みなさん、こんにちは。
前回、キリスト教の関係者が「政教分離の原則に反する」などと天皇の即位式を批判したことに対して、私は「まず自分の問題から片付けようね」と反論した。
しかしながら、それは、私が「天皇=現人神」や「国家神道」を是認することを意味するものではない。それどころか、国家神道の本質に関する私の見解は、左派とかなり一致している。むしろ神話性を許容している保守派のほうと根本から相容れない。
ただし、私が左派と考えを別つのは、伊藤博文らが天皇を「現人神」に祭り上げる「人工宗教」を創設せざるをえなかったのは、その天皇を擁する自分たちの権力基盤の強化もさることながら、「時代の制約」上やむを得ない面があったと考えることだ。
平たく言えば、内外の情勢から考えて仕方がなかった、ということ。
当時、伊藤博文らは、三百諸藩を統合して西洋列強に伍する国民国家を作るためには、西洋におけるキリスト教に相当する信仰を作るほかないと考えたのである。つまり、日本人全員が共通して崇めることのできるシンボル的存在が必要と考えたのであった。
それで、あの大日本帝国憲法や教育勅語が整備され、国体が明徴されたのである。これがだいたい19世紀の終わり、日清戦争の頃であった。
私が司馬史観に賛成できないのは、昭和の時代に破滅に突き進んだ世代は、明治の元老たちが作ったシステムによって産み落とされたと考えるからだ。天皇を本当に「現人神」だと妄信する「恐るべき子供たち」が社会の主流になったのが1930年代。
当時、陸軍が日本最大の官僚組織だったのもマズかった。彼らが青年将校として上の世代を突き上げ、モノ言えぬ異様な空気が日本軍の間に形成されていったのである。つまり、1945年の敗戦とは、本当は明治時代の後期に始まったものの破綻だったのである。
そもそも「国体護持のためなら一億玉砕」などという思考は、「軍国主義」でも「ナショナリズム」でも「ファシズム」でも何でもない。「宗教的狂信」なのである(言ったように、それは当時としてはやむを得ぬ選択の結果のため、情状酌量の余地はあるが)。
キリスト教徒が気づかない信仰の根幹に関わる欺瞞
さて、キリスト教の関係者は、今度の「即位礼」で新天皇が「高御座」(たかみくら)に立つことは、天皇が「生き神」の性格を帯びる意味を持つなどと述べ、「政教分離原則に違反する」と批判している。「生き神」とは要は「現人神」のことである。
しかし、このような批判が、実はブーメランであることを、どれだけのキリスト教関係者が理解しているだろうか。たぶん、この会見に臨んだキリスト教関係者だけでなく、およそキリスト教徒と呼べる人は、まったく無自覚・無理解のはずである。
この「天皇」という部分をそっくり「イエス」に変えてみたらどうなるか。
そうすれば、私の言っている意味が少しは分かるだろう。
イエスという青年を「現人神」に仕立て上げたのが、まさにキリスト教ではないのか。
しかも、ローマ帝国の国教になり、その庇護下で、宗教会議を重ねたことによって、キリスト教の“正統な”教義が形作られていった。
つまり、「国家神道」云々と批判するが、それを言うなら、アンタたちは「国家キリスト教」じゃないのか、という話なのである。
つまり、キリスト教関係者は「天皇=現人神」や「国家神道」にとやかく言える立場ではないのである。
いや、その上、処女懐妊とか、三位一体説などの神話を付け足して、イエスの「神格化」を図ってきた。また、信者をコントロールし易くするため、終末予言を政治的に悪用して恐怖心を植えつけ、精神的に呪縛してきた。見方によっては、戦前の「国家神道」よりもはるかに迷信的で、あくどい信仰と言えるのではないか。
はっきり言って、王や皇帝を「神」に祭り上げることよりも、ホームレス同然の青年――しかも犯罪者の烙印を押された――を「神」に祭り上げることのほうがはるかに困難だ。だからこそ、イエスの神格化はかくも念入りに行われたのだと思われる。
もちろん、イエスを「現人神」だと信じるのは、信仰の自由。
ただ、ユダヤ教はイエスを預言者の列にすら加えていないこと、又、イスラム教はムハンマドと並んでイエスを「人間の預言者」と定義していることなども、知っておいたほうがいいだろう。私にはイスラム教のほうが洗練されているように思えるのだが・・。
おそらく、キリスト教の関係者には、上のようなモノの見方は、大変ショッキングであるだろうし、人によっては発狂するケースさえあろう。
しかし、自分たちがある基準やロジックを用いて他者を批判するなら、その同じ基準やロジックで批判され返しても仕方がないということだ。本当は私もこんなこと(特定の信仰を持つ人々を傷つけるようなこと)は言いたくないのである。
まあ、今回は「国家神道」に関しても、身もフタもないことを言っているから、クリスチャンだけでなく、右翼や民族派の中にも怒るものがいるかもしれない。
ただ、付け足しておくと、私はイエスと天皇の「神性」は否定しない。
ただし、それは「万人の神性」を認める立場からの見方である。つまり「人はみな神様」という考えだ。神が人間期にあって人間の姿を借りているのが私たちである。
しかも、私は「国家キリスト教」とは違った立場で、イエスが救世主であることを理解しているつもりだが、まあこれはクリスチャンには説明するだけ無駄かもしれない。
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天皇=現人神という思想は明治維新から第二次世界大戦までのことであり、それ以外の時代、例えば、明治以前は、天皇=大神官であり、神ではありません。だから天皇は2000年近く、祈りを職としていたのです。天皇=皇帝[エンペラー]と、俗に言っていますが、明らかに天皇陛下は皇帝や王ではありません。神官です。これは非常に重要なことです。神官[権威]だから、支配者である武士の統領[権力を有する将軍]は手出しできなかったのです。古来より、神官は祈りと呪いの両方の力あるとされ、それを将軍は畏れていました。
ええ、国民の大半は問題にしてないですよ。
ただ、この記事では危なくて意図的に伏せていることもある。
その嫁いでくる平民が、本当は誰によってどう選ばれたのか、
そのバックには外国勢力の意図がいるのではないか、という陰謀論的な話です。
私はユ○ヤによる皇統抹殺計画だと当たりをつけていますが。
実はそれを暗に示すのが本当の狙いで、だから少し挑発的な平民うんぬんの話にしたわけです。
あとはそこからご自分でたどり着いてほしい、という意図です。
うーん、この意見には賛成できない部分もあります。
天皇家の王朝としての歴史は1500年くらいじゃないでしょうか。
天皇=現人神は明治の元勲が政治的に作ったフィクションです。
しかし、明治以前は天皇=大神官というご意見ですが、
武力で王朝を立てた当初は世俗的な専制君主だった時代もあったわけで、
その権力が周辺貴族そして武士に移行していく中で、
祭司的権威や世俗権力の任命権威などが強調されて残っていったと思います。
そういう意味で神官であり法王であるのは確かです。
ただし、実態として、神と人を繋ぐ祭司としての能力がどれだけあるのか、
あるいは、そんなものが最初からあったのか、私は疑問に感じています。
調べてみると、どうやら伊勢神宮ですら、本当は純粋な祈りの場というより、政治的な施設というのが本当のようです。
国家なり、古代の都市国家なり、その存続には信仰が必要でした。だから、人々の信仰心を利用して政治力を強くするのは、古代では当然のことでしたので、宗教と政治は必ず、結び付きます。だから、古代文明での君主は同時に神官でもあったと思います。ですから、神官であっても、世俗的なのは当然です。天皇といえども、人間であることになんら疑問の余地はありません。でも歴史的なことと日本の成り立ちを考えると、天皇陛下には、大変恐れ多いのですが、どこかで人間であること、つまり自分自身の人権《姓がない、結婚相手は相応しい方を。好きだけでは結婚をしてはいけない》を捨てる覚悟が必要だと思います。国民と自分を同等の者と思ってはいけないのです。国民と自分〈天皇陛下御自身〉は同等ではなく、遥か上にいることを自覚して、それは尊大ではなく、国民の多くが認めるものではなくてはならない。自分はひたすら国家の安寧を祈る大神官であり、そのためには、国民に対して敬語を使うことは断じてあってはならないものだと思っています。
古代において死はあの世への旅立ちであり、いづれ帰ってくるものだという信仰がありました。そこに、人々は祈りと呪いの存在を感じ、“生贄”として人そのものを捧げ、いつしか人ではなく、土偶を人の代わりとして捧げ、神々[自然]の怒りを鎮めようとしたのです。ですから“祈り”とは、神官の力ではなく、人々の信仰心であり、“祈り”の力を皆が信じるから国家は安定するものだと思います。科学の発達したこの世界であっても、国家の安定にはなんらかの信仰が必要であり、それが歴史的に古いほど、正統性を増します。天皇は歴史的に古く、そのことを日本国民全体が知っており、正統性は確かだと思います。
卑弥呼は神官[巫女]であり、女王でもありました。