みなさん、こんにちわ。
西村京太郎、赤川次郎、逢坂剛、宮部みゆき、石田衣良、朱川湊人、門井慶喜・・といえば、いずれも小説家として大変有名な方々です。
実は、ここに挙げた錚々たる顔ぶれにはある共通点があります。それは「オール讀物推理小説新人賞」を受賞してデビューしたということです。この賞がどれだけ凄いかが分かります。たぶん、ミステリー分野では江戸川乱歩賞に次ぐレベルでしょう。
ちょうど、今から10年前。文芸春秋の『オール讀物』誌上で、第45回(2006年度)の「オール讀物推理小説新人賞」の選考結果が発表されました。
応募総数は559篇、そのうち最終候補作が6篇。実は、その最終候補に残っていたのが私(山田高明)でした。受賞したのは牧村一人(まきむらかずひと)さんです。牧村さんは受賞後から今日に至るまで、小説家としてご活躍中です。
この新人賞は翌年、廃止されてしまいました。
その他にも最終候補までいったケースがあったことは、下の記事でも触れました。
残念ながら、私の文学賞への挑戦は、最終候補までいったのが2回、その手前の二次選考突破までいったのが2回、という結果に終わりました。
告知:Kindle版を購入する必要はありません
さて、本題です。
その時の最終候補作をここで公表したいと思います。といっても、実は2014年11月、Kindle版で電子出版しました。しかも、何十人という物好きな人たちが買ってくれたんですね(笑)。ほんの数千円ですが、印税収入になりました。というわけで、私も一応はプロの“小説家”ということになるのでしょうか。
私はこれまで、ライターとして何千万円もの収入を得てきましたので、一応はプロのフリーランスライターを名乗っています(ただし、収入の99%は紙媒体からのもので、ネット記事は労力の割にほとんど収入にならないのが現実)。しかし、「フリーランスライター」とか「超常分野研究家」といった肩書きは、単純に事実だからいいものの、さすがに数千円の印税を貰った程度では“小説家”を自称するわけにはいきません。
しかも、アマゾンとの仲介をしている版元のWOODYが一年以上前に消滅したので、それ以来、印税は途絶えています。当然、それ以降もKindle版を購入している人はいるはずなので、いったい誰がその支払いを受け取っているのか謎です。アマゾンが勝手に懐に入れているとか・・・(笑・半分疑っているけど)。とりあえず、このサイトで公表する以上、Kindle版は買う必要はありません。それを強調したいわけです。
以下は、そのKindle版に掲載されている小説の要約です。
近未来SF。2030年の東京が舞台。ポセイドン社は999種類もの仮想世界を擁する多人数同時参加型オンラインRPG「エニグマ」を運営し、世界最大の企業として君臨していた。その仮想世界に入り浸りになって自分を見失う人たちの悲喜劇、巨大企業のエゴ、精神科医の目を通して見た社会問題などを描く。
現在、ソニーのVRプレイステーションなどが話題になっていますが、この小説はさらにその先にある「究極のVR」を見据えたものです。
それでは以下、本文です(*400字詰め原稿で約百枚の長文です。なお幾つかのイメージ画像は Perfume「エレクトロ・ワールド」のMVから引用させていただきました)。
(勝手にイメージソング・笑)
第45回オール讀物推理小説新人賞最終候補作
『電脳の楽園』
「そもそも彼女は本当に実在しているんですか?」
林原がそう尋ねると、仁科英雄(にしなひでお)は憤然とした様子を見せた。
「もちろんですよ」
「しかし、しょせんはバーチャル空間での出来事ですよね」
患者は一瞬、戸惑った表情を浮かべたが、白衣を着た精神科医の口調には馬鹿にした様子はなく、あくまで思いやりが滲んでいたため、すぐに気を取り直した。
「たしかにプログラムキャラクターも大勢います。でも、彼女は違う。なぜなら出会いからしてまったくの偶然だからです」
「出会いといっても、あくまで『エニグマ』の中でのことでしょう?」
エニグマとは世界中のユーザーから熱狂的な支持を受けているバーチャル空間での体感ゲームのことである。その中でユーザーは、まるで現実の世界のように、物を見、音を聴き、匂いを嗅ぎ、物に触れ、食物を味わうことができる。
「ええ、そうです。でも彼女は本物です。だいたい人工的に作られたキャラだったら、会ってみればすぐに分かりますよ。目つきや言動なんかがどことなく不自然で…」
「たしかに」
「先生だってエニグマをおやりになるんでしょう」
「ヘビーユーザーではありませんが、冒険系と歴史系なら好きですよ」
「なら、人間と人形の区別はつきますよね?」
「会話のキャッチボールの最中に『この人はプログラムだな』って気づくことはありますね。想定された問答以外は臨機応変じゃないというか、反応がワンパターンというか」
「でしょう」仁科はそれみろと言わんばかりの表情を作った。「麗子はそれとは違うんです。彼女は間違いなくユーザーのひとりです。本物の人間なんです」
「でも、現実社会で会いたがらない?」
「ええ…」患者はたちまち意気消沈した。「実際の自分を知ったら失望するからだと…」
「お話から察するに、彼女はあなたに嫌われることを恐れているのではないでしょうか」
「そうかもしれません。でも、僕は彼女の容姿に惚れたわけじゃないんです。あくまで彼女の誠実さというか、人格面に惹かれたんです。麗子こそ、僕が長年待ち望んでいた理想の女性なんです」
「もしも…もしもですよ、仁科さん。実際の彼女がひどくお年のいった人だったらどうしますか? たとえば、五十代だったとか…」
「彼女は二十代だと自分で言っています」
「女性の自己申告を信じろと?」
「麗子が僕に対して嘘をつくはずはありません」
「では、容姿にあまりに自信がないのでは? 実際はひどく太っているとか」
「それは僕も考えましたし、幾度かそれとなく質問しました。しかし、『修正』は少しだけだと麗子は言っています」
バーチャル空間にログインする際に、ユーザーは自分の姿を思い通りに変えることができる。ゲームの種類によっては動物などの人間以外のキャラクターに変身することもできる。男性の場合、その設定が面倒なため実際の容姿のままログインする人が多いが、逆に女性の場合、念入りに化粧するがごとく外見を偽る人がほとんどだ。だからエニグマの中の女性が美人だからといって、現実社会の容姿がそうとは限らない。
「はあ、『少し』ねえ…」林原は患者を傷つけないよう、皮肉が口調に表れないように苦労した。「ということは、彼女は年齢が二十代で体型もごく普通であるにもかかわらず、『実際の私を知ったら失望するから』という理由で仁科さんに会いたがらない、というわけですか…。たしかに不思議ですな、それは」
「彼女はどうして私に会ってくれないんでしょうか?」
「互いに好感を抱いている?」
「それはもう…」
「だとするなら、ますます不思議ですね。なにしろ現代のカップルの二組に一組はエニグマでの出会いがきっかけですからね――もっとも先週の新聞記事の受け売りですが。ましてや同棲しているとなれば…」
仁科英雄の語るところによると、彼はエニグマの中でこの立花麗子と名乗る女性とすでに数ヶ月も同棲しているのだという。
「でしょう!」仁科は同意を求めるように椅子からぐっと身を乗り出した。「もうそろそろ実際に会ってくれてもいいと思うんですが…」
仁科はその願いが叶わない不満と苛立ちを精神科医に向かって散々ぶつけ始めた。
その間中、林原は同情の色をありありと浮かべ、頷きつづけた。患者の悩みを忍耐強く聴いてやることがこの仕事の基本なのだ。
鬱積した胸のうちを吐き出したおかげで、幾分、気分がスッキリしたのだろう。仁科の表情が少し晴れやかになった。
「きっと彼女も悩んでいるのでしょう」林原は言った。「苛立つ気持ちはもっともだと思いますが、あまりプレッシャーを与えず、もうしばらく様子を見てはどうですか」
「分かりました、先生」
別れ際、林原は手を差し伸べた。患者の医師に対する信頼感を保つため、温かく、かつ自信に満ちた笑みを浮かべつつ、力を込めて握手するのがコツだ。
患者がドアの向こうに消えるのを見届けると、林原はくるりと椅子を九〇度回転させ、パソコンに向き直って仁科英雄の電子カルテに所見を記した。
「次の方どうぞ」
若い女性の患者が入ってきた。二十代後半といったところだろう。初診だ。彼女はいかにも虚ろな目つきで、憔悴しきっていた。
「先生。実は…恋人が忽然と姿を消してしまって…」
「それはエニグマの中での話ですか、それとも現実社会での話ですか?」
♦♢
京成押上線の八広駅から吐き出された数十人の群れの中に、仁科の姿もあった。荒川の土手に寄りそうにようにして建つ高架線路の小さな駅の階段を下りると、ひどく圧迫感を受ける無機的で閑散としたコンクリート橋梁下の空間に出る。辺りには暗く寂れた住宅街の他は何もなく、仁科は毎度のことながら地下に潜ったかのような錯覚を覚えた。疲れきった表情で帰路を急ぐ老若男女たちの人影が、その地下世界へと吸い込まれていく。その様はまるで次々と闇へと消える幽鬼のようだった。
駅の周辺はますます闇に飲み込まれつつあった。付近の街灯で灯っているLED照明は半分以下で、大半が虫食い状態になっている。数匹の蛾が燐粉を撒き散らしながら飛び交うその頼りない灯火がかすかに照らし出すのは、赤や黒の落書きで埋めつくされたコンクリート橋梁と家々の壁だ。放置された粗大ゴミはいつまで経っても撤去されず、住宅の大半は補修されずにますます古ぼけているか、あるいはガラスが割られて半ば叩き壊された空家となっており、街の荒廃に拍車をかけていた。
仁科は役人どもの無能・怠惰・官僚主義の三点セットをひとしきり呪った後、自宅のある方角へと急ぎ足で向かった。帰路の途中、仁科はぶつぶつと独り言を口ずさんでいることにふと気づき、滑稽さを覚え、それから自分がいったい何に対して怒っているのか分からなくなった。スラムを見放している無責任な役人に対してか? あるいは、こんな境遇にいつまでも忍従を強いられている己自身のふがいなさやその呪われた人生に対してか? またはそんな立場へと自分を追いやった社会全体に対してか? あるいはそれとも…と仁科は思い、ひとりの清楚な女性の顔を思い浮かべた。
いつまで経っても煮え切らない態度をとる麗子に対してなのだろうか?
