世の中には、極度に困難な人生を送っている方が、現実に存在しています。
たとえば、極貧の家庭で生まれ育ったとか、肉体的な欠損があるとか、重度の病気や障害を患っているなどのケースです。
あるいは、現にひどい侵略を受けている社会にいて、生活が破壊され、身の安全や命が脅かされているケースなどもこれに当てはまるかもしれません。
顔に大きなアザがあるだけでも、そうでない人に比べれば、世界の風景は違って見えるに違いありません。
誤解のないように言っておきますが、そういった人の中にも、ハンデをものともせず、明るく前向きに生きていらっしゃる方は大勢います。
ただ、中には、人生は苦しみ以外の何者でもないと、嘆き悲しんでいる人もいるでしょう。
とりわけ人間は社会的な生き物ですから、不公平や不平等ほど、人をして不満や疑問に駆り立てるものはありません。
中には、毎日のように天に向かって、
「神様、なぜですか? なぜ私だけ、こんなに苦しい人生を送らねばならないのですか」
と、問いかけている人もいるかもしれません。
しかし、神様も、天も、あなたの疑問に対して、答えてはくれません。
この世を呪いながら生きている人にとって、おそらく死こそが苦しみから解放される唯一の手段でしょう。
しかし、本当は、神様は、あなたの涙の理由をすべてご存知です。
パラマハンサ・ヨガナンダは、『人間の永遠の探求』において、「宇宙は夢」であり「この世の経験はすべて夢の出来事である」として、私たちが人生で困難を経験する一つの理由を次のように述べています。
困難は、この人生が夢であることをわれわれに悟らせるためにあるのです。われわれはみな、困難からそれを学ぶべきです『同書』(P239)
「ああ、私は今”夢の世界”(仮想世界)にいるのだ」という気づきですね。
苦痛に満ちた一生を送る人にとって、人生は単なる夢にすぎず、今の自分はあくまでも仮の姿であり、一時的にその役柄を演じているに過ぎないという考えは、大きな慰めであり心理的な救いともなります。
唯物論の間違いと害毒性
しかしながら、現代では、困難に直面した際、「自分が今経験していることは単なる夢にすぎない」と思い込むことは「現実逃避」であると見なされがちです。
カウンセラーの中には、「現実から逃げずに向き合いなさい」などとアドバイスする人もいるでしょう。
しかし、はっきり言って、そのようなアドバイスは、内心で相手を見下していることから生じるものであり、無用のものです。いずれそのカウンセラー自身が、この世は夢に過ぎないという真の現実を思い知らされることになるでしょう。
今日、肉体と真の自己とを同一視する思考は、科学的とか、近代的などと見なされ、当たり前のものと見なされています。
この風潮を後押ししたものの一つが唯物論です。
自然科学の世界ではとっくの昔に否定されている唯物論ですが、共産主義思想の強い影響を受けた日本では、目に見えない世界を否定する唯物論をして「これこそ科学的なものの見方である」と、未だに信じている者が中高年層を中心に多くいます。
実際は、この概念はある政治的な理由から意図的に広められたものです。
無神論と目に見えない世界の否定が、人間を精神的に堕落させて、「ソビエト人」という「労働動物」に仕立て上げるのに都合が良かったのです。
広めた首謀者たち自身は、唯物論などというものをまったく信じていません。
ただ、時代背景もあり、これが“科学的な世界観”だというプロパガンダは、大きな成功を収めました。
その結果、世界中の、とりわけ文明国家の人々の間に、目に見えない世界の存在を否定し、肉体が真の自己であるという思い込みが、広範囲に浸透しました。
しかし、本当は、救いどころか、その分だけ人々の苦悩も増したのです。
唯物論は、人を極端な偽善者に仕立て上げ、その内面において動物レベルに堕落させるのに、非常に効果的な霊的毒物に等しい思想なのです。
「こころが人生を束の間のものであると観ずるとき、その識別心は人間を自由に、身軽くします」
実際には、この世が夢であり、仮想現実に過ぎないと思うことは、決して現実逃避などではありません。
この世がすでに「ゲームの世界」、すなわち一種の「セカンドライフ」であり、死と共にログアウトするだけだという認識は、むしろ私たちの心を軽くし、物質的な富や世俗の地位に対する執着を弱めることにも大いに役立ちます。
サイババさんも次のように言っています。
人間を立派にするのも、損なうのもこころです。こころが世俗のことのみにかかわり合うとき、こころは人を束縛に落としいれます。こころが人生を束の間のものであると観ずるとき、その識別心は人間を自由に、身軽くします。浮き沈みをつねとする人生に執着をもたぬよう、こころを訓練しなさい。こころのまえに、世俗的名誉や金銭的富などのけばけばしい輝きをちらつかせることがないように
『黄金の宇宙卵』(P56)
世俗に執着しないように、というのは仏教的な教えでもありますね。
ただし、この世界が夢だとしても、夢遊病者のように振舞ったり、自分が何をしてもよい自由を獲得したなどと錯覚したりすることは、本人に大きな害をもたらします。
ここは大事なポイントです。
なぜなら創られた世界だからこそ、厳格なルールがあるからです。他人を害することは重大なルール違反であり、必ず本人に結果が降りかかってきます。
私たちは神の律法すなわち「ダルマ」に従って生きねばなりません。
そのルールを踏まえた上で、この世界が束の間の夢であると認識することが、この“セカンドライフ”をうまく過ごすコツではないでしょうか。