現在、尖閣諸島の領有をめぐり、日中間に争いが生じているというか、われわれが一方的に因縁をつけられ、暴力を受けている。
中国各地で勃発中のデモ・暴動・略奪は、当局による扇動とする見方が強い。次期政権を睨んだ権力闘争が原因なのだろうか。専門家の間でも、かつて胡耀邦に対して行われたように、「反日運動の使嗾は胡錦濤閥に対する指桑罵槐だ」とする見方と、逆に「政敵に付け入る隙を与えないための胡錦濤政権の政治的自衛策である」という見方がある。あるいは「日本がこの時期に島を国有化したので面子を潰された」のが原因かもしれない。
市民もまた共産党に対する指桑罵槐として反日を利用しているともいう。元はそういった「民意」も政治的に作られたものだが、今では共産党自身にもその怪物が半ば操縦不能になり、民心に迎合しなければ政権の基盤を揺るがしかねない水準にまできている。
要するに、権力者と人民の双方が反日ゲームにどっぷりと浸かってきたがために、今では日本に対して強硬姿勢であればあるほど愛国的であり、でなければ漢奸と指弾されかねないという強迫観念に駆られてしまっている。ただ、中国側の事情はどうあれ、われわれからすれば、政府と人民が一体となって日本を襲撃し、生命と財産を脅かしている事実には変わりない。一線を越えれば、われわれも自衛権を発動せざるをえない。
中国の異様さは、政府自らがマスメディアや公教育を使って日本人に対する偏見と敵意を助長し、ヘイトクライムを扇動している点にある。先進国の常識では個人の問題点とされることを、「政府」が率先してやっているのだ。表向きは「友好」とか「互恵関係」などと謳いながら、実際には平気で相手を貶め、騙し、虐待する。これは相手を(少なくとも対等な)人間だと認めていない証拠である。戦前においても似た事例が多発し、日本国民は「暴支膺懲」と憤った。その空気なくして当時の陸軍の暴走も語れない。
今やあらゆる事象が開戦の前兆を示している。たかが小島と侮れない。小規模な軍事衝突から戦争に発展した事例は、枚挙にいとまがない。とりわけ大戦後の中国は周辺諸国すべてと紛争・戦争を繰り返している。彼らがおとなしくしたのは、中ソ紛争で核攻撃の恫喝を受けた時だけだ(これが毛沢東をして日中国交回復に走らせたという)。しかも、社会の内部矛盾が激化し、暴動が年間十万件を超えている。そこに経済成長の失速も重なりつつある。このままでは統制が利かなくなる事態を危惧した共産党が、独裁国家らしい常套手段に打って出る可能性は十分に予想される。すなわち、国内を引き締め、内部矛盾を転嫁するために「外敵」を作り上げ、戦争に解決策を求めることである。
心理的には両国民とも戦時に近づきつつある今だからこそ、過去の歴史に学び、日中間での戦争を防ぐことが、われわれの世代に課せられた責務ではないだろうか。その目的を達成するためには、二国間での戦争抑止に効果的とされるあらゆる手を打つことが不可欠だ。私の知る限り、今のところそのような手段は二つある。
一つは「デモクラティック・ピース理論」(Democratic peace theory)である。これは民主国家間では戦争が起きにくい、とする説だ。たとえば、個人の自由が尊重されている国同士では、宗教やイデオロギーをめぐる対立が起こりにくい。開戦の際にも、国民の代表者たる議会の承認がいる(もっともアメリカはそれを外してしまったが)。そういった民主的な制度や機構は、権力サイドの恣意的な軍事行動を抑制するのに効果的だ。
ただ、民主主義の初期段階においては、先達の英米仏を含めてどの国家も好戦的傾向にあり、日独のように極端な“揺り戻し”もあった事例を思えば、あくまでフクヤマ言うところの“リベラルな”とか“成熟した”という枕詞を付けたほうがよさそうだ。
もう一つは「相互確証破壊」(Mutual Assured Destruction)である。これは互いに核ミサイルによる報復能力を有していると、戦争がエスカレートすれば双方が破滅することが確実になるため、互いに自制が働く、とする考え方だ。単なる「攻撃能力」というより、敵の先制攻撃をくぐり抜けた後の「報復能力」という点がポイントである。
つまり、どちらも初弾では相手にトドメを刺せない。その結果、力尽きるまでえんえんと撃ちあう羽目になる。互いにそういう状態だと、かえって撃てなくなってしまう、というわけだ。このような核の抑止力によって米ソは冷戦を乗り切ったとする見方がある。
どちらの理論にも批判がある。ただ、これまでの歴史を見る限り、決定的ともいえる反証がない(と思う)ので、有効性を疑問視する程度に留まっている。つまり、万能ではないかもしれないが、まったく効果がないわけでもない。
では、この二つの理論を現在の日中関係に当てはめてみよう。今はどちらの理論も機能していない。日本はそれなりの民主国家だが、中国はまだ論外の域だ。よって、前者の理論が働くためには、中国のほうが民主国家へと変貌しなければならない。一方、中国は核保有国であり移動式のICBMを多数保有するが、日本はそうではない。よって、後者の理論が働くためには、日本が同じ軍事ステージに上がる必要がある。
つまり、両国が二度と戦争しないためには「中国の民主化」と「日本の核武装」の二つが必要不可欠である、という結論になる。
私は平和主義者なので、日中間に恒久的平和を確立するためには、打てる手はすべて打つべきであると考える。どちらにも反対している人は、日中間の恒久平和の障害なのではないか。
もちろん、現実にはどちらの策も前途多難だ。ただ、困難はあるものの、実現に向けた意欲さえあれば、中長期的にはどちらも可能であるというのが私の結論である。
中国の民主化は基本的には予定調和だと思う。たしかに、憲法を改正して共産党の一党独裁体制を終わらせ、国政選挙を実施するまでには幾多の困難がある。なにしろ、魏京生が街頭で「民主を選ぶか、新しい独裁を選ぶか」と訴えただけで、懲役十五年の実刑判決だ。ただ、今やたくさんの中国知識人が当局の弾圧に屈することなく民主化を訴えている。村民委員会レベルではすでに投票が行われているし、共産党の中にも漸進的な民主化を支持する声が少なくない。人々が以前ほど政府を恐れなくなっているのも好ましい変化だ。
実際、中国の伝統的な思想と民主主義は決して相性が悪くない。尭舜の故事や孟子の革命思想を生んだ中国人民に対して、私は民主主義こそ「徳治」の制度化であり、選挙は血を流さない「革命」であると勇気付けたい。そのような政治の理想を実現するため、今こそ中国人民は日本に対してではなく抑圧的な自国の政府に対して立ち上がるべきだ。
日本の核武装に関しても障害が多いが、日米安保や原子力政策など、語るべきことがあまりにも多いので、安全保障に関してはまた稿を改めたい。
2012年09月18日「アゴラ」掲載
(再掲時付記:今は南シナ海にまで飛び火して、日中戦争どころか世界大戦の火種になってしまいましたね。それについて、6年前の対中宥和政策に大いに責任があるということを、しばらくしたら書きたいと思います)