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『渚にて』と核戦争、その後の文明再建構想について

映画『渚にて』のポスター

みなさん、こんにちは。

いよいよ四月に突入ですね。学生や社会人として四月に新年度を迎える方は、ちょうど希望と不安が交錯する心理状態ではないかと思います。

こんな時に気分転換になるのが、小説や映画などの「物語」ですね。

今回はあるオールド・ムービーを紹介しつつ、そこから少し「コワイ話」へと強引に繋げていきたいと思います。



映画『渚にて』《On the Beach》が訴えかけるテーマ

『渚にて』という映画をご存知でしょうか。以下、ウィキペディアから。

1959年製作のアメリカ映画。原題《On the Beach》。核戦争後の放射能の恐怖を描くネヴィル・シュートの同名小説の映画化。監督:スタンリー・クレイマー、出演:グレゴリー・ペック、エバ・ガードナー(略)

とまあ、ほとんど60年くらい昔の映画なんですね。

古い白黒名作系の映画なので、以下、思いっきりネタをバラしますけど、今後の鑑賞の楽しみとして取っておきたい人は、どうかスルーしてください。

一応は、核戦争とその後の放射能汚染で北半球は死滅したという設定です。

ただ映画には、軍隊が戦う場面はまったく登場しません。「核戦争がすでに起こってしまった後」の、オーストラリアにおける人々の日常の様子がほとんどです。

戦闘の回想もありません。核戦争が起こった地域の描写すらまったくありません。オーストラリアに寄港している生き残りの米潜水艦が母国の様子を探りにいく場面がありますが、ただ無人の街が出てくるだけで、破壊の爪跡すら描かれていません。

刻々と放射能汚染が南下してくる中で、生き残った人々が何を話し、どう行動するか、ということだけをひたすら描き、目に見えない放射能の脅威をうまく描写しています。ただ、一番のテーマは、近いうちに自分や家族の死が免れないと知った時の人々の様子を通して、「人間の尊厳とは何か」「生きるとは何か」を問いかけることなんですね。

それを言葉に出せば“ドキュメンタリー”になってしまいますが、出さずに登場人物たちの描写を通して間接的に訴えかけるのが、映画ならでは。

当然、自暴自棄になる人や酒に逃避する人、ドンちゃん騒ぎをする人がいます。苦しまずに自殺できる薬を求めたり、神に祈ったりする集団的行動も見られます。病魔に蝕まれる中、赤子を抱える若い夫婦が心中する悲しい場面も描かれています。

しかし、その中にあって、それまでの日常をたんたんと送り続ける人やウエイターの仕事を忠実にし続ける人、それでも新たな恋に生きようとする女性など描かれています。やはり、こういう描写にこそ、この映画の真髄があると思います。

たとえ死が迫ろうとも、人としての尊厳を保ったまま生きられますか、最後の最後まで人間らしく生き続けることができますか、という作者の問いかけを感じます。

余命XX年、その時あなたは・・・というパターン

実は、感動を希釈して申し訳ありませんが、これは映画では比較的ありふれたテーマです。よくあるパターンが、「病院で不治の病を宣告された」というもの。主人公の前に「余命半年、残された時間をどう生きるか?」という人生の大問題が立ちはだかる。

あるいは、全身の障害が急速に進行して意識は正常だけどもやがては動けなくなってしまうとか(つまり肉体的な死ですね)、逆に若年性の痴呆症が急速に進行していると診断されたとか(これは精神的な死でしょうか)、そういう派生もあります。

で、だいたい共通しているのは、主人公は当初、自暴自棄になって、家族や周囲の人に迷惑をかける。しかし、その葛藤期を乗り越えて、やがては運命を受け入れる。そして残された期間に何かをやり遂げようとしたり(黒沢明監督の『生きる』ですね)、それまで仲たがいしていた家族や友人と和解して絆を取り戻そうとする。こうして、最後には穏やかに死を迎える・・というパターンですね。

仮に「余命3ヶ月」を宣告された主人公が、それを問題とは見なさずにいきなり悟ってしまったとか、逆に問題と受け止めたけれど他人に迷惑をかけるそれまでの人生を反省せずに逝ってしまったとか、そういうパターンでは良い映画にはなりません。

ましてや、余命を宣告されたのに、それまで通りエロ動画ばかり見て、ネットで匿名の中傷を続けて、コンビニ弁当ばかり食って、ダウンタウンの番組を見て笑い転げているうちに死んだ、では、もはや反社会映画の領域です。

ただ、こういうパターンのほうが現実には多い気もしますが・・。

私だと、そもそも死を一般的な意味での死とも思わずに、仮想世界にただログインしているくらいにしか思っていませんから、最初から映画になりませんわな。

まあ、こんな風に解説すると、感動もクソもないですね(笑)。

人類存続の鍵を握っている本格核シェルター

さて、ここから本題です。

記したように、『渚にて』では、「余命・放射能が来るまで」の中で、様々な人が登場します。たしかに、それを通して、重いテーマを描ききっている。

しかし、フィクションに突っ込むのは野暮だと重々承知の上で言いますが、この放射能汚染がやって来るという現象は、決して「不治の病」ではないんですね。

放射能が南下して来るまでに「数か月」もの猶予があるとしたら、私たちだったら現実にどうするでしょうか。おそらく、死に物狂いで地下にシェルターを作り、水や食料を蓄え、生き延びようとするはずです。つまり、対策のし様があるので、映画の登場人物たちの行動は、フィクションにしても、あまり合理的とはいえないわけです。

映画の制作当時に放射能汚染も除去できる空気清浄機があったか否かは知りませんが、今ならあります。工夫すれば、その辺にあるものでも比較的簡単に装置を自作できるようです。たとえば、まず炭の層に外気をくぐらせ、次に水をくぐらせる。で、ぶくぶくと出て来た空気をシェルター内に導き入れるわけです。心配ならこのプロセスを数回繰り返せばいい。原始的なフィルターですが、かなり効果的なはずです。

また、広島や長崎の例で証明されていますが、核兵器の爆心地であっても、地表の汚染物質は雨に洗い流され、最終的に海へと流れていきます。

ただし、大型の核兵器ならどうか、たくさんの数が爆発したらどうか、原発が破壊された場合はどうか、などの想定も付け加えていくと、そう単純ではありません。

ただ、放射性物質が永遠に風に舞っているわけでもないようです。一定期間、地下に逃れた後、出て来た時に表土をはがす措置などを取れば、社会を再開できる可能性はあるわけです。だから、鍵は、三年か、五年か、分かりませんけども、とにかくシェルターで生き延びることです。これが世界再建の鍵を握っています。

いつか暴発するロシアと、これからやって来る核戦争

で、冒頭で言った「コワイ話」へと繋がっていきますが、ロシアなんかは国民用の核シェルターをどんどん作っているんですね。

以下の記事にも記しましたが、私自身は、プーチンの腹は読めている。

2021年、プーチンは核戦争を決断する! 前編・ユダヤへの警告

2021年、プーチンは核戦争を決断する! 後編・欧米との最終決戦

おそらく、2020年代に入ると、いったんデタントになる。つまり「雪解けムード」ですね。西側と中ロが仲良くしている、世界平和が実現しようとしている、素晴らしい雰囲気だ・・という感じ。だが、その時が逆に危ない。核戦争の前触れです。

おそらく、直接的な核攻撃と、その後の放射能汚染、そして「核の冬」の到来により、人類の8、9割は死滅するでしょう。有史以来最大の危機です。

だから、地下のシェルターに逃れて、まず生き残ることが先決。そうすれば、何年か後に地表に這い出て来て、社会や国家を再建することができる。

だが、日本にはそういう長期的視野をもった政治家や官僚はいない。

欧米でも中国でも大金持ちはとっくに動き始めているんですけどねえ・・・。

「霊的知識」と「超科学」に基づいた新たな社会

だから、おこがましい話ですが、私などが「どうすればいいのか?」などと頭を悩ませているわけです。で、一挙に新文明へと飛躍することを考えている。

「当サイトについて」の中で、私の目的として、「4・ディストピアに対抗して新文明(ユートピア・システム)の青写真を構想すること。」と記しています。

平たく言えば「新文明の創造」です。実は、「新世界より」というサイトは、その発表の場として設けた側面があります。ただし、まだ全然進んでいない。

簡単に説明すると、「霊的知識」と「超科学」に基づく文明です。

昔の人々は本能的に知っていましたが、霊的知識こそが人間社会の基盤中の基盤です。だから、仏教やキリスト教などの宗教を国家の礎とした。

来たる新文明では「超宗教」でないといけない。あらゆる宗教を包含し、かつ超越した霊的な真理が求められる。実は、それを追求するために設けたのが「アクエリアス・バイブル」というサイトですが、やはりこちらのほうも作業が進んでいない。

「超科学」のほうは、具体的にはフリーエネルギーや反重力、新化学、原子変換、超通信といったものを指しています。これらのテクノロジーに基づくことで、社会も産業も根底から変革する。たとえば、エネルギー資源や鉱物資源は不要になる。

また、「持続可能なものほど真に経済的である」との考えに基づき、社会や経済のシステムも根底から変える。欲望は否定しないが、減らす。つまり、人口が大幅に減った上、生き残った人々が欲望を縮小するわけだから、私たちは永遠に自然と共生することが可能になります。できるだけ狭い範囲で基本的な自給自足を達成する。「すべての人に余裕ある住宅を与える」ことを基本政策とし、労働も週に三日で十分とする。

いずれ絵に起して説明しますが、独自の「公営住宅基準」が、新たな生活の基本となります。すべての人が50m×50mの土地に住めるようにする。それでいて、現在の基準でいえば家賃は月に1万円くらい。水・エネルギーは個々が自給するシステムに変えます。まったく新しい「インフラ非依存型の文明生活」といえるでしょう。

よって、新世界では、住宅供給維持公社が、人々の暮らしと産業の中心に位置にする形になります。自給自足・持続可能な共同体こそ、社会の基本単位です。

ただし、大企業的かつ大量生産的なシステムも否定しません。穀物、調味料、衣類、日用品、紙製品、素材、資材の生産は、そういうシステムのほうが向いている。

人の欲望や大量生産システムだけでなく、通貨やクーポンの類いも否定しません。薬も、医療も、農薬も否定しない。誤解してはならないのは、これは「革命」で「政府を打倒する」といった話ではないということです。「反テクノロジー」でもなければ「反近代」でもない。過去を否定するのではなく、「超過去」だということです。

まずは団体の発足

現実問題として、こういった事業をスタートするためには推進母体が必要です。たとえば、「アクエリアス協会」とか「何々ファンデーション」などの組織を発足させる必要がある。さらに巨額の資金が必要です。しかも、ちまちました資金ではなく、大富豪クラスからの人生を賭けるつもりの莫大な支援が欲しいところ。こうして資金を得れば、数百人以上が数年間は暮らせる大規模シェルターの建設に着手できる。しかも、生存の確率を高めるために、三つ、四つと各地に作っていきたい。仮に核戦争が来なくとも、次の「新文明創造」ステージへと、そのまま移行すればいいわけです。

しかも、事業の推進にあたって、実務家と構想家を分けたい。私自身は、寄付金集めとか、プールした資金の使途には、一切タッチせず、ひたすら構想にのみ徹したい。逆にそれらをすべて他人任せにしないと、構想に全力を尽くすことができない。

というわけで、その構想の一端を追い追い話していきます。参加してみたい人や将来に保険をかけておきたい人は、気軽に連絡を。むろん、民間だけでなく、国交省や防衛省などで私の話を聞きたい人がいれば、遠慮なく連絡を。まあ、重大なことだからこそ、あえてあまり深刻に考えずにやっていこうと思っています。あと数年の猶予しかないですが・・。

Takaaki Yamada: