私たちは子供の頃から物語(フィクション)に親しんできました。
しかも、不思議なことに文明が発達すればするほど、人間は益々、時間的にも経済的にも物語へと傾斜していきます。おそらく、現代人の中で、小説を読んだことがない、映画を見たこともない、テレビでドラマも見たことはないという人は、よほどの変人でしょう。
動機はむろん「楽しむため」です。
つまり、物語に接すると、私たちはなぜか「面白い」と感じる――むろん中身に拠りますが――ようです。そして、面白いものほど、夢中になり、いつしか物語の世界に入り込むことができます。
私たちはそのことに大きな満足感を見出します。
それゆえ人は“物語中毒者”になってしまうわけです。
しかし、そもそも人はなぜ物語に接した時に「面白い」と感じるのでしょうか。
実は、この問いの向こうには、この世界の本質、いやもっと大げさに言うならば「世界が創造された秘密」までが隠されています。
その理由は「疑似体験ができるから」です。
人は演劇を鑑賞する時、小説やマンガを読む時、映画やアニメーションを見る時、そしてテレビゲームをプレイする時、大なり小なりそのフィクションの世界で疑似体験をしています。
しかし、疑似体験は、果たして物語と接している時に限られた話でしょうか?
この世が「バーチャル・リアリティ」であり、それゆえに人生がすでに「セカンドライフ」であることは、以前にも述べました。
バガヴァッド・ギーターは言います。
魂にとって誕生はなく死もない
原初より在りて永遠に在り続け
肉体は殺され朽ち滅びるとも
かれは常住して不壊不滅である(2:21)
人の本質であるアートマンはただ「在る」だけなのです。だから、外界で何が起ころうとも、どんな体験をしようとも、本質的には何ら影響されることはありません。
それはちょうど映画のスクリーンの前に座っている観客のようなものです。スクリーンの中で、爆発が起きようとも、嵐が起きて船が転覆しようとも、観客は一切影響されません。
ただし、その様子を見ていると、人はあたかも自分が体験しているかのように錯覚します。
つまり、換言すれば、私たちの人生そのものが疑似体験に他ならないわけです。
逆にいえば、そうやって疑似体験するために、私たちはわざわざこの世に生まれてくるとも言えるわけです。
だから、この世での誕生は、一種のゲームワールドへのログインであり、死はログアウトに例えても、そう間違いではありません。
しかも、前世の記憶を失うというルールによって、その体験が一度きりのように感じられ、益々、真に迫ってきます。このことは、この世での生があたかも真の体験であるかのように、うまく錯覚させる巧妙なシステムともいえます。
すると、私たちがなぜ物語に魅了されるのか、本質的理由が見えてきます。そもそも物語に接する(=疑似体験)ために、私たちはこの世へと生まれてくるわけです。
だから物語が嫌いであるはずがないのです。ある意味、それは動物的本能すらも超えた、人間の存在そのものに由来する根源的欲求とも呼べるわけです。
次回はこの世界が創造された秘密に迫ります。