みなさん、こんにちは。
今、ネット上での誹謗中傷が問題になっていますが、世の中には「まったく気にしない人」もいるらしい。たとえば、サイババさん。
「片側には崇敬と敬意が山のように高まり、片側には非難と悪口が、やはりうず高い。両方にはさまれて、わたしはそのどちらに対しても手をあげて祝福する。わたしは誉められたからといって有頂天になることもなく、そしられたから気落ちすることもない。中傷者はそれ相応の報いを受け、わたしは栄光という冠を得る。」
『すべてはブラフマンより』
中傷する者に対しても、手をあげて祝福する・・・この超人的な余裕!
サイババさんは、そういう人間は構うな、とおっしゃる。
他人の粗探しをする者は「衣服につく虫」と同じだと考えて放っておけばよい。
そのような人々の語る言葉に耳を傾けるのは、それと同質の人々だけだ。
許される限りの時を、ただただ神聖な目的のためにのみ用いなさい。
他人が良かろうと悪かろうと構わないでよい。
粗探しをする人々の言葉は青銅の音のようなもの。安価な金属ほど、よく響く。
『平安・冥想・大成就』
ただ、これはあくまで聖人君子の事例ですね。
凡人はここまで達観することは難しい。というか、誹謗中傷に対しては、普通に社会常識の範囲で対応すべきでしょう。普通の人が無理して真似る必要はありません。
「因果応報」を思って他者への攻撃を自制する
ところで、サイババさんは、「他人」とは、本当は「他の名前と姿を持つ自分自身」なのだと教えています。よって、他人に何を言っても、また何をしても、それは自分自身にしていることなのだと。だから決して他人に危害を加えてはならないと。
「すべての人が生まれながらの権利を平等に持っている」というのが西欧人権思想であり、証明不要(又不可能)だが自明の真理であるとしています。
このような思想も、究極的には人間の同一性に対する洞察から来ています。
人間が精神的に成長すると、そのことが段々と理解できてくるわけです。逆に言えば、他人を自分自身と同一の存在だと思い信じることは、精神的な成長を後押しします。
もっと成長すると、万人共通のアートマンが、ただ単に個々の「役柄」という衣服を着て「劇」を演じているだけであることが分かってきます。
そして、万人が究極的には同一であるならば、他者にしたことが実は自分自身にしたことになるという理屈も、少しは理解することができます。
この「カルマ」の考え方は、観念的というより、現実的な話です。
この法則の存在に関しては、ブッダのもっとも初期の経典にもちゃんと書かれています。
「愚かな者は、悪いことを行っても、その報いの現われないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかしその罪の報いの現われたときには、苦悩を受ける。」
「もしも汝が苦しみを恐れるならば、もしも汝が苦しみを嫌うならば、あらわにも、あるいは秘密にでも、悪い行ないをなすな。」
「人がもしも善または悪の行ないをなすならば、かれは自分のした一つ一つの業の相続者となる。実に業は滅びないからである。」
出典『ブッダの真理のことば』
この「因果応報」の概念が正しいか否かはともかく、それが見えない世界で機能しているのだと思えば、私たちにとって一定の自制の根拠にはなります。
ただし、この考えには注意が必要で、それは他者から受けた悪事を、いちいち「自身の過去の行いの報い」だと諦めて何の反撃もしないのは良くない、ということです。
たとえば、泥棒などの犯罪被害を受けたらちゃんと警察に届けて、民事刑事訴訟をもって犯人を追及するというふうに、社会常識に基づいて行動すべきです。
また、そうやってルールに基づいて罰せられることが、犯罪者当人にとっても望ましいのです。何らかの「痛み」を感じることで彼もまた罪を償える。だから、人間社会の刑法とその執行・罰金罰則・賠償などのルールを、決して軽視してはなりません。
大事なのは「現代社会の常識」と「因果応報の法則」とのバランスを取ることです。
すべては「幻」である
さて、凡人であっても、極限の状況になれば、一定の気づきを得る人もいます。
極限の状況とは、たとえば死刑囚です。
以前に「故・井上嘉浩の詩を読んで」という記事を書きました。
井上嘉浩とは、オウム真理教の幹部で、2018年に死刑になった人物です。
彼はもちろん大量殺人事件の主犯の一人として世間の非難を一身に浴びてきた人物です。そのことには何の同情もいりませんが、注目すべきは彼の受け止め方です。
彼は次のような手記を残しています。
どんなに傷つけられようと、どんなに誹謗中傷されようと、
それも又、実態はなく、本来、不生。
其れを悟れば、ただ、笑いがはじけるだけ。
悪口を叩かれようが、傷つけられようが、
共に夢以外、なにものでもない。
褒められようが、うれしいことであろうが、
共に夢以外、なにものでもない。
空なるものを知らず、空なるものの現れに取りつかれ、
一体、どれだけの悲しみと苦しみと狂気を演じてきたことであろうか?
どれだけすばらしいものであろうと、一切、空そのものなり。
人生における勝利者は、地位や名誉の幻想を獲得することではない。
本当の勝利とは、勝利であることのニセモノを知り、
自分を作り上げている精妙な空なるものの、慈悲の働きを知ることなり
彼はどういう考えに取りつかれていたのでしょうか。
端的にいえば、この世は仮想現実である、ということです。
私たちの世界、又そこで展開される人生の悲喜劇は、スクリーンに映し出される像のようなものです。本当の私たちは、観客席に座って、その映画をじっと観ている存在です。映画の世界で何が起ころうとも、観客は直接の影響を受けません。
今、この記事を読んでいる人は、改めて自分自身の両手を見て、周囲に目をやってください。あなたの目に映っているものは、本当はすべて「3Dの影絵」なのです。
そして、真のあなたは、遊ぶためにこの仮想世界を創造した神の分身なのです。