オウムは開教の早い段階で、急激に信者を増やし、短期間のうちに教団運営を軌道に乗せることに成功している。なぜこんなことが可能だったのか。
いったい、麻原彰晃はどんなトリックを使ったのだろうか。
私が調べた結果、もっとも効果的だったのが「出版」だ。
何もオウムの信者が家庭訪問をして教義を説いていったわけではない(そういうケースも皆無ではなかったろうが)。キリスト教系カルトの「エホバの証人」(ものみの塔)などは未だにこういう宣教をしていて、私の家にも時々やって来るが、効率が悪い。
だが、出版ならば、本のほうが家庭訪問をして、勝手に道を説いてくれる仕組みだ。しかも、読者がその本を自分で選んだ時点で、一次選別が済んでいる格好だ。
つまり、出版は非常に効率のよい信者獲得手段なのである。
これは別名「バイブル商法」ともいわれる。
かの大川隆法氏の「幸福の科学」や、詐欺罪で逮捕された福永法源の「法の華三法行」も、この出版によって急激に巨大化に成功した教団の一つだ。
麻原彰晃がどのように「バイブル商法」を活用したか、チェイスしてみたい。
麻原とオウムがまず目をつけたのはオカルト雑誌だった
麻原は1984年2月に、それまでの学習塾をヨガ道場「オウムの会」へと変え、5月終わりには「株式会社オウム」を設立した。
そして、当時全盛だったオカルト雑誌に売り込むことを思いつく。
その一発目が1985年10月号の『ムー』と『トワイライトゾーン』(*廃刊)だ。
まず『ムー』から述べるが、オカルト通の人ならご存知だろうが、1985年といえばまさに『ムー』の黄金期で、日本のオカルト情報のリーディング媒体だった。
「終末の鍵を握る日本人とユダヤ人の謎」(同6月号)
「驚異の古代中国“超科学”文明」(8月号)
「戦慄のヒトラー第四帝国」(11月号)
など、当時、面白すぎる特集記事を連発していたのである。この『ムー』がイケイケだった頃に麻原はうまく執筆デビューすることに成功した。それがこれだ(↓)。
タイトルは「私は驚異の空中飛行に成功した!」である。
他にも3ページあるが、著作権の関係ですべて載せることはしない。
よく見ると、浮遊でなく飛行と称している。当時、私はリアルタイムでこれを読んでいて、「なにこの『頑張って飛びました』感が見え見えの写真は?」と呆れた記憶がある。
で、この3ヵ月後の86年1月号には、同じ「MU MU LAND」に私の投稿が載っていたりするから、私もオウムとかなり近い位置にいたことが分かる。
当時、私と同じ高校生で、誕生日も近く、住んでいる場所も近かった井上嘉浩(いのうえよしひろ・元オウム諜報省長官)が先日、麻原と一緒に死刑になった。私と彼の運命を分けたのは「麻原を見てどう思ったか」という程度で、紙一重に過ぎない。
麻原はまたライバル誌の『トワイライトゾーン』にも同種の記事を発表した。
タイトルは「シャクティが吹き上げ 身体はそのまま空中に浮揚」で、独立独行のヨガ修行者などと自称している(*上は見開きの右ページ部分)。
同じネタで、オカルト業界の東西誌に同時掲載、である。
麻原の快進撃はここから始まった。『ムー』の翌11月号にも、「実践ヨガ。第2回。空中飛行を完成させる霊的覚醒」という後続レポートを書いている。
そして、締めくくりとして「修行によって誰でも超能力を得られるが、超能力は自分の魂の進化と世の中のために役立ててもらいたい」などと記している。
そればかりではない。この11月号から堂々、執筆陣の仲間入り。
「幻の超古代金属ヒヒイロカネは実在した!?」という中ぐらいの記事を書いている。取材中に都合よくヒヒイロカネを手に入れたりするなど嘘くさいが、結構おもしろかったりする。本人が死んだので、全文パクって載せようかと、迷っている。
その後は、『トワイライトゾーン』でも、自分たちの修行の様子を紹介したり、各地の聖者を訪ね歩いたりする記事を発表し、オカルト界でどんどん名前を売っていく。
オカルト系雑誌に自分を売り込むという麻原の作戦はまんまと成功したのだ。
オウムは1986年12月の著作で急激に信者を増やすことに成功した
ウィキペディア「オウム真理教」によると、信者数は次の通りだ。
1985年12月 – 15人
1986年10月 – 35人
1987年2月 – 600人
1987年7月 – 1,300人
1988年8月 – 3,000人
1990年10月 – 5,000人
1995年3月 – 15,400人(出家1,400人、在家14,000人)
これは教団資料や公安調査庁資料などに基づく数字らしく、もっとも正確なものと考えてもいいだろう。
見ての通り、信者数は、1986年10月にはわずか35人だった。
つまり、それ以前の1年間にわたる『ムー』や『トワイライトゾーン』での麻原の必死の執筆活動は、それほど信者の獲得には繋がらなかったのだ。
だが、1987年2月には600人、7月には1300人へと急増している。
異常な増え方である。この時期に何かあったのだ。
実はそれが「本」の出版だった。
麻原はよほど「空中浮揚」が持ちネタだったしく、以前の記事などを整理・大幅加筆して、86年3月には『超能力秘密の開発法』という本にした。
表紙を見ての通り、「またこれか」である。
しかし、次の、86年12月出版の『生死を超える』は「修行して解脱へと至る体験」を記したもので、超能力云々よりも「人間麻原」を全面に押し出したものだった。
どうやら、この本が共感を呼び、信者の急増に大きな貢献をしたようなのだ。
それまで数十人だった信者が、せいぜい半年の間に、一挙に千人を超えるまでに激増する。私が思うに、『ムー』や『トワイライトゾーン』での執筆活動は、直接的には信者獲得に繋がらなかったが、一方で、いわば麻原の文筆家としての「修行」になったのではないか。
ここで養った実力が本の執筆で一挙に爆発したのである。
ちなみに、86年4月、オウムは、ヨガ道場「オウムの会」を、宗教団体「オウム神仙の会」へと改名している。この「神仙」というのは、実は「神仙民族」から来ている。
『ムー』の「幻の超古代金属ヒヒイロカネは実在した!?」を読むと分かるが、元にあるのは「近未来にハルマゲドンが起こり、人類の大半は滅亡するが、神仙民族だけは生き残る」という予言から来ている。つまり、自分たちがそうだ、というわけだ。
そして、信者数が1300人に達した1987年7月、「オウム真理教」へと改称する。
経済面でいうと、信者が千人を超えると、ビジネスになる。たとえば、毎月の会費が千円とすると、会費だけでも月収100万円になる。
その他、ヨガの道場費、不定期のセミナー代、お布施などの収入もある。
これだけの経済基盤があれば、麻原と幹部数名は、事務所や道場を借りて、「専業宗教家」としてやっていくことができる。
そして、この後、麻原とオウムは止め処もなく暴走していく。
彼らの飛躍のきっかけとなったのが、執筆による宣伝戦略だったのである。