欺瞞の場と化した。
責任者や強硬論者不在の国際会議が、集団的な無責任に流される見本のようなものだが、今もって不可解なのは米国の姿勢である。実は、2017年の今の極東情勢を真に理解するためには、この十年前の謎を解くことが不可欠なのだが、国際問題の専門家たちは誰もその謎を解けないどころか、そもそも謎の存在にさえ気づいていない。
余談になるが、私自身は次のように推測している。
いずれにしても、2008年10月、日本の再三の抗議にも関わらず、ブッシュ政権はテロ支援国家のリストから北朝鮮を外してしまった。
そして、案の定、2009年2月、北朝鮮は二度目の核実験を強行した。
これによって、「三点セット一括解決方式」と「六者協議」なるものがまったくの無駄・無意味だったことが証明された。
その後、金正日が死去し、金正恩が指導者になるが、以後の経緯は説明不要だろう。
(ラストの後半へつづく)