金正日の料理人だった藤本健二氏(仮名)については、改めて紹介するまでもありませんが、万一ご存知でない方のために、念のため簡単に説明したいと思います。
1982年のある日、寿司職人だった藤本氏に北朝鮮での単身赴任のオファーが入りました。一年契約で、月給は50万円。北朝鮮系の貿易商社の依頼です。
何かを予感した藤本氏は反対する家族を説き伏せ、平壌へと向かいました。板場は外国人用ホテルの近くに新しく開店される「安山館」(アンサングァン)。藤本氏には専属通訳までが付きました。行ってみると、寿司コーナーはまだなかったが、のちに藤本氏の要求通りの設備が整えられました。そして二ヵ月後、突然、出張の依頼が来る。
藤本氏は数十人分のネタを用意して、用意されたベンツに乗り込みました。そして二時間半ほど走ると、海辺の建物に到着。のちにここが日本海に面する金正日の別荘「元山(ウォンサン)招待所」だと知る。マリンレジャーも楽しめる広大な施設でした。
藤本氏は宴会場に呼ばれ、二十数名の出席者を相手に寿司を握りました。その中に、トロなどのネタを気に入って、次々に「ワンモア」と追加注文する男がいました。藤本氏も翌日に知ることになるのですが、その人こそ金日成の息子の金正日でした。当時、まだ“建国の祖”の金日成時代でしたが、彼はその後継者と目されていました。
以来、藤本氏は頻繁に呼び出されるようになり、すっかり金正日の知己を得ます。帰国後、日本の寿司店で働きますが、北朝鮮への想いは募るばかり。そして、四年後、再びチャンスを得た藤本氏は、今度は三年契約で向かいました。そして金正日と再会し、寿司職人だけではなく、次第にレジャーのお供なども務めるようになります。いつしか側近の一人になり、日本の妻とも離婚して北朝鮮の女性と新たに結婚し、党幹部専用の高級アパートにも入居して、公私にわたり金ファミリーと親しい関係になっていきます。
藤本氏が描写した素顔の独裁者と北朝鮮
前にもチラリと触れましたが、北朝鮮関係の本の中では、この本が群を抜いて面白かった。私は「エイリアンの母星に行って戻ってきた人の体験談」を思い出しました。
私は勝手に藤本氏のことを「北朝鮮と金ファミリーを誰よりも愛した日本人」だと思っています。それくらい、金正日のことが人間的に描かれている。
おそらく、この本の読者の中には、金正日や金ファミリーに対して、強い好奇心だけでなく、好感を持ってしまった人も多いのではないだろうか。
たとえば、初期の頃のエピソードとして、次のような体験が語られています。
金正日が寿司を握った藤本氏に対して謝礼の封筒を投げてよこした。それは足元に落ちた。しかし、藤本氏は拾わなかった。すると、次に会った時に、金正日は冒頭から「先日は失礼なことをした」と謝った。この時からチップを自ら手渡しするようになった。
また、ある時、鴨緑江でジェットスキーで遊んでいると、金正日が「勝負しよう」と言ってきた。藤本氏はつい本気を出して、レースに勝ってしまった。金正日は悔しそうにしつつも、彼が勝ったことを認めた。ただし、また一ヵ月後に勝負を挑んできた。なんと将軍サマのジェットスキーだけ大排気量に変えられていた(笑)。
単に「独裁者」だけは分からない彼の「素顔」が見えてくるではありませんか。
しかも、こういった日常のエピソードの合間に、各国の情報機関なら喉から手が出るほど欲しがるような、軍事関係やファミリーの機密情報などがさりげなく登場する。
時々、北朝鮮の社会矛盾に対してチクリと批判的な言葉はあるものの、基本的には金正日とその周辺の人々に対する「親愛の情」があるんですね。
だから、藤本氏の著作を通して、あの一糸乱れぬ軍事パレードやマスゲームや瀬戸際外交から決して伺い知ることのできない、「人間・金正日」「人間・金ファミリー」「人間・北朝鮮指導部」「人間・北朝鮮人」の実像を知ることができる。
「彼は北のプロパガンダにまんまと利用されているのだ」と言う人もいるようですが、私はそうは思わないし、むしろそこは読む側のリテラシーの問題でしょう。
というわけで、あまりに面白いエピソードが多いので、しかも発売からもう十数年も経つので、また後で数回に分けて紹介させていただきたいと思います。
そして藤本健二氏はまた北朝鮮へ帰っていった
で、藤本さんというと、最近、またこんなニュースがありましね。
キム総書記の元専属料理人の藤本健二さん、北朝鮮で日本料理店を開店
2017年02月16日 韓国・北朝鮮
エラー|NHK NEWS WEB北朝鮮でかつて専属料理人を務め、去年キム・ジョンウン(金正恩)朝鮮労働党委員長と面会した日本人男性が、ピョンヤンに日本料理店を出したことが、関係者への取材でわかりました。男性は、去年の面会の際、キム委員長に店を出したいと打診していて、出店を許可した北朝鮮側の狙いに関心が集まりそうです。
2001年までの13年間、北朝鮮でキム・ジョンイル(金正日)総書記の専属料理人を務めた藤本健二氏は、去年4月、4年ぶりに北朝鮮を訪問し、後継者のキム・ジョンウン朝鮮労働党委員長や妹のキム・ヨジョン(金与正)氏など要人と面会しました。
藤本氏は、その後、去年8月に北朝鮮に渡航したのを最後に、半年余りにわたって消息が伝えられていませんでしたが、先月、ピョンヤン市内のビルに日本料理の店を出したことが、現地で藤本氏と会った日本人男性への取材でわかりました。
面会した男性によりますと、店は10畳ほどの広さで、藤本氏が握るすしを中心とした50ドルから150ドルまでのコースメニューがあり、日本酒なども置かれていたということです。(後略)
藤本さんは内心、北朝鮮が好きで好きでたまらないのでしょう。
噂によると、店はとても繁盛しているようです。もし私も北朝鮮に行く機会があったら、ぜひとも藤本氏の店に立ち寄りたいと思います。
金正日の料理人―間近で見た権力者の素顔
文庫版 金正日の料理人 (扶桑社文庫)
金正日の私生活―知られざる招待所の全貌