仕事帰りに精神科医に立ち寄って悩みを打ち明けたものの、問題は依然として一向に片付いていないことに仁科は改めて気づかされた。もっとも、林原氏は患者の話に真剣に耳を傾けてくれる誠実な人だ。精神科医として当たり前といえば、そうなのだが。
彼の住む地区は、荒川と旧中川、そして清掃工場に三方を囲まれている。毎度のことながら、自宅に近づくにつれ徐々に悪臭が強まり、憂鬱になる。
否が応でも目に入るのが、モダンな外観をした清掃工場の巨大な煙突の姿だ。黒々とした屋根の上に聳え立つそれは、高光度航空障害灯のキセノンランプを常にフラッシュさせており、時折、薄い煙を吹いている。辺り一帯に漂うのは、生ゴミ臭が半分で、その他が焦げたプラスチックと鉱油の臭いだ。旧中川に近づくとドブ川臭もする。その川の土手は、見た目こそ清楚な芝生だが、淀んだ流れからはドブ臭さが抜けることはない。生暖かな空気と相まって、次第に耐えがたくなる。その悪臭は時代を経るごとに酷くなっていく。
仁科は辺り一帯を睥睨する巨大な煙突が発する白色のフラッシュライトを見て、「あの塔こそがこの街の支配者なのだ」と思った。夜空に煌々と輝くあの光は、支配者の「眼」であり、街全体に染み込んだ臭いは、きっと街とそこに住む人々が「彼」の所有物であるという「刻印」なのだろう。そして、その印は自分にも刻み込まれている。
道路を渡った時、右手を確認した仁科の視界に、煙突とは対照的な物体の姿が飛び込んできた。東京タワーだ。南西の空に輝く展望台は、まるで都市に舞い降りた宇宙船のようだ。芝公園の旧東京タワーはすでに取り壊されて久しい。
墨田区の押上一丁目に新東京タワーの建設が決まって以来、周辺の地価は一気に上昇し、今ではすっかり再開発も終わっているが、そこからわずか二キロあまりしか離れていないにもかかわらず、仁科のいる地区は逆に落ちぶれる一方だった。同じ東京の、同じ区内の、この強烈なコントラストをいったいどう受け止めればいいのだろう。
仁科はふと中学生の頃を思い起こした。当時、テレビで盛んに「格差社会」とか「勝ち組・負け組」ということが言われていた。そんな言葉を耳にする度に、リストラから数年経っても立ち直れないでいた父親は、まるで条件反射のように「うちは負け組だぞ」と自嘲するのだった。その時以来、英雄は漠然と「自分はずっと負け組なのだろうか」と恐怖してきた。恐れるものは向こうからやってくる。それは現実になった。
バブル経済が崩壊し始めた一九九〇年、仁科英雄はこの世に生を受けた。彼の世代は、成人して以降、財政難で福祉政策が次第に破綻し、物価のウナギ昇りをリアルで目撃してきた世代だった。格差はますます広がった。陽の当たるところにはますます光が射し、影の部分ではますます闇が深まった。光と闇。富の再配分機能は半ば麻痺し、社会のモラルは年々酷くなり、両者は階級として固定化し、互いに溝を作っている。そして、今や彼は齢四十。自分が闇に属することを自他共に認めているのだった。
「そう、ここは闇だ」
仁科は声に出して言った。
時に二〇三〇年。彼はスラム化した一角にある自宅マンションにたどり着いた。
彼の部屋は築四十五年の五階建マンションの一階角部屋だ。建物の壁は剥げ落ち、鉄筋が所々でむき出しになっている。壁という壁は殴り書きのような落書きでいっぱいだ。一階の小さな駐車場には、かつて住民が捨てていったと思われる自動車やバイクが無残な姿で野ざらしになっている。
仁科が建物の前で突っ立っていると、空洞のようにぽっかりと開いた廃車の錆だらけの窓から、灰色の野良猫が飛び出し、悠然と彼の前を横切った。ゴミ出し場では、山積みになったゴミ袋がガサガサと音を立てている。見ると、ミミズのように太いドブネズミの尻尾が袋の破けたところから飛び出し、にょろにょろと揺れていた。突然、二階の窓から火が点いたように赤ん坊が泣き始め、女の怒鳴り声がした。毎度のことで、騒音に慣れきった住人たちは、シンクの食器が重なり合う音や排水が動脈硬化した配管を擦る音といった生活音と同じだとしか思っていない。
仁科は自宅に戻った。部屋は1DK――六畳の寝室と四・五畳のダイニングキッチン――だ。信じがたいことだが、電気設備の端末が更新されないせいで、この建物では未だに蛍光灯の使用を強いられている。LED照明か、面発光するEL照明が当たり前のご時世なのに、である。この薄暗い蛍光灯の光がまたいっそう彼の気分を滅入らせた。
かび臭い家に帰宅しても、何もすることがなかった。たったひとつを除いては。
汚れた、古ぼけた部屋にいると、孤独感で気も狂わんばかりになった。空気がやけに淀んでいる気がした。寂しさで胸が締め付けられ、一刻も早く彼女に会わなければという思いが募った。それはほとんど渇望だった。大げさではなく、今や彼にとって立花麗子は思い通りにならない人生という闇に射した唯一の希望の光だった。
仁科は顔を洗い、いささか乱暴にタオルで拭うと、冷蔵庫にある清涼飲料水を一気に飲み干した。そして寝室に鎮座まします場違いな物体を見下ろした。
雑然とした六畳部屋の真ん中にでんと居座っているのが、およそその場に似つかわしくないメタリックな物体だった。事実、それはハイテクの粋を集めたスーパーコンピュータだった。一見したところタイヤのない独り乗りの車――そんなものがあるとして――だった。メタルカラーで塗装された滑らかな卵形のボディが、操作パネルの付いた重厚な黒革のリクライニングシートを包み込む形になっている。
仁科は、高級感あふれるそのボディをいとおしそうに撫でた。これがなかったらとっくの昔に自殺していたかもしれないと彼は本気で信じている。なにしろ、このどうしようもない惨めさから自分を救い出してくれる唯一の存在が、このマシンなのだ。たしかに値段は張った。無理なローンを組んで購入したせいで、今の生活はひどく苦しい。だが、その投資に見合うだけの果実は十分すぎるほどにあった。なによりも彼女といつも一緒にいることができるのだ。それを考えると、高級乗用車一台分に匹敵する出費くらい、どうということはないではないか。
仁科の手がぴかぴかのボディを滑った。その瞳がまるで中毒者のように爛々と輝いている。事実、彼自身、我ながら中毒だと自覚している。その手がネームプレートに到達したところで止まった。
「エニグマ2030」と銘打たれていた。
♦♢
仁科はエニグマに乗り込んだ。シートに腰かけ、操作パネルに触れてマシンの電源を入れた。それから枕部分のすぐ上にアームで固定されているヘッドセットを手にとり、アームを伸ばす形でそれを頭に被った。単車のヘルメットと違って両眼の視野まですっぽりと覆われ、たちまち視界が真っ暗になった。顎をベルトで固定する。それから手探りで肘掛のボタンを押すと、首の両側のところから内側に湾曲したアームが孤を描くように生えてきて、幅の広い首輪を作って止まった。
数回、深呼吸する。「ビー」という小さな電子音だけが聴こえる。
「セッティングは完了しました」耳元で女性の声がした。「ログインしますか?」
右の肘掛には「○×ボタン」がある。イエスを示す「○」を押した。
「それではログインします」
その声の数秒後、「ビー」という電子音のボリュームが急激に上り、視界でパチパチと光が明滅した。ヘッドセットの内側にある数百万個の素子ひとつひとつが、一秒間に数百万回という速度で脳に電磁波ビームを送り込んでいるのだ。ビーム同士が交差した部分で活動電位が生じるため、三次元的に脳内を刺激することができる。
現実に視界は真っ暗でも、視覚野を刺激すれば何かを見ていると脳は判断し、また味覚野を刺激すれば何かを食べていると脳は判断する。スーパーコンピュータが脳に送り込む情報次第で、脳にどのような錯覚をも起こさせることができる。
しかも、このマシンはネットワークを通して赤道直下にあるホストコンピュータと連結しており、そこが提供するサイバースペース上のバーチャル世界で、世界中のユーザーと「脳内体験」を共有することができるのだ。
脳にエニグマからのパルス干渉を受け始めて十秒も経たないうちに、仁科は深い井戸の底に沈んでいくような身体感覚に捕らわれた。ちょうど夢と現実の狭間を漂っているような気分で、意識はるものの、記憶がひどく曖昧な状態だった。やがて視界に乳白色の靄が現れ、浮遊しているような感覚を脱して、身体が徐々に重力の存在を感じ始めた。視界は徐々に輪郭をまとい、気づいた時には、白大理石のホールの中に直立していた。
約十メートル先に黒い鏡のような物体があった。そこに向かって「歩いて」いった。近づくにつれ、視力や聴力が矯正され、光と音がクリアになり、ぎこちない動きがスムーズに変わった。マシンが自動調節しているのだ。ユーザーによって脳に固体差があるし、同じユーザーでもヘッドセットを装着する度に常にズレが生じる。わずかな距離を「歩く」間に、マシンがその差を読み取り、自動的に調節し、あるいは矯正するのだ。
黒い鏡――ナビゲートと呼ばれる――の前に到達した時には、身体の調子はすっかり整っていた。ヘッドセットの素子が、脳内の視覚野・聴覚野・嗅覚野・味覚野・体性感覚野の五つの感覚野に完全な擬似信号を送り込むことに成功しているのだ。同時に、首輪状のインターセプターが、脳から脊髄を下る運動神経の命令を遮断し、その命令を拾って電気信号に変換してマシンに送り、また逆にマシンから送り返すという動作を超高速で行っている。
これにより、ユーザーが「歩く」という動作を意識すると、現実世界ではなしにバーチャル世界で「歩く」ことが可能となるのだ。
初期型のエニグマには大いに問題があったものの、最新型では以上があまり完璧に行われるため、ユーザーの脳はエニグマの中の世界を完全に「現実」と認識する。ホールの中にいる(と脳は思っている)仁科にとって、もはや「こちら」が現実で、現実世界のほうが何か遠い世界に感じられるのだ。ちょうどリアルな夢を見ている最中のように。
ナビゲートのピカピカした表面に、様々な光の文字が浮かび上がった。ナビゲートはバーチャル世界である「ユニヴァース」へと繋がる扉であり、その案内板なのだ。ユニヴァースの種類は九九九もあり、それぞれ滞在料金が細かく設定されている。
仁科はその案内の文字を一切無視して「ユニヴァース572」と叫んだ。その声に反応して、ナビゲートの表面に「ユニヴァース572『マイホーム』」の文字が浮かび、それが点滅し始めた。本来はユニヴァースを選択した後、ナビゲートが鏡と化してユーザーの容姿を映し出し、好みの容姿に修正するプロセスがあるのだが、仁科は面倒なそれをユーザー設定で省略している。
数秒後、「チン」という音がして、ナビゲートが左右に開いた。
いよいよネットワークの世界へ足を踏み入れる時だ。毎度のことながらエキサイティングな瞬間である。仁科の眼前に「世界」が飛び込んできた。
♦♢
その夜は涼しかった。道路の両側には広々とした敷地をもつ邸宅が並んでいた。どの家も数百平米の面積をもち、豪奢で個性的であり、プールやテニスコートを備え、濃いグリーンの庭先に永遠に枯れることのない美しい草花を咲き誇らせていた。
数分ほど歩くうち、仁科は一軒の家の前にたどり着いた。現代建築と和風の装いが見事にマッチした豪邸だ。一階の居間には暖かなオレンジの明かりが灯っていた。門扉の類もないので、仁科はそのまま敷地内の芝生に足を踏み入れた。微風が木の葉を揺らし、靴の下の芝がさくさくと音を立てた。すべてが完璧だった。
「ただいま」
家の奥からパタパタとスリッパを鳴らす音が近づいて、ひとりの清楚な女性が姿を現した。彼女はとびっきりの笑みを浮かべて言った。
「お帰りなさい」
仁科はえもいわれぬ幸福を感じた。ふたりは軽く抱擁を交わした。
この邸宅は、立花麗子と出会ってしばらくしてから、ふたりで相談して「建てた」ものだ。ユニヴァース「マイホーム」では、誰もが一定の敷地に望むままの家を建てることができる。内装も、庭も思いのままである。しかもアラジンの魔法のランプのごとく一瞬にして出来上がる。すべてはプログラムなので、費用もゼロ。かかるのは滞在料金だけだ。
「今日はいつもより遅かったわね」
「うん、ちょっと残業があってね」
「あら大変」麗子の立ち振る舞いは、まるで小鳥が舞うようだった。「英雄さん、お腹減っている?」
「もうペコペコ」仁科は笑った。
邸宅の中は贅沢な造りだった。玄関には大理石が敷き詰められ、居間にはシャンデリアがぶら下がっていた。家具や調度品は豪華なイタリア風のもので統一されている。
ふたりでテーブルにつき、カタログを眺めた。仁科は麗子と一緒に夕食のメニューを考えるこの瞬間が好きだった。思わず幸せを噛みしめる。カタログには古今東西のありとあらゆる料理の写真が並んでいる。どれも生唾を飲みたくなるほど豪勢だ。
「今日はあなたが選ぶ番よ」
「そうか…じゃあ、神戸牛のステーキに、にぎり寿司のセット」
「変な組み合わせね」麗子が吹き出した。「入力するわ」
いつもふたりで同じ夕食にありつくのがルールだ。麗子がテーブルに埋め込まれているパネルに料理の番号を入力した。十数秒後、注文した料理が湯気を立ててテーブルの上に現れた。聞くところによると、完璧な料理を再現するために、一皿ごとに数百名ものプログラマーによる長期間の労力が注ぎ込まれているという。
「うん、うまい!」
程よく焼けた脂の甘みと肉汁のジューシーさに陶然として、仁科はフォークに刺した肉片をほおばった。舌の細胞には甘味・うま味・脂肪などを感じるセンサーがあり、電気信号に変換されたその情報は神経細胞を通して脳の味覚野へと伝達される。エニグマはその感覚器官のプロセスを省略し、ヘッドセットの素子から送る信号によって直接、肉を食べた際の反応を脳の味覚野内に再現する。その信号の情報は、一流シェフの作った実際の料理を食べた被験者の脳内をモニターすることで得られたものであるという。
こういった原理はユーザーならば誰もが既知のことであるが、理屈では理解していても実際に「味わって」みると、それを現実の体験と区別することは難しかった。仁科は食の快楽にもだえながら、頭に計測装置をつけた空腹の被験者が特上の神戸牛のステーキを食べさせられている滑稽な様子を想像してみて少し笑った。
「なに笑っているの?」
「いや、なんというか、あまりにも…」
幸せすぎて、という言葉が続かなかった。そんな仁科を見て麗子が微笑んだ。
「あー、私、ステーキだけでお腹いっぱいになっちゃった。お寿司は全部食べられそうにないわ」
ユニヴァース「マイホーム」では、「食べた」量に応じて自動的にエニグマが満腹中枢も刺激するようになっている。仁科もひどい空腹が徐々に和らげられるのを感じた。満腹中枢は本来、血液中の糖分濃度を感知することで働く機能だから、脳に誤作動を起こさせていることになる。実際、エニグマを過激なダイエットに利用することを思いついたある女性が餓死するという事件が起こったことがあり、以来、ユーザーの身体の健康状態をモニターする機能が大幅に強化され、危険を察知すれば自動停止する仕組みになっている。
仁科は麗子の顔を見つめた。立花麗子――あくまでハンドル名である。実は本名は未だに分からない。都内の花屋に勤めているという。彼女と出会ったのは冒険系のユニヴァース「トレジャーハント」だった。中世ヨーロッパ風のファンタジー世界で、ユーザーが仲間を見つけて互いに助け合いながら秘宝を探すのが趣旨だ。仲間集めによく利用される酒場で、彼女のほうから「チームを組みませんか?」と話しかけてきた。ふたりで剣士の格好をし、各地を巡って様々なアイテムを入手し、謎や秘密を解きながら、モンスターや敵兵と戦い、世界を暗黒から救う秘宝を探し求めた。この時に彼女と過ごした時間は、仁科にとって忘れられないものとなった。それは麗子にとっても同じだったらしい。以来、様々なユニヴァースで一緒に時を過ごすようになり、「マイホーム」での同棲生活に落ち着いた。
仁科は最初、大田区の部品メーカーに勤めるエンジニアだと自己紹介した。しかし、本当は同じ大田区でも、NC工作機械を使って精密部品を削るといった高い技術の仕事をしているわけではなく、単なる鍍金工場の工員だった。普段やっていることといえば、たいしたスキルを要しない単純作業ばかりだ。ほとんどの女性が彼の仕事を聞くだけで顔を背けるので、つい嘘を言ってしまったのだ。だが、麗子と親しくなるにつれ、彼女を偽っていることに耐え切れなくなった。そこで思い切って本当のことを打ち明けた。仕事の内容も、給料の中身も、住んでいる場所も、何もかも。
麗子はすべてを受け入れてくれた。仁科は生まれて初めて人間らしい扱いを受けたと思った。彼女は彼がそれまで遭遇したどんな女性とも違った。
ふたりでテーブルの真ん中に皿を集め、パネル操作で「消去」した。プログラムだから一瞬にして虚空に消すことができる。それから、テーブルの上で手を繋いだ。互いにじっと見つめ合った。慈しみを込めた目で、麗子が微笑んだ。仁科は彼女を愛していた。
♦♢
「いいかげん、外で会わないか」
「駄目よ、それは」麗子はうつむいた。だが、口調は頑としていた。「きっとあなたは私に失望するわ」
「失望なんかするもんか」
「私はこのままで十分に幸せよ。あなたが真実を知れば、この幸せは壊れてしまうわ。私は今の幸せを壊したくないのよ」
「こんな世界、しょせんは偽物じゃないか。僕たちは実際にはマシンの中で眠っているんだ。コンピュータが作り出す擬似世界で意識だけの交流をしているにすぎない」
「私にとっては現実よ」
ソファで並んでくつろいでいる時に、また昨今繰り返している言い争いになってしまった。麗子の顔をじっと見つめているうち、仁科はふと例の疑念に囚われた。目の前にいる彼女は若くて美しい。だが、現実の彼女はこれとは似ても似つかぬ容姿をしているのだろうか、と。もしもナビゲートの前で鏡を見つめている彼女が太った醜悪な老婆だったら…。そう考えるとぞっとした。たしかに今の幸せを壊したくなければ、このままにしておくのがいいのかもしれない…。
仁科は心の中で頭を激しく振った。いいや、自分は二十代だと彼女は言っているじゃないか。彼女の言葉を信じられないというのか? もういいかげん現実社会で会うべき時が来たのだ。真実を知ることを恐れていては、これ以上何も進展しないのだ。
「もしかして経済力が不安なのかい? 僕が甲斐性なしだから?」
「そうじゃないの」
「たしかに、僕はもう四十になっちまった。転職は難しいかもしれない。けど君が僕のところに来てくれるのなら、きっと今より給料の高い仕事を見つけるよ。約束する」
「ありがとう、英雄さん。その気持ちは嬉しいわ。でも…駄目なの」
「なんでだ?」仁科は思わず声を荒げた。
麗子は悲しそうに下を向いた。
気まずい沈黙がその場を支配した。
「ごめん…」仁科は謝った。彼女を悲しませたことで心が苦しくなった。「でも分かってくれ。君は僕の理想の女性なんだ。やっとめぐり合えたんだ。君みたいな女性をずっと探し求めていたんだ。僕は君のことを…」
仁科は麗子の手を取った。温かい感触が伝わった。彼女の手の甲にキスをした。それから彼女の頬を優しく撫でた。彼女の瞳が潤み、頬がバラ色に染まった。
仁科はチラリと腕時計を見た。いや正確にいえば腕時計型のコントローラーだ。ログインしてからの経過時間や現実世界での時間を知ることができる。
仁科の手が麗子の首筋を撫でた。柔らかですべすべした感触だ。彼女が恥ずかしそうに目を伏せた。求める時のサインだ。いつもながら、これが非現実とは信じがたい。それくらいよく造られている。彼女を撫でた瞬間、手の触感を司る脳の体性感覚野が刺激され、一方の彼女は撫でられた部分に当たる体性感覚野が刺激されるというが、そんな原理を微塵も感じさせないほどすべてがナチュラルに出来ている。
それだけではない。このユニヴァース「マイホーム」では、「快楽系」と同様、セックス体験が可能だ。なんでも何週間も性交を禁じられた男女の被験者に脳内をモニターする装置を付け、激しいセックスをさせてデータを取ったという。その強烈な快感が脳の中で再現されるのだ。麗子の頬がさらに赤くなった。これもまた彼女の脳内の興奮度合いをエニグマが察知し、それを視覚としてエニグマが再現しているのだろう。
仁科は麗子をそのままソファに押し倒した。
♦♢
エニグマ――それはマシンの名前でもあり、システムの名前でもある。世界中に数千万台も普及している個々のマシンを統括し、バーチャル空間を演出しているのが、赤道直下にあるホストコンピュータだ。そして、それを運営しているのが、年間売上高が一兆ドルを越す世界最大の企業ポセイドン社である。
この企業帝国の勃興は二一世紀におけるビデオゲームの開発の歴史そのものであり、ベンチャーたちの飽くなき挑戦の歴史でもあった。
二一世紀の最初の十年には、ビデオゲームは立体的でよりリアルな画像を駆使するものへと進化を遂げていた。とはいえ、プレイヤーとゲームの世界はあくまで隔絶され、外の世界に位置した前者が画面の中に働きかけるものにすぎなかった。
しかし、バーチャル・リアリティの技術は日進月歩であり、新型のヘッドマウント・ディスプレイを頭部に装着することにより、プレイヤーの視覚と聴覚が3Dゲームの世界に違和感なく入り込めるようになるのにさして時間はかからなかった。
この時期にはメーカーによって様々な試行錯誤が行われた。単にゴーグルとヘッドホンを装着するだけでなく、ちょっとリッチな消費者なら「体感チェア」を組み合わせるという選択肢も生まれた。これはプレイヤーがより皮膚感覚でゲームの世界を「体験」できるよう、状況に応じて振動と冷熱、さらには香りまでも発生させることのできるチェアである。たとえば、画面の中の主人公が花園に入ったらプレイヤーの周りに花の香りを生じさせ、敵との戦いの時には剣を受け止める度に身体を揺らし、暗く冷たい場所に来た時や恐怖を盛り上げる必要のある時には寒気を催させる、という具合である。
また、人間の動きを立体的にモニターして3D映像を制作するモーション・キャプチャーの技術からヒントをえて、プレイヤーが着る「スーツ」も作られた。これを身に付けることにより、プレイヤーの実際の動き通りにゲームの中の人物を動かすことも可能となった。
さらに、このスーツに振動パットを組み合わせたり、プレイヤーの実声にゲームの中のキャラが反応する装置を追加したりすることで、ユーザーはますますバーチャルな世界へと近づいた。
だが、人間の欲求は際限がなく、ビデオゲームの進歩は留まるところを知らなかった。
やがて開発者たちは「感覚の一部だけでなく、五感のすべてがバーチャル世界に入ることはできないだろうか」と考え、模索し始めた。この頃には、開発を先導していたのは生まれた時にはすでにビデオゲームが存在していたという世代であり、彼らはバーチャルな世界というものに本能的に慣れ親しんでいた。
ビデオゲームの行き着く先はどこなのか? 自分たちは何を目指しているのか? そもそも外界とは何であり、バーチャルとは何であるのか?
ほとんど哲学的課題と取り組み始めた彼らが下した結論は、「結局、ヒトの脳の世界に入り込むしかない」というものであった。ヒトは感覚器を使って周囲の世界の情報を集めるが、それが脳の中で再構築されることによって、はじめて外界を認識することが可能となる。つまり、人間が直接的に外界を把握しているというのは錯覚であり、実際は間接的に把握しているに過ぎないのである。たとえば、外界を「見る」という行為であるが、実際には両眼というカメラから入力された情報が脳の視覚野において、「絵画的手がかり」と「両眼視差」という二つの手法によって立体に作り直されることをいう。
つまり、感覚器官というものは単なるセンサーであり情報の入力装置に過ぎず、本当に見たり聴いたり嗅いだりしている主体はヒトの脳の部分なのだ。
開発者たちはまったく未知の領域に踏み込んだ。折しも、この頃、人類の科学は人体における最後の聖域「脳」に挑んでいた。いったい脳とは何なのか。脳は外の世界の情報を受信し、また思考を外に発信できる器官である。脳は世界を感知し、世界を解釈し、世界に働きかける。単に情報を処理するだけでなく、時空に制限されずに非物質でバーチャルなものごとを取り扱うという創造的行為ができる。脳神経学と技術の発達に後押しされた科学者たちは、このような神秘の容器の内部を知ろうと躍起になっていた。
この頃、CTやMRIといった人体内部を画像化する技術が日常化しており、それが脳にも及び始めていた。脳の活動部位を計測し、また可視化する手段として、NIRS(近赤外分光法)、fMRI(機能的核磁気共鳴画像)、MEG(脳磁界計測法)、PET(電子放射断層撮影法)といった方法が開発されていた。ゲームの開発者たちは、脳科学者たちに混じって、このような技術をますます洗練させ、凄まじい情報処理のスピードをもつ脳の活動をリアルタイムでモニターする装置を自ら開発し、そしてその装置を使って徹底的に脳を観察・研究し始めた。
たとえば、最高級の牛肉や子羊の肉を食べた時の被験者の脳の反応はどのようなものであるか。一口に「肉」といっても、その種類、つまりたんぱく質の分子の違いにより、舌の味蕾細胞は異なった信号を脳へと送るはずである。実際、脳は肉の種類を判別する。彼らはその微妙な違いにいたるまで正確にモニターし、データ化した。
こうして、ありとあらゆる方法で被験者の視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚の五感を刺激し、脳内の様子を探った。だが、その作業は膨大かつ煩雑だった。たとえば、皮膚の表面には触覚・痛覚・圧覚・温度覚などのセンサーが密集しているが、どのセンサーが脳の体性感覚野のどの部位に該当するかはマイクロ単位の計測が必要であり、しかも手や唇のセンサーには脳皮質がより広く割り当てられているなど一様ではなかった。
だが、こういった高度な計測技術と地道なデータ収集作業が、逆に脳内の特定部位に干渉する基本技術を確立するうえで大いに役立ったことも事実である。
脳の細胞の中でネットワークを構成し、情報処理を担っているのが神経細胞ニューロンである。大脳皮質だけで百億以上あると言われている。このニューロンが複雑に結合して脳神経系を構成している。開発者たちはある仮説を立てていた。ニューロンには活動電位が発生した状態とそうでない状態、つまり、興奮している状態としていない状態の二種類しかない。これはコンピュータの0と1に相当する。ならば、デジタルデータと相性がいいのではないか。そして、モニターし、記録した脳内の反応データを、今度は逆に正確に送り返すことのできる装置があれば、同じ反応を再現できるのではないか――。
こうして、彼らは脳に信号を送り込むための特殊なヘッドセットを開発した。その内側は数百万個の素子でびっしりと埋めつくされており、ひとつひとつが頭蓋骨を透過するある種の周波数をもった電磁波ビームを放射する。そのビーム同士が交差した部分で微弱な電流が生じる原理だが、スーパーコンピュータを駆使することにより、脳内の狙ったポイントへのビーム放射を凄まじい計算速度で行うことに成功した。開発者たちはこの装置を使って感覚器官から脳内へ送られる信号を再現する実験を繰り返した。
無数の失敗を重ねた末、ある日、ついにリンゴの味のデータを味覚野へと送り込まれていた被験者が「今たしかに甘い味がした」と言った。それはある意味で歴史的な瞬間であった。被験者の脳は、史上初めてリンゴを食べることなくリンゴを味わうことに成功したのである。この瞬間、科学における新しい地平線が開けた。
それ以降、実験の成功と新たな発見と開発が毎日のように続いた。たとえば、「人工感情」の創出に成功した。感情の元になる反応のことを「情動」というが、司っているのが大脳の内側の大脳辺縁系にある左右一対の扁桃体だった。ここに干渉することで被験者を興奮させたり、悲しませたり、喜ばせたりすることも可能になった。また、運動神経に指令を出している一次運動野の情報をモニターし、その情報でコンピュータ上のキャラを動かすことのできる技術や、首にある脊髄の神経情報を送受信する技術も開発された。
♦♢
このような熾烈な開発競争で一歩先んじたのが、日本のベンチャー企業だったポセイドン社である。彼らは凄まじい情熱を傾けた末、ついに究極のゲーム機「エニグマ」を世に送り出した。それはマッサージチェアに理容用のパーマネントの機械を付けたような外観で、現在のコアなユーザーからすると苦笑いしたくなるような代物だった。
この初期型では、ユーザーが体感することのできるバーチャル世界は極めて粗雑で色彩に乏しく、お菓子類は何を食べても砂糖の味だけで、動きがもどかしくひどくフラストレーションが溜まった。製品によっては、動いている物が見えない、あるいは逆に動いている物しか見えないといった苦情も殺到し、使用後に気分が悪い、吐き気を催すといった感想も相次いだ。ポ社は未だに認めたがらないが、はっきりいえば欠陥商品に近かったし、市場ではすぐにキワモノ扱いされた。しかし、それにもかかわらず、エニグマはその後の大化けを予感させる革命的な製品特有の雰囲気をまとっていた。
ポ社は儲けた分にさらに投資家から資金を募り、銀行から借金を重ねて、そのすべてをマシンとホストコンピュータの開発に投入した。その結果、エニグマは瞬く間に質的向上を遂げた。やがてポ社は、快楽系・刺激系で売上げを伸ばし、徐々にカルト的な人気を博した。そして、それが大衆的人気へと変わる頃には、ポ社は大企業へと変貌を遂げていたのである。
今では、ポ社はインドネシアのさる島々を買い取り、そこをインテリジェント自由都市と称して同国からも自治権を得ている企業帝国兼擬似国家である。
彼らは、生活の役に立つ様々な電化製品を製造しているわけでも、石油や天然ガスなどの天然資源を採掘して供給しているわけでもない。経済の血液たる金融や証券の取引を担っているわけでも、航空機・船舶・鉄道を動かして交通や物流を担っているわけでもない。食品、医薬品、流通、自動車、化学、建設といった人々が生活していく上で欠かせない経済活動とは何の関わりもない企業なのだ。
ポ社が収益の源としているのは、一般ユーザーに対する「仮想現実の提供」である。たしかに、ポ社はマシンのメーカーとしてハイテク産業にも貢献している。だが、ユーザーが仮想現実を求めてホストコンピュータにアクセスする料金収入に比べれば、その売上げははるかに少ない。つまり、世界最大の企業たる存在がレジャーやエンターテイメント産業に属しているのだ。このように、現実のダイナミックな世界経済の動きとはさして関わりのない企業が、今や世界最大の売上高を誇っている。二〇世紀の人々なら耳を疑っただろうが、それがまがうことなき現代の真実なのだ。
二〇三〇年現在の世界人口は八一億人。そのうち、エニグマのユーザーは五億人以上とも言われる。ひとりが年間に支払うサービス料金は平均で二〇万円ほどである。
ヘビーユーザーともなれば一ヶ月に十万円以上も支出するという。バーチャル空間へのアクセスを可能とするマシン「エニグマ」は、累計で一億台以上の販売実績をもつ。時代を経るごとの性能アップに伴って、今ではすっかり高級車並みの値段になってしまった。最新型は今年発売されたばかりの「2030」だ。
むろん、ユーザーのみんながみんなマシンを購入しているわけではない。大半のユーザーはマシンが設置された店舗――静かなゲームセンターとも呼ばれる――でエニグマを楽しむ。つまり、レンタル利用だ。「リラクゼーション・ルーム」と呼ばれる店舗の半数はポセイドン社の直営店か系列店だが、残りは他の事業者のものである。エステ店や複合商業施設、ゲームセンターなどはエニグマを設置しているところが少なくない。プライベートで所有しているのは金持ちか法人、そしてヘビーユーザーだ。
彼らの目当ては「ユニヴァース」と呼ばれるバーチャル空間である。それは九九九種類もあり、不人気なものは常に更新されていく。もっとも多いのは「街系」と呼ばれるもので、数百もある。現代の観光地や名所がそっくり再現されたものから、男女の出会いや刺激また逆に安らぎを提供するものまで様々な種類がある。
各国のローカルなニーズにも対応できるように、主要国家や文明ごとの過去の町並みも再現されている。たとえば、日本だけでも、縄文・古墳・奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸前期と後期・明治・大正・昭和・平成・現代と十四種類もある。
人気があるのは五賢帝時代のローマや玄宗皇帝期の長安、アッバース朝全盛期のバクダッドやヴィクトリア時代のロンドンなどだ。こういった過去の国際都市には、世界中から往時の繁栄を肌でしのびたいと希望するユーザーたちが殺到している。このように、古代・中世・近世の町並みを再現したものは「歴史街系」と言われる。
そもそも純粋に「歴史系」と称することができるのは、恐竜時代――まさに恐竜たちがのし歩いている――や原始時代を再現したものくらいで、大半は他の要素との組み合わせで演出されている。たとえば人気があるのが「歴史快楽系」や「歴史冒険系」だ。
前者はユーザーが皇帝や国王となって過ぎ放題に権力を振るうことができるものである。人気の高いユニヴァース名を挙げると、「ファラオ」「バビロン」「始皇帝」「フビライハン」「永楽帝」「アラビアン・ナイト」「マハラジャ」「ツァーリ」「ルイ十四世」などがある。このようなユニヴァースでは、「街系」と違ってユーザー以外の登場人物はすべてプログラムであり、権力者となったユーザーが大勢の配下を率いて豪華な晩餐会を開いたり、宮殿を散策したり、領地で狩猟をしたり、他国と戦争したり、側近を気ままに処刑したりすることができる。
一方、後者はユーザーが中世ヨーロッパの騎士や剣士に変身して悪と戦い、謎を解いて神秘の宝石を手に入れるなどの、いわゆるロールプレイングゲーム風のものや、あるいは一介の兵士からスタートして武勲を重ね、収入や領地を増やして領主へと上り詰めていく出世物語風のものが多い。
「三国志」や「水滸伝」も再現されているし、欧米人ユーザーには「アレクサンドロス」や「パイレーツ」といったユニヴァースの人気が高い。剣と魔法とドラゴンが登場する中世ヨーロッパ風ファンタジーは、ポ社の稼ぎ頭のひとつでもある。
変わったところでは「歴史無法系」というものがあり、刺激を求めるユーザーのニーズに応えている。これは西部開拓時代や殺伐とした戦国時代の日本の街などが舞台で、要は切捨てごめんの世界である。
ほとんどのユニヴァースでは、ユーザーが斬られたり撃たれたりしても一定以上の激痛は生じないし、血が流れないようにプログラムされているが、この「無法系」では「本物の痛み」が再現されているものもある。
いったいどうやってデータを収集したのか謎だが、巷間では、ポ社の開発担当者が貧しく人権意識の低い発展途上国の政府高官に金を渡して、これから処刑されようとしている囚人の頭にデータ受信機をはめ、銃弾を食らった時の激痛のデータを入手したのだと噂されているが、真偽のほどは不明だ。
こういった「無法系」は、要はユーザーがタブー・アングラ・犯罪などの暗黒の世界に浸るものであるが、あくまで「バーチャル世界」においてユーザーが「脳内」で行っていることなので法には抵触しない。ただ、以前、あるユニヴァースでユーザーがプログラムの少女をレイプしたうえ殺害できる場面のあることが大きな社会問題となり、以来、ポ社もこの分野では慎重になっている。
だが、この「無法系」ユニヴァースが一向に無くならないところを見ると、人気のほどがうかがえるといものだ。ちなみにこの分野で一番人気の高いのが、ギャング団のボスとして悪の限りを尽くせる「カポネ」である。
むろん、歴史系とダブらない純粋な「戦闘系」「冒険系」「快楽系」もあり、人気を博している。
「戦闘系」ではシューティングものが多い。たとえばユーザーが戦闘機――それこそ複葉機・第二次大戦中のレシプロ機・ジェット機・近未来ハイテク機・宇宙戦闘機となんでもありだ――に乗り込んでドッグファイトを行うものだ。パイロットに変身したユーザーは空母からの発艦や、戦艦に向けての急降下爆撃や雷撃を体験することもできる。それどころか、宇宙空間を舞台にして戦うこともできる。さらに、戦車戦や艦隊戦を体験することもできる。艦隊を率いて天をも焦がす壮大な砲撃戦を指揮する気分は、一度やったら病み付きになるとの評判だ。むろん、戦闘系には格闘技や白兵戦も含まれており、武術を駆使しての戦いや刀や槍での戦い、またサバイバルゲームなども人気のユニヴァースだ。
「冒険系」では中世ヨーロッパを舞台にしたロールプレイングゲームだけでなく、カーレースやスカイダイビング、またマリンブルーの海底やアマゾンのジャングルを探検したり、月やタイタンなどの宇宙を探検したりするものが人気である。宇宙もののユニヴァースでは、仮想の基地からロケットに乗って大気圏外へと飛び出し、宇宙ステーションにドッキングし、無重力を体験し、月面基地や他の惑星に向かって飛び立つというものもあり、家族連れのユーザーに人気を博している。
この「冒険系」と似ているものとして、「ネイチャー系」というのもある。これは文字通り、様々な自然を体験することができるユニヴァースであるが、刺激や危険な要素が取り除かれているのが特徴だ。この種のユニヴァースでは世界中の雄大な、美しい自然が再現され、中にはポ社が作り出したオリジナルの幻想的な風景も存在している。飛行機に乗って海外に行くだけの資金がないという人々は世界中に大勢おり、それゆえエニグマを通して白一色の輝くような雪景色や時には豪雪を楽しむ熱帯の人々や、逆にユニヴァース「マリンブルー」でバーチャルなダイビングを楽しむ寒帯の人々などが尽きない。
人気どころは「エベレスト」や「ナイアガラの滝」、「サファリ」「グレードバリアリーフ」「氷の大陸」などだ。また、この「ネイチャー系」の中には、ユーザーによって「癒し系」と俗称されているものもあり、たとえば「月夜の砂漠」「ディープフォレスト」「紅葉」「桜」「天の川」などが人気を博している。
ところで、その自然を楽しみながら身体を動かす――むろん脳内で――ものもあり、各種のマリンスポーツやハイキングなどが好評だが、ユニヴァース「ビッグウェーヴ」を試した実際のサーファーによると、コンピュータが再現する波はちっとも迫力がなく、すぐに似非と分かるそうで、玄人筋には不評だ。
ちなみに、当初、エニグマは実際のスポーツをすべて取り揃えていたが、不人気なため今では「スポーツ系」のユニヴァースはほとんど廃止されている。やはり、実際に汗を流すことの快楽には叶わないようだ。
「快楽系」は主にセックスと食とドラッグをテーマにしている。当然ながら、ポ社の稼ぎ頭である。
性を扱ったユニヴァースでは、互いに気に入ったユーザー同士、あるいはユーザーとプログラムキャラクターのバーチャルセックスも可能だ。むろん、プログラムキャラには様々な人種の最高の異性がそろっており、好みに応じて選ぶことができる。ただし、一部のキャラの容姿がローティーンの少年少女に見えることから、マスコミや人権団体などから目の敵にされたこともあった。
食に関しては、古今東西のありとあらゆる豪華料理や珍味、宮廷料理などが再現されている。「ない料理はない」とまで言われ、ユーザーは美食の限りを尽くすことができる――ただし腹には何も溜まらないが。老舗料亭や有名レストランの味に関しては正式に契約したうえで再現しているが、以前、ある人物がユニヴァース内でイチゴのアイスクリームを食べた際に「これはうちの味だ」と主張して問題になったことがある。彼はアイスクリーム店のオーナーだったわけだが、調べたところ彼の言うとおりだった。
ポ社は持ち帰りができる食材や料理に関しては、それを被験者が食べた時の脳内のデータを誰の断りもなしにそのまま流用していたのである。これがきっかけとなって「ある食品を食べた時に脳内で生じるデータに果たして知的所有権があるのか否か」が裁判で長々と争われた。その結果は、創作者に損失を与えたと判断されたポ社の敗退であった。以来、「うちの味を盗んだ訴訟」が相次ぎ、ポ社は大きな損失を強いられた。
ドラッグに関してはそれ以上の社会問題に発展した。エニグマを使ってドラッグを摂取した時と同様の脳内反応を機械的に再現できるようにしたわけだが、この種のドーパミンの過剰分泌がユーザーに依存症を生じさせる危険性があるというのである。当然、ポ社は「実際にドラッグを使用するわけではないのだから、法律には違反しない」と主張した。実際、その通りだった。しかし、ヘロイン・覚せい剤・コカイン・LSDを摂取した時と同様の体験ができるというので、ポ社は治安や社会秩序を心配する警察からも、また消費量の減少の直撃を受けた闇社会からも目をつけられた。
さて、ユニヴァースは何も非日常的な体験だけを演出するわけではない。「教育系」や「ビジネス系」といった実用性のあるものもある。前者では、乗り物や機械の操作などを覚えるためのトレーニングや学校などが主流だ。後者では、たとえばユニヴァース「貸し会議室」などがよく利用される。参加者が世界のどこにいようとも身体をつつき合わせて会議ができるというので、テレビ会議システムよりも好評だ。今ではエニグマが商談に利用されるのは当たり前で、プログラムの会計士や弁護士、ビジネスコンサルタントなども取り揃えられている。
むろん、「本物」からは「われわれの商売を奪うな」という抗議の声が上ったが、ポ社は「それこそビジネスだ」として開き直っている。ちなみに、明示されたルールではないが、ビジネス系ではログイン段階で本人の容姿の修正はしないのがマナーとされている。
以上、このような九九九種類に及ぶ多種多様な仮想現実の提供とマシンの販売・レンタルなどの事業によって、ポセイドンという企業は年間に百数十兆円という空前の売上高を計上しているのである。
このポ社ほど人々から敵視され、また同時に支持される企業も珍しい。実際、ポ社は際限のない訴訟に巻き込まれてきた。ベネチアをそっくり再現したら「肖像権」を侵害しているとして地元から訴えられ、リンゴやみかんの味を再現したら農協から訴えられ、エニグマの中毒になったとか発作が起きたと称する消費者から訴えられ、嫉妬した他社や人権団体や会計士の組合からも訴えられた。政治家、司法、警察、国税庁、闇社会…ありとあらゆる存在がポ社を敵視した。
やがて、政治家と官僚が法律という手段を使ってポ社を締め上げようとした。結局、ポ社は会社を南の島に移す決断をした。そこは文字通り、国税庁や公正取引委員会や弁護士のいない楽園だった。もはや儲けすぎ大企業を狙った訴訟や独占禁止法や税金や人権団体に煩わされる心配もなくなった。
ポ社がこのような決断ができたのも、熱狂的に支持するユーザーが世界中に大勢いたからこそだった。ポ社はそこに自らの帝国を築き上げた。世界中に散らばる社員たち――十数万人ものプログラマーやシステムエンジニア、クリエイターたち――はネットワークを通して在宅で仕事ができたものの、本社の移転に伴って自ら祖国を捨てる者も少なからずいた。移転後、企業帝国はますます巨大化し、とうとう五億人とも言われるファンを獲得した。
今では驚異的な収益率を誇る企業として年々、使いきれないほどの富が会社に蓄積され、国際問題にすらなりつつある。だが、政治家がいかにポ社を問題視し、販売規制を提唱しようが、彼はたちまちその国の選挙民たるユーザーによって挫折させられるのだった。なぜなら、ポ社は今や五億の信任評を持つに等しい政治的存在、いや五億の信徒を抱える宗教にも似た存在なのだから。
もはや、ポセイドン社をハンドルできる存在は世界のどこにもなかった。
♦♢
耳元で目覚まし時計の電子音が鳴り響いていた。
仁科はヘッドセットを外し、リクライニングシートから半身を起こした。部屋には朝の光が射していた。出費を押さえるため、オートログアウトの設定をしている。就眠したことを示す脳波が出ると、バーチャル世界から自動的に現実世界へと戻されるのだ。仁科にとって朝とはペールギュントの音律が醸しだす神々しい世界の夜明けを意味するものではなく、現実という名の悪夢の始まりにすぎなかった。
薄汚れた洗面台で顔を洗った。緑青の浮いた水道管から流れ出る水は錆臭く、勢いがない。タオルでぬぐいつつ、ひび割れた鏡に己を写した。青白い顔が浮かぶ。目の下にクマがあり、頬がこけている。もっと栄養のあるものを食べなければと思うのだが、削ることのできる経費といえば食費くらいしかない。たちまち、ひどい空腹に襲われた。そりゃそうだ。昨日の昼食以来、何も食べていない。ここ数ヶ月はずっとそうだ。
カビの浮いた壁紙の向こうから響く朝の住人たちの騒音をBGMとして、砂糖をたくさんぶち込んだインスタントコーヒーを朝食代わりとした。
仁科は京成押上線の八広駅から満員列車に飛び込んだ。つり革に掴まりながらぼんやりと窓の外の景色を見ていると、突然、目眩を催し、足元がおぼつかなくなった。流れる景色に酔ったのかもしれないと思い、しばらく目を閉じて深呼吸し、気分を落ち着けた。
大田区の勤務先に着いた。工場の門を一歩くぐると、中は金属臭とオイル臭でむせ返りそうだ。タイムカードを押すなり、凄まじい騒音と共に作業が始まった。大量の金属部品の入ったドラム缶をクレーンで持ち上げ、鍍金槽のそばまで運ぶ。かつて運搬中に老朽化したチェーンが突如として切断し、重さ数百キロのドラム缶の直撃を受けた同僚が半身不随になったことがある。ドラム缶の部品をステージの上に空け、それを何本もの円柱形のドラムに入れて、大量の塩酸で錆などを落とす。次に酸で洗浄した部品を亜鉛がドロドロに溶けた鍍金溶液に浸し、錆を防ぐための皮膜を表面に作る。一定時間浸して鍍金が完了すると、今度は部品を鉄カゴに空け、これを複数ある水槽に順番に浸して洗浄し、乾燥機で水分を飛ばせば加工完了…というのがここでのあらかたの工程だ。
実は鍍金屋にもピンからキリまであり、最新の設備をもち、高度な技術を駆使するところもあれば、昔ながらの家内工業のようなところもある。亜鉛やクロムなど鍍金に使う金属にも様々な種類があり、それを定着させる金属との組み合わせと相まって、その技術の幅は広く、奥が深い。仁科の勤める工場は、残念ながら昔ながらのやり方――老舗の料理店と違って工業の現場ではほとんど肯定的な意味にはなりえない表現だ――で付加価値の低い単純な鍍金作業を行っているところだった。仁科自身、危険物取扱の資格しか持たない単なる肉体労働者に他ならなかった。
当然ながら労働環境は悪かった。酸やアルカリの溶液を大量に使用するので、作業中はゴムの手袋と長靴、そしてゴムの前掛けという装備が欠かせない。それでも飛び跳ねた硫酸が顔にかかって火傷したこともある。以前、釘の鍍金を扱った時には、床に落ちていたそれを踏んづけて足に突き刺さったこともあった。金属部品の詰められた鉄カゴを抱えて水槽の中で揺らす洗浄作業は重労働で、間違えば腰にくる。扇風機が回っているが、それでも場内の熱と悪臭は耐えがたいほどだ。しかも、その代償が薄給ときている! 昔はきつい・汚い・キケンの代償として給料もそれなりに良かったらしいが、今では単純な技術はアジア諸国に持っていかれ、薄利多売を強いられている。大企業によって生かさず殺さずの立場に置かれている経営者は、そのしわ寄せを従業員の給与に持っていくしかない。
作業中、どうも身体がついてこないと仁科は思った。やはり歳のせいだろうか。汗だくなのはいつものとおりだが、その汗のかき方がいつもと異なる気がしてならない。
「おい、ヒデ! どうした、腰が入ってないぞ、腰が!」
案の定、工場長の罵声が降りかかってきた。肉体的に楽なパートは退職間際のジジイ連中が支配しており、それ以外の者はきついパートに回される。仁科は水槽での洗浄作業に就いているが、作業が滞り気味なせいで隣にいるフィリピン人から「煽られ」ている。
辛かった。現実は本当に闇の世界だと思った。でも今日は金曜日だ。明日の残業は午前中で終わる。それ以降は思う存分にエニグマに浸れる。週末はそれだけが楽しみだ。
その希望を糧にして、今日も一日を乗り切るのだ。
♦♢
「おい、ヒデ、またそれか」工場長がヤニ臭い息を吹きかけながら言った。「もっと栄養のあるものを食わんと身体がもたんぞ、んんっ?」
「今の給料でエンゲル係数を上げるのは自殺行為だと思っていますが」
仁科はそう言って、再び昼食のカップ麺をすすった。工場長が「チッ」と舌打ちした。
「ところで、飯食ったら、ちょっと事務所に顔を出してくれ。話がある」
看守が立ち去ったのを確認して、仁科はケータイを取り出した。
本当は必ずしも給料だけが原因ではなかった。高級自動車に匹敵するエニグマ本体のローンと、ユニヴァースへの毎月のアクセス料金こそがジリ貧の根本原因だった。
画面でクレジットの状態を確かめた。エニグマのローンとは別に、すでに三社から借り入れている。一社の支払いが遅れている。近日中の期限までになんとか金を工面しなければならない。といっても、そのあては別のクレジットだ。つまり、借金の返済に別の借金を充てるという状態である。エニグマのローンは減額不可能だから、削減可能な経費といえば食費か、ユニヴァースへのアクセス料金しかない。
本当は、毎日のようにユニヴァースに入り浸るのをやめるべきなのだ。だが、理性では分かっているのにやめられない。立花麗子と出会うまではレンタル店舗でエニグマに没入していたが、彼女と毎日のように会いたいがためにローンを組んでマシンを購入した。長期でみればそちらのほうが結果的に安上がりだからだ。しかし、今のペースで「マイホーム」を利用する度に電子マネー口座から自動支払いしていては、ローンを支払いきる以前に破産する可能性もある。
請求書の山をどう裁ききるか思案しながら、仁科はふと空を見上げた。太陽の光度は徐々に地獄の夏が近づいていることを示している。真夏の工場内の気温は摂氏四十度を超えることもある。毎年のことながら、ぞっとする。想像しただけで気分が悪かった。そのせいか、吐き気がする。なぜか、急にジンマシンを患ったように皮膚が痒くなった。思わず二の腕を掻く。ぼろぼろと、まるで石膏のように皮膚が剥げ落ちた。
事務所に顔を出した。
「どうしたんだい、仁科君」と工場長がやけに他人行儀に言った。「最近、やけにミスが多いじゃないか。それに反抗的だし…」
鬼がこういう穏やかな口調の時は要注意だと思いながら、仁科は次の言葉を待った。
「実はね、タン君からフィリピンの親戚を呼んでもいいかっていう打診がきているんだ。相手は二十二で、本人も日本で働く意欲満々だそうだ。もうちょっと気合入れて仕事してくれないとメンバー交代っていう可能性もあるよ」
♦♢
仁科はナビゲートに向かって「ユニヴァース572」と言った。ドアに光の文字が浮かび、それから鏡に変わった。己の姿が映る。いつもなら顔と服装は事前のユーザー設定どおりなのだが、週末は少しおめかしの要ありだ。服装のリストを次々と試着して、アルマーニのジャケットに決めた。
パンツルックの立花麗子がすでにマイホームの前にいた。いつもの笑顔に続いて、怪訝な表情を浮かべた。
「最近、頬がこけているわよ」
どうやら、これからは服装だけでなく、顔も修正したほうがよさそうだ。
ふたりで腕を組んだ。仁科は少し芝居がかった調子で言った。
「じゃあ行きますか、お姫様」
「ええ」
仁科は左の手首を突き出し、腕時計型のコントローラーを操作した。ユニヴァースからユニヴァースへと直接移動する際はこれを使う。空間にゲートが現れた。303番の「エーゲ海」だ。ゲートを超えると、そこは西洋風の小さな居間の中だった。ドアがひとつだけしかないので、必然的にそこを開けざるをえない。
ドアを開けた瞬間、視界が開け、白い漆喰一色の町並みが現れた。濃い青をした空からは春の陽気が降り注ぎ、緩やかな丘陵に築かれた町の向こうには、三角の帆をなびかせたヨットの浮かんだ群青色の海が水平線まで続いていた。
その場に立ち尽くした麗子が「まあ、素敵!」と感嘆の声を上げた。
ふと数十メートル隣を見ると、同じように木製のドアから現れたカップルが感嘆している。心憎い演出だ。雰囲気を壊さないよう、ゲートの位置をうまく工夫している。
仁科と麗子は海側に向かってゆっくりと坂を下った。人気のデートスポットのせいか、町はたくさんの人で賑わっていた。途中、一軒のオープン式のレストランに入った。眼下にある風光明媚な景色を楽しみながら、まずワインで乾杯し、それからギリシア料理に舌鼓を打った。ヤギのチーズのサラダ、新鮮な魚介類のから揚げ、ラム肉のソテー、ナスとトマトを重ねてオーブンで焼いたムサカなど、どれも信じがたいほど美味だった。一流シェフが最高級の食材を惜しげもなく使って作った料理を被験者に食べさせて脳内のデータをとっているのだから当然なのだろうが、いつもながらバーチャルとは感じさせないところが凄かった。
しかも、これだけの料理を堪能した――むろん腹には何一つ収まっていないが――にもかかわらず、実際に支払っている金額といえばユニヴァースの利用料だけだ。レストランをはじめこの観光地で働くすべての従業員はプログラムである。
ポセイドン社に人々の消費が向かった分、もっとも割を食ったのは観光地やレストラン、そしてセックス産業だと言われているが、それも頷けるというものだ。
仁科と麗子は海岸まで出ると、船頭の動かすヨットに乗り、青い海を漂った。ふたりでお喋りをしながら、時々、遠くの水平線に現れる大型船の船影を眺めた。仁科はふと海水をすくってみた。確かに「手」に「水」の感触がする。幾度も確かめるように海水をバシャバシャと弾いてみた。感触、音、ゆらゆらとした光線の反射具合…何もかもが完璧だ。
仁科はちょっとした悪戯を思いついた。
「ねえ、船頭さん」
舵輪を握る若いギリシア人の船頭が振り向いた瞬間、仁科は彼を思いっきり海へと突き飛ばした。麗子が両手で口を押さえ、息を呑んだ。だが、ギリシア人は溺れることはなかった。海面に接した瞬間に忽然と消えてしまったのである。
「以前、裏技ブックで読んだことがあるんだ。プログラムの船員は船の上でしかリアルに動けないって。きっとプログラムの無駄手間を省いているんだ」
裏技ブックとはゲリラ系の出版社が発行しているもので、要はユニヴァースの中でいろいろな悪戯をしたり、プログラムキャラ相手に暴行を働いたり、バグや欠陥を粗探しすることを趣旨としており、ポセイドン社からは害虫と同等に見なされている代物である。
「でも船を操る人がいなくなっちゃたら、私たちはどうするの?」
「まあ、見てなって」
いきなり船室のドアが開いた。そして、先とまったく同じ姿形をしたギリシア人が現れて、笑顔でふたりに挨拶し、それから何食わぬ顔で再び操舵に入った。
「ほうらね。もう一回突き落としてやろうか?」
「やめてよ、そんなこと」麗子がとがめた。「英雄さん、きっと退屈しているのよ。少し憂さを晴らすといいわ」
「よし、君がそう言うんなら…」仁科はまた左の手首を突き出した。
次に向かった先では、ゲートをくぐった瞬間、ふたりは銀色の制服を着ていた。周りには同じ制服を着た者が大勢いて、指揮官が怒鳴るなか、係の誘導に従っていた。
「いいか、地球の運命はこの一戦にかかっている! 昆虫野郎に負けたら、おれたちの星はやつらの巣になっちまうんだ! だが、お前たちなら勝てる! やつらのケツを蹴っ飛ばして、太陽系の向こうに追い返してやるんだ!」
仁科は麗子の手を引っ張って、人の流れの輪に入った。すぐに野球場くらいの広さのある巨大な発着場についた。数十本のレールから宇宙空間に向かって次々と戦闘機が射出されていく光景は、エキサイティングかつ壮絶としか表現しようがなかった。
ふたり乗りの戦闘機に乗り込んだ彼らは、コンピュータ音声による簡単なミッションの説明を受けた。敵の母艦を撃沈したなら百点、駆逐艦なら八十点、魚雷艇なら五十点、戦闘機なら三十点のポイントという具合だ。管制からの「ではグッドラック」という声と共にカウントダウンが始まった。猛烈なGに麗子が悲鳴をあげ、ふたりの乗った機は広大な宇宙空間へと射出された。そこは戦場だった。すぐ眼下に巨大な地球が浮かび、あちこちで光線が飛び交い、爆発が起こっていた。はるか前方には、不気味な赤黒い母艦から平べったいエイリアンの戦闘機が次々と排出される異様があり、逆に背後には迎え撃つ地球艦隊から次々と味方機が発進する勇壮な光景があった。
「きゃあ、来たわよ!」
三次元レーダーに目をやるなり麗子が叫んだ。いきなり敵機に背後を取られた。
「くそっ!」
仁科は操縦桿をめちゃくちゃに操って難を逃れようとした。だが、何度も撃たれ、そのたびに機体が瞬間的な地震のように揺れた。麗子の悲鳴が機内に響いた。幸い、凄腕らしい味方機の来援によって、その敵機は撃墜された。すると、今度は別の敵機がいきなり斜めから滑るように現れ、ふたりに背中をさらした。
「さあ、英雄さん、撃って! 撃つのよ!」
「ようし!」仁科は射撃ボタンを押した。
しかし、どうもビーム機銃の狙いが定まらない。光線はことごとく外れた。
「ああん、もう!」麗子がじれったいという風に叫んだ。
その敵機は逃れてしまったが、しばらくしてまた別の敵機と遭遇した。今度は何度も宙返りをした末、仕留めることができた。麗子の歓声が上り、仁科もガッツポーズをした。
それから幾つかの空中戦を経験し、ふたりもコツを掴み始めた。
「なにこれ?」麗子が突然、素っ頓狂な声を上げた。「敵の揚陸艦って表示されているわ」
「え、どこどこ?」
「うーんと、十時の方向、マイナス三十度よ」
見ると、大気圏の近くに滞空する巨大なアリの卵のような艦艇から、地表に向かって次々と戦車に類似した物体が降下していた。
「よし、あれを仕留めよう」仁科は機をその敵艦に向けた。「いいかい、爆撃手。僕がうまくコースに乗るから、コンピュータがゴーサインを出したら魚雷を発射するんだ」
「えーっ、ちょっと、そんなの…」
「ボタンを押すだけだ。ほら、行くぞ!」
敵の揚陸艦は青い地球を背景に宙に浮いているようだった。ふたりの機を察知した敵艦も対空砲を撃ってきた。機体にガンガンとそれがぶち当たり、機内がアラートを示す赤い点滅で満たされた。もう限界と思われたところでゴーサインが表示され、麗子が魚雷の発射ボタンを押した。その直後、仁科は機体を大きく上昇させ、敵艦を眼下に見やった。残念ながら、魚雷は外れた。仁科は「よし、もう一度!」と叫んだ。今度は反対側から敵艦に突入した。再び対空攻撃を受けた機体が揺れた。その中、射撃装置を睨んだ麗子が発射ボタンを押した。今度は魚雷が敵艦の真ん中に吸い込まれた。目も眩むような巨大な爆発が起こり、大きく二つに割れた敵艦が炎を吹きながら地表に向けて落下していった。
「やったーっ!」ふたりして喜びを爆発させた。
だが、それもつかの間だった。敵艦から十分に距離をとらなかったため、爆風と破片に巻き込まれ、それが傷ついた機体にとって致命傷となった。警報音が耳をつんざき、機内が赤一色で満たされた。やがて「墜落します」の合成音と共に視界が炎の海に包まれ、次に気づいた時には再び艦隊の控え室のようなところへと転送されていた。
「はーっ、楽しかった」麗子がため息混じりに笑った。
発着場には向かわず、艦内のカフェテリアへと向かった。そこでは世界中から集まった何千人ものユーザーたちが、ジュースやコーヒーを飲みながら興奮した様子で互いの戦果を語り合っていた。「宇宙戦争」は大人気のユニヴァースのひとつだ。
「おい、このキャラ、バクってるぜ」
誰かがそう口にするのが聞こえた。仁科たちがその方向に目をやると、一組のカップルがカウンターの中の店員を指差して笑っていた。その店員は、棚に手を伸ばしたところでフリーズしており、その手が取っ手を掴んでは戻る、という動作を繰り返していた。非常に滑稽な様子に感じられ、仁科も思わず笑ってしまった。
「永久にああやっているのかな?」
「ぷ」麗子が吹き出した。「ほんと、変ね」
昔はプログラムの欠陥から生じるバグをよく目撃したが、最近では珍しい光景だ。
「なあ、次は宇宙遊園地に行く? それともスポーツ系がいいかな? 『スカイダイビング』や『ビッグウェーヴ』はどう? あるいは『モナコグランプリ』なんか…」
「そうね、たっぷり遊んだ後は静かなところがいいわ」
「ようし。じゃあ、癒し系へとレッツゴーだ」
ユニヴァース「黄昏の丘」では、太陽が斜めに降り注ぎ、世界がすべて黄金色に輝いていた。丘の上に立つと、見渡す限り草原と林が広がっている。所々に円柱やアーチなどのギリシア風の廃墟が存在し、長い影を作っている。ここはユーザーが風景を独占できるところで、他人は視界に入らず、小鳥のさえずりと頬をなでる柔らかな風以外は何もない。
ふたりで木のベンチに腰かけ、無言で風景を眺めた。ゆっくりと思索をめぐらし、世界と自分との関係を考えるのにふさわしい場所だ。時が経つのを忘れた。黄金色の光で輝く麗子の横顔を見た瞬間、仁科の胸がなぜか郷愁の想いで締め付けられた。
このまま永久に時間が止まればいいと思った。
♦♢
「おい、ヒデ! おまえのところで止まっているぞ!」
工場内に怒鳴り声が響いた。大げさな、と仁科は思った。最近、工場長が首切りを臭わせて脅かす手段に打って出ている。馬鹿め。こっちも対策は打ってあるぞ。
午前中の仕事が終わり、仁科はカップ麺の昼食にありついた。奇妙なことに、ここ一週間ほど味覚が感じられない。エニグマでの飲み食いが過ぎて舌が退化したのだろうか。
ケータイを取り出し、借金の状況を確認した。ますます追い詰められているということ以外、新たな発見はなかった。しかし、希望のもてるニュースもあった。今日、仕事帰りに面接に行くことになっているのだ。むろん、新しい職場の、である。仕事はビルの清掃だ。時給制だが、本人の希望次第でいくつかの現場を掛け持つことができるという。求人担当者の説明では、十二時間も働くことができるらしい。給料は一割か、うまくいけば二割増しになる。しかも、勤務場所が都心付近なので、通勤時間はぐっと短くなる。もちろん、肉体的にも今より楽になる。当然、仕事を長く続けることができるだろう。
考えれば考えるほど、いいこと尽くめのように思われた。今すぐ工場長の眼前に辞表を叩きつけてやったらどんなにすっきりするだろうかと思ったが、さすがにそれは軽率だと思い直した。
仁科は無意識のうちに首筋を掻いていた。皮膚がぼろぼろとこそげ落ちた。皮膚だけでなく指先も痺れたような感じだった。どうも最近、奇妙に感覚が鈍くなっていた。
退社するなり、神田にある清掃会社の面接に向かった。久しぶりにドキドキとしたが、結果はあっけなく即採用だった。来月から働くことに決まった。帰りの道すがらは、踊りだしたい気分だった。事実、身体が勝手にスキップしていた。今月の後半は有給で消化できるから、明日、工場長の面に辞表を突きつけても問題はない。
それはそうと、麗子に真っ先に報告しようと思った。彼女が我が事のように喜んでくれる顔が目に浮かぶようだった。きっと彼女も思い直して、外で会ってくれるに違いない…そう考えるとわくわくした。急に未来が開け、何もかもがうまくいくような気がした。
神田駅の近くで角を曲がった瞬間、他人と肩がぶつかった。相手は普通のサラリーマンだった。彼は「すいません」とだけ言って、そそくさと立ち去ってしまった。
仁科はその場にしゃがみこんでしまった。あまりの痛さに息をするのも困難だった。そのせいで声を出せなかったのだ。きっと骨に釘か何かが突き刺さって、そこから出血したに違いないと思った。幾人かの通行人から「大丈夫ですか?」と声をかけられた。仁科はまともに返事できなかった。そのうちのひとりが救急車を呼んでくれた。
病院でレントゲンを見せられた。信じられなかった。右の鎖骨が折れていた。
「骨がスカスカですよ」医者がしかめ面を作った。「ちゃんと栄養を取っていますか?」
その場で石膏のギブスをはめられてしまった。当分、利き腕が使えなくなった。
病院から恐る恐る勤務先に電話した。事情を注意深く聞いた工場長は、しばらく沈黙した後、何の同情も交えずにもって回った言葉を発した。
「うちが取引先からいっそうのコストダウンを迫られている事情を承知しているなら、残念ながら君の療養に付き合っている余裕がうちにはないことくらい分かるよな?」
♦♢
新しい仕事にも就けず、生活はいっそう困窮した。失業手当をもらい始めたが、以前の給与の半分しか支給されなかった。昔は三分の二くらい支給されたらしいから、これも政治の堕落・福祉の貧困化の一例だろう。
とりあえず、骨がくっついてから、再び清掃会社の門を叩こうと思った。収入が大幅減だから当分、エニグマはお預けだ…と理性では理解していても、気づけばマシンに座っている自分がいた。仕事がなくなって突如として暇をもてあましたことも禍した。
立花麗子と会うにあたって、顔を少し修正することにした。細かい調整は面倒なので、ナビゲートに向かって「若々しく」とだけ命じた。するとコンピュータが自動的に判断して顔を直してくれた。まるで絵の具を明るくしたように、パッと顔色がよくなり、無精ひげが消滅し、頬が少しふっくらと膨らんだ。鏡を見ながら、「なんだ、こんな簡単なことならもっと早くからやっておけばよかった」と後悔した。
ボロマンションの自室にいると気が滅入るだけだが、ユニヴァース「マイホーム」の邸宅にいると心の底からくつろぐことができた。ここでは右手を自由に動かせる――リアルではギブスで固定されている――こともよかった。永久に留まっていたいくらいだった。
「さあ、何を食べようか?」カタログを開きながら仁科が言った。
「そうね、今日は私が選ぶ番…」
その時だった。突如、警報音が鳴り響いた。一瞬、それが何なのか、どこから聞こえてくるのか分からず、パニックになった。麗子が驚愕気味に「英雄さん、それっ!?」と指差したことで、ようやく場所が分かった。仁科の腕時計のディスプレイ部が赤く点滅し、アラームを鳴らしていたのだ。表示を見ると、「身体異常」の文字が出ている。
「大変だ! ごめん、麗子! 今日はこれまでだ! 明日また来るよ!」
エニグマはユーザーの心拍数・血圧・脳波・体温・発汗量などを常時モニターし、もし異常な数値を検知すれば直ちに彼を強制ログアウトさせる。これは過去に繰り返された事故からの教訓であり、法整備・行政指導の結果でもあった。ユーザーはエニグマの中で飲食できるが、それは脳にそう思わせているだけで、リアルには摂取していない。ゆえにユニヴァースの中でずっと遊んでいると、リアルの身体は脱水症状を起こし、極端な話、飢え死にしかねない。
実は初期にはその種の事故が相次いだ。訴訟沙汰にもなり、行政も対策に乗り出した。その結果、少しでもユーザーの身体の異常を察知したら強制ログアウトする安全装置の追加が義務付けられた。また、水分や食事の補給を考え、連続ログイン時間を十二時間までとし、これを経過しても強制ログアウトの対象になった。
さらに身体の健康を考え、八時間以上の連続使用者はいったんログアウトした後、最低四時間は再ログインできない機能も追加された。ポセイドン社のシステムはユーザーの電子マネー口座と直結することで本人確認しているから、ユーザーがレンタル店舗で次々とマシンを乗り換えたところで、ログイン時間をごまかすことは不可能だった。
仁科の耳元で「ログアウトします」の声が繰り返された。突如として網膜の映像がプッツと途切れ、視界が闇に覆われた。そして今度は「ログアウトしました」の声が繰り返された。仁科は片腕で顎のベルトをやや乱暴にほどき、ヘッドセットを頭から外した。
マシンのディスプレイに詳細が表示されていた。体温の低下、脳波の乱れ、心臓の不整脈、肺機能の低下…などと出ていた。こんなにたくさん? 冗談じゃないと茫然自失した。
♦♢
仁科英雄の姿がかき消された後も、立花麗子はしばらくその世界に留まり、無表情に座っていた。やがて、彼女は椅子を後ろに引き、立ち上がった…はずだったが、どういうわけかまた座った。そして、また立ち上がり、また座った。その動作を壊れた機械人形のように十数回ほど繰り返した後、彼女はその場から忽然と姿を消した。
♦♢
この日以降、仁科はログインに失敗しつづけた。
明らかに身体に変調をきたしているらしく、エニグマは彼を受け付けなかった。最初はナビゲート前で拒絶されていたが、すぐにログインそのものが不可能になった。ヘッドセットを装着した時点で、案内の音声が「身体異常のためログインできません」と冷酷に告げた。とりあえず、麗子にはメッセージを送った。エニグマ内に彼女が有するメールボックスがあり、互いの連絡用に使っている。そこから彼女の自宅のパソコンなり携帯電話なりに転送される仕組みだ。一方、仁科のエニグマには、「焦らずにゆっくりと療養して」といった彼女からの返事が届けられた。
とはいうものの、自宅で悶々とする日々が始まり、仕事ができない焦りと相まって仁科は気が狂いそうになった。いったいどうすればいいのか? とにかく、薄汚れた部屋にじっとしているのは嫌だった。一刻も早く「マイホーム」に帰って、麗子に会いたかった。
考えた末、ひとつのアイデアが思い浮かんだ。「リミッターカット」の入手である。それは違法部品だった。これをマシンに取り付ければ、身体がどんな危険な状態だろうが、エニグマを誤作動させ、何時間でもログインすることが可能となる。だが、噂に聞いているだけで、どこでどんな風に売られているのか皆目見当がつかなかった。
さっそく仁科は、片腕を包帯で吊ったまま東西奔走した。最近、麗子からの返事がこないことがますます焦りを募らせた。あちこち嗅ぎ回った末、秋葉原のアングラ街で売られていることを突き止めた。だが、それは十数万円もするという。仕方なく、ありったけの質草をかき集め、さらに足りない分は借金の増加で補った。
仁科は秋葉原の裏通りで道端に立ち尽くしているそれらしき男を見つけ、声をかけた。
売人はやや訝しげに彼を一瞥した後、ジャンパーのポケットからタバコ箱サイズの部品を取り出し、辺りをきょろきょろと警戒しながら「二十万」とだけ言った。
「十二、三万じゃないのか?」仁科は驚いて目を剥いた。
「品薄なんだよ。先月、上海の地下工場が摘発されたから相場が上ったんだ」
仁科はポケットにねじ込んだ札びらを男に手渡した。乱暴にそれを数え始めた男が素っ頓狂な声を上げた。
「なんだ、足りないじゃないか!」
「なんとかこれで」
「冗談言うな。ちゃんとミミをそろえて出直してきな!」
仁科は素早く周囲を見回すと、部品を男の手からもぎ取り、体当たりをかました。ゴミの集積場に突き飛ばされた男が何やら喚き散らしたが、仁科は猛ダッシュで逃亡した。
仁科は、インターネットで流れている情報を参考にして、リミッターカットを自分のマシンに取り付けた。これは厳密には「仮想現実没入型遊戯機器利用法」に違反し、所持しているだけで懲役刑の対象にもなりうる。だが、そんなことには構っていられない。さっそく試してみると、それは見事にエニグマを欺いた。
再びログインに成功した仁科は、さっそく「マイホーム」へのゲートをくぐった。
今まで彼は散々、快楽系や刺激系のユニヴァースを試し、幾多の冒険も繰り返した。だが結局、たどり着いたのはここだった。彼が本当に求めていたものは安らぎに満ちた平穏な暮らしであり、それはこの世界にこそあった。
今日ここに来ることは、麗子に事前に伝えてあった。邸宅に着いてみると、中は真っ暗だった。たぶん彼女は後で来るのだろうと思い、居間の照明を点けた。
テーブルに一枚のメモが置かれていた。「英雄さんへ さようなら」と書かれていた。
♦♢
仁科はそれから何度も「マイホーム」内の邸宅に足を運んだ。麗子とふたりで相談して建てた邸宅は、いつ訪れても真っ暗だった。やがて、金が回らなくなり、ポセイドン社への電子マネーの支払いが滞り始めた。ある日、「マイホーム」を訪れてみると、彼の邸宅は忽然と姿を消していた。
ナビゲートの画面からユニヴァース572の運営事務局に抗議すると、先方は仁科の支払い不足を指摘し、その旨はメールで伝えていると主張した。ログアウトしてエニグマのディスプレイを見ると、たしかにポ社のカスタマーサービス課なる部署からその旨のメールが届いていた。もはや「マイホーム」に行く理由のなくなった彼は、仕方なく、かつて麗子と出会った冒険系ユニヴァースの酒場や、彼女とデートした先のユニヴァースなどを回ったが、その姿を見ることは二度となかった。
第一、麗子は姿を変えてしまったかもしれなかった。彼女はメールボックスも廃止してしまったらしく、いくらメッセージを送っても宛先不明で返却されるようになった。もとより匿名で借りることのできる私書箱だから、手がかりになりようがなかった。
現実世界では、生身の立花麗子を探し回る日々が続いていた。むろん、「立花麗子」という名もハンドル名だと彼女は言っていたので、手がかりと呼べるのは唯一「都内の花屋に勤めている」という彼女の一言だけだった。その情報だけを頼りに、仁科英雄は麗子の姿を捜し求めて花屋を回った。我ながら馬鹿だということは分かっていた。自分の知っている彼女は、本当の彼女の姿ではない。だが、それでも記憶にある彼女の姿を求めて探し回らざるをえなかった。一度見失ったら、もう二度と会えないことを承知で。
徒労の日々が続いた。何もかもが虚しく、彼女のいない世界は色あせて見えた。なぜ置手紙だけで姿を消したんだ、どうしておれを見捨てたんだと、仁科は泣き続けた。彼が仕事もせずにあまりに部屋で泣き叫ぶので、近所が警察に相談するくらいだった。
仁科は徐々に狂気の扉に迫りつつあった。時々、「マイホーム」での麗子との楽しかった日々が夢に現れた。そして目が覚めた後、自分が監獄のような狭く薄汚れた部屋の中にいることを知って愕然とし、早くこの夢を終わらせて、本当の世界に帰らなければと焦燥した。だが、しばらくして、自分が今いる世界こそが本当の現実であることを悟り、もはや涙も出ぬほど絶望するのだった。
なけなしの金で酒に溺れる日が多くなった。とっくに破産していたのだが、そのことにすら気がつかなかった。いや、正確には気にならなかった。ある日、酒に溺れ、フラフラと街をさ迷っていると、ひとりの男が彼を見るなり指差し、喚きたてた。
どこかで見た男だった。ああ、そうだ、リミッターカットの売人だっけ。そう思っていると、数人の男たちが彼を滅多打ちにした。激痛が身体のあちこちを襲い、仁科は悲鳴を上げた。
その夜、雨が降っていた。行き交う人々がぼろぼろになった仁科をよけた。だが、半殺しの目にあった彼の頭の中は疑問符でいっぱいだった。彼は不思議そうに街を見回した。
ここはいったいどこなのだ? ユニヴァースの何番なんだ? おれはここでいったい何をしているのだ? 早く麗子の待つ世界へと帰らなければ…。
本能的に自宅にたどり着くと、テーブルに一通の紙が置いてあった。何かの通知らしいが、文章を読む気は起こらなかった。彼は部屋に陣取るハイテク機械を見やった。
エニグマには「差押え品」の紙が貼られていた。
♦♢
「先生、ここのユニヴァースはなんという名前ですか?」
「リアリティと呼ばれています」林原は言った。
「リアリティ、ですか」仁科英雄は放心していた。「早くログアウトしたいんですが、どうしたらいいんですか? むろん、別のところに移動するのでも構いませんよ。とにかく手首にコントローラーがはまっていないので、脱出の方法が分からないんです」
「当分この世界に留まるしかないと思いますよ」
林原がそう言うと、患者はひどく失望した様子を見せた。その訴えから、彼がひどい喪失感に苛まれており、統合失調症を患っていることは明らかだった。
林原は思った。
結局、彼にとって現実はあまりに苦しみに満ちていたのだ。一方、エニグマの向こうには対照的な世界が広がっていた。そこには安らぎがあり、希望があった。そこに入り浸ることで、一時的に惨めな境遇を忘却の彼方に置き去ることができた。
だが、現実の辛さが直視できる範囲を越えた時、ふたつの世界の境界が崩れた。失業し、健康を損ない、愛する女性と離別した患者は、その現実こそが悪夢であり、逆に夢の世界こそが現実だと信じることで正気を保とうとした。ある意味、気を違えるという選択によって、彼は尽きることのない苦しみから自分自身を救ったのだった。
「先生」患者が言った。「今思いついたんですが、先生ってもしかしてプログラムキャラじゃないんですか?」
「どうしてそう思うのですか?」
「だって、先生はむやみに薬を処方せず、僕の話を真剣に聴いてくれる。そんないい先生が現実にいるとは思えない。だから、理想化された精神科医のキャラだと思うのです」
「ははは…」林原は軽く笑った。「でも今回はお薬を出しますよ、仁科さん。とりあえず、リスペリドンとハルシオンを…」
林原が目を離した隙に、患者は立ち上がり、窓に歩み寄っていた。
「ちょっと、何を…」
患者は窓を開けて、そこから飛び降りようとした。
林原は慌てて患者を引っ張った。床に叩きつけられた患者が何やら喚き始めた。察するに、この世界で死ねば「元の世界」に戻れると思い込んでいるらしい。
騒ぎを聞きつけ、受付嬢も飛んできた。ふたりで暴れる患者を押さえつけ、拘束した。
林原は電話をとった。
♦♢
「入院させましたよ」
「ああ、そうですか」
背広姿の男のそっけない反応に、林原は屈辱を感じた。しかし、それを顔に出すことはできなかった。
「惨めな現実をバーチャル、そして理想的なバーチャルのほうを現実と錯覚するようになりましてね。ま、別に珍しくもない症状ですが、彼の場合はとくに…」
「こっちとしては売上げがすべてですからね」ポセイドン社