1876年の日朝修好条規で、日本は朝鮮を「自主の国」と認めた。しかも、形だけの自主ではなく、近代的な独立国家としての内実を整えていく必要があると考えていた。なぜなら、それが日本の安全保障上の利益に与するからである。
その上で最大限、通商上の国益を追求する――。日本の対朝鮮政策は必ずしも一貫していなかったし、国際情勢によって変化もしたが、これが併合前までの日本の基本的な姿勢だったと思われる。
李朝の動きは開国後もしばらくは鈍かった。大勢は変化の必要性を痛感しておらず、「従来通りで何が悪いのか」という意識だった。日朝間の貿易交渉はその後も難航した。
ただ、従来から続いていた清との交流を通して、李朝にも外部の情報がじわじわと入り、そこから初期の開化派が生まれていた。彼らの勢力は、視察団や留学生の海外派遣によりさらに成長していく。両国の取り決めにより、日本はとりわけ積極的に受け入れた。朝鮮からの修信使は官民の大歓待を受け、日本の各地を見学した。彼らの知識の吸収に協力的な日本の姿勢は、ちょうど後進に対するような眼差しを想起させる。
当時、ゴリゴリの儒教国であり、華夷秩序(脳内)準盟主を自負する朝鮮知識階級にとって、倭人なるものは化外(文明圏外)の夷狄同然だった。全国の儒生たちはあくまで朝鮮古来の伝統が正しいと信じ、開港と開化に反対し、守旧派の基盤となっていた。だから、日本との必要以上の接近は政治的にリスクですらあった。
だが、明治日本において、西洋文明の圧倒的な科学技術・機械化された産業・軍事力などを目の当たりにした視察組は、書院で四書五経を諳んじる儒者たちとは違い、「現実」を思い知らされた。おそらく、自国が想像以上に遅れた国であり、近代化改革が急務であることを痛感したに違いない。彼らのように早くから開化思想に目覚めた官僚たちは、次第に結集していく。
清・日本・ロシアのそれぞれの思惑
当時の極東情勢をより国際的な観点から俯瞰してみたい。
79年4月、日本は琉球を沖縄県とした。また、欧米列強も「日本に続け」とばかり交渉団を朝鮮に送り込んだ。これに危機感を強めたのが斜陽の宗主国・清だった。
しばしば、近代日本による支配体制の悪辣さを強調するために、中国を中心としたそれまでの朝貢秩序を奇妙なまでに無害で牧歌的に描き出す傾向が一部近代史界に散見される。
たとえば、欧米流の暴力的な支配や搾取とは一線を隠した「各国の自主性を尊重したアジア的英知に基づく共存のシステム」と言わんばかりに。実際には、冊封とは、中原に属さない蛮地の者に対して、貢物を献上する奴隷的な臣下となるなら「その地域の統治を皇帝の代理として認めてやろう」という承認制度のようなものだ。いくら儀式礼儀で粉飾しても、本質は支配者にとって都合のよい人格否定の隷属関係といえる。
しかも、この時期、清自らによる欧米型支配体制への移行が進展していた。この動きは、列強の餌食になりつつあった清が属国も含めた己のテリトリーを今一度引き締めんとしたリアクションともいえた。とりわけその対象とされたのが朝鮮である。それを象徴する人物がまだ20代だった袁世凱で、あまりの専横ぶりから、後に朝鮮王室がもっとも恐れる男となる。
清は建前では朝鮮の自主性を尊重しながら、実際には外交と内政への干渉を強め、朝鮮に進出しようとする日本とロシアをけん制した。
一方、日本はロシアこそが本当の敵であると認識していた。当時、ロシアはまだ朝鮮への足がかりを得たばかりだが、その予測は結局30年を待たずに現実のものとなる。
15世紀末以降、膨張し続けるロシア帝国からすれば、外洋へと勢力を拡大するためには、黒海から地中海へと至るルートと、極東の不凍港が不可欠だ。ゆえにロシアの南下政策は、大きくは東(極東地域)と西(黒海・アフガニスタン地域)で行われた。
一方、海洋帝国のイギリスにしてみれば、これはパックス・ブリタニカに対する挑戦に他ならない。ロシアの脅威に対抗するためにイギリスが選んだ代理人が日本とトルコだった。
つまり、イギリスにとって日本はロシアの脅威に対する防波堤であり、日本にとってそれに当たるのが朝鮮であった。だから、朝鮮が属国に安住し、独立の気概がないこと、遅れた国のままでいること、不安定で列強の草刈場となること等は、安全保障上の脅威であった。
仮に李朝が「普通の独立国」であれば、両国は容易に利害が一致したかもしれない。ところが、アジアの特異な国際関係や信仰などがその実現を阻んでいた。
すでにクリミア戦争(1853-1856年)ではカムチャッカ半島にまで戦禍が波及し、露土戦争(1877-1878年)ではロシアが勝利していた。
アヘン戦争、アロー戦争と、立て続けに西欧に敗北した清がもはや斜陽の帝国であることは誰の目にも明らかだった。ロシアはアロー戦争中に清から外満州をもぎ取ることに成功している。今後、半植民地化しつつある清の弱体化につけ込んで、ロシアが南下政策を加速させることは明白だった。その最終目的地こそ朝鮮半島である。これは当時の日本人の大局観であると同時に、国際的な「常識」でもあった。
むろん、当事者たる朝鮮の国王や高級官僚もちゃんと理解していた。
改めて清の属国と化した朝鮮
しかし、当時の朝鮮支配層が熱中していたのはコップの中の争いだった。ここで時計の針を少し巻き戻す。
当時の朝鮮はすでに五世紀近くも専制政治が続いており、役人は極度に腐敗し、社会や経済は崩壊に瀕していた。とりわけ貧窮を極めていたのが国の大半を占める農村である。大小の反乱が頻発し、流民と盗賊の温床となり、カルト的な民間信仰や天主教などが跋扈していた。特権階級である両班ですら政権に関われない大半は経済的に没落し、一方で官吏の職を得た者は庶民を虐げて私腹を肥やすなど横暴を極めていた。
1863年に国王高宗が11歳で即位すると、父の興宣大院君が政治の実権を握った。大院君は少しでも国を立て直すための改革を断行する一方、西洋の通商要求は断固跳ね除け、天主教は弾圧した。彼は私田や官吏の不正に手をつけたため、少なからぬ敵がいた。
73年末、王妃の閔妃一族派が、反対派勢力を糾合し、大院君を孤立に追い込み、実権の奪還に成功する。こうして大院君の10年が終わり、新たに閔妃の20年が始まった。直後、日朝交渉が進展したのは、反大院君派に開国への理解のある官僚が多かったためだ。
さて、81年、日本は李朝に最新式の小銃を与えて、近代的な歩兵部隊を育成する役割を買って出た。花房公使の提案として、閔氏政権は受け入れる。これは「別技軍」と呼ばれ、親衛隊の役割を担った。ちなみにだが、日本が当初から朝鮮の独立を奪うことを目論んでいたとしたら、どうしてこのように朝鮮の軍事力強化を支援することがあるだろうか。
一方で旧式軍兵士はリストラにあい、別技軍に比べて待遇を差別され、俸給米の支給が滞った。久しぶりに給付された米には、役人の不正により、砂などが混じっていた。役人との対立から旧軍兵士の抗議運動に発展し、政権に不満を持つ勢力が吸い寄せられていった。
82年7月、失脚中の大院君がこの事件を権力闘争に利用する。旧軍兵士らが閔氏政権の要人を殺害し、扇動された軍民が開化勢力の後ろ盾である日本公使館を襲撃し、王宮を制圧した(壬午軍乱)。花房公使らは死傷者を出しつつも脱出し、閔妃は逃亡した。
余談だが、このように自国の民衆を扇動して権力闘争に利用したり、外国人を攻撃したりする未開なやり方は、21世紀の今でも中国などで見られる。
優柔不断な国王はいったん父親に政権を明け渡した。しかし、天津滞在中の閔氏派高官が清国に派兵を要請。李鴻章幕僚の馬建忠が清国将兵三千と共に上陸。王宮を固めて、「大清皇帝が冊封した朝鮮国王を斥けた」罪で、大院君をそのまま清へと連行した。
こうして閔氏政権は復活した。しかし、清はそのまま将兵を駐留させた。外交的な事後処理は馬建忠が仕切り、政権を事実上の管理下に置いた。以後、清は李朝と改めて主従関係を明確にし、その経済と軍事へ利権の触手を伸ばしていった。
一方、三千の駐留軍の指揮を任されたのが、若干23歳の青年将校袁世凱だった。傍若無人で「王位の陰の力」と言われ、国王と大臣たちに君臨した。清国兵たちは街で好き勝手に乱暴狼藉を働いた。もともと少ない俸給の補完として、兵士による略奪が黙認されるのが常だった。
このような清の横暴に対して、朝鮮人はなす術もなかった。当時の人々が宗属関係を“古き良きアジア的秩序”と思慕していたかは疑問だ。ただし、李朝は手も足も出ない代わりに、例によって「陰謀」で対抗しようとした。閔氏派は清をけん制するため、自らの自主独立と富国強兵ではなく、ロシアを引き入れることを考える。
このように、当時の朝鮮は、大院君派と閔氏派が熾烈な権力闘争を繰り広げつつ、その時々の状況に応じて、後ろ盾となる外国勢力も、日・清・露と使い分けた。
李朝の自生的改革勢力がついに決起する
こういった祖国の現状に強い危機感を抱いていたのが若手エリート官僚の金玉均だった。1851年生まれの金は、科挙の首席合格者として当時の出世頭であると同時に、早くから開化思想に目覚めた時代の先を行く人物でもあった。修好条約以降はもっとも熱心に日本国内を視察して回った内の一人だ。
彼は急速に近代化を進める日本の様々な施設や制度を学ぶ傍ら、福沢諭吉をはじめ日本の政財界の大物とも会合を重ね、大きな刺激を受けた。
やがて、金玉均は古い常識を捨て去り、同じ東洋の国として、自主独立・富国強兵を進める日本こそ李朝が当面目指すべき目標ではないかと確信するに至る。
だが、日本に倣った近代化改革を進めることは、李朝においては革命に等しい作業だった。第一、清との決別を意味する。当然、金玉均は日本の後ろ盾を欲しかったが、当時の日本はまだ清との戦争を避けたく、積極的な支援は約束しにくかった。
壬午軍乱後、改めて清に蹂躙された李朝では、根本的な国家観や方針の違いから、開化派官僚が二派に分裂した。清に強く反発した一方が金玉均を中心とする開化党(独立党)である。彼らの目的はあくまで朝鮮を近代的な独立国家へと刷新することだった。
対する一派はよくいえば現実派で、改革は清の下で漸進的に進めていくしかないと考えた。そして彼らと守旧派が政府内の人事を固め、急進派を排除していった。
金玉均らのグループは、変わらない祖国への焦燥と悲憤を強める。急進派らしく大半が2~30代の青年官僚と名門の子弟たちで、日本に滞在した者も少なくない。せいぜい百名弱の党派だったが、文武における精鋭ぞろいだった。
そんな時、ちょうど清仏戦争が勃発し、三千の駐留清国兵が半分に減った。金玉均らはもはやクーデター以外に祖国を救う道はないと考えた。ただし、それは従来繰り返されてきた権力闘争とはまったく次元を異にしていた。日本政府内にも朝鮮での巻き返しの機会ではないかとの見方が広がった。井上外務卿と竹添公使のラインは政府の方針変換を金玉均に伝え、支援を約束した。金は決起の前に高宗にも会い、内々に承諾を得たという。
1884年12月、開化党は決起した。いったん放火の騒ぎを作り、王宮に押し入って危急を理由に高宗の身柄を確保し、別棟へ移した。それから日本公使へ保護を依頼する親書をしたためてもらい、6人の閣僚を一挙に処断した。翌日、新政府樹立とその閣僚名簿を公表して各国公使に通知し、次の日には画期的な近代化綱領を発表した。
だが、閔妃が外の者と通じて清に救援を求めた。袁世凱が1300名の兵を率いて王宮に攻め込んできた。武器が不十分な李朝側の兵士は逃亡し、ほとんど150名の日本兵だけで支えることを余儀なくされた。やがて竹添公使の判断で脱出した。
こうして、クーデターは「三日天下」で終わり、金玉均らは日本に亡命した。
その後、清兵とそれに乗じた暴徒は、日本人商店まで襲撃し、略奪暴行をほしいままにする。報復は陰惨を極めた。捕らえられた開化党のメンバーは惨殺され、家族までもが殺害又は自殺に追い込まれた。金玉均も最後には刺客によって暗殺され、遺体が辱められた。
最初のチャンスだった「甲申事変」
かくして、韓国版「明治の志士たち」であり、韓国版「明治維新」を成し遂げたかもしれない開化党は、家族もろとも皆殺しにあい、ほとんど全滅してしまう。熱心な支援者の福沢諭吉は以後“地獄国朝鮮”を見限り、その論説がのちに「脱亜論」と称される。
以上が「甲申事変」とか「政変」などと言われる事件だ。
このように、韓国にも時代の変化をいち早く読み取り、日本に続いて近代国家への変革を成し遂げようとした傑出した人物たちがいた。
1875年の江華島事件から05年の日韓協約の30年を振り返ってみると、韓国にとってこれが第一のチャンスだったことが分かる。だが、時期尚早だったこと、清との開戦を望まない日本の支援が中途半端だったことなどが災いした。
国家の軌道修正は早いほどいい。歴史に「もし」はないが、仮にこの革新的な青年集団が文武における実権を掌握していたとしたら、良い悪いは別として、今頃まったく異なる韓国の姿を目撃していたに違いない。少なくとも、韓国の近代史はもっと躍動的で可能性に満ちたものと化していたのではないだろうか。
だが、韓国の歴史教育は、金玉均という人物をあまり深く掘り下げず、彼の感じた悲憤と愛国心とを共有することができないでいる。彼こそ近代朝鮮の自主独立精神の生みの親ともいえるのに、なぜなのか。
おそらく、その理由は、彼が日本の近代化を手本とし、日本の支援を受けていた“元祖親日派”でもあるからだ。政治的意図からいかに親日と切り離そうとしようが、彼は紛れもなく親日派である。
つまり、今日の韓国が何よりも尊ぶ自主独立の精神と、何よりも卑しむ親日派のルーツは、実は同じなのである。その事実が国史の“正当性”に抵触するので深く掘り下げられない…大方そんなところだろう。
主要参考資料
名越二荒之助編著『日韓共鳴二千年史』(明成社)/呉善花『韓国併合への道 完全版』(文春新書)/海野福寿『韓国併合』(岩波新書)/姜在彦『朝鮮近代史』(平凡社)/イザベラ・バード『朝鮮紀行』(講談社学術文庫)/『入門韓国の歴史 国定韓国中学校国史教科書』(明石書店)/『韓国の高校歴史教科書 高等学校国定国史』(明石書店)
2013年12月05日「アゴラ」掲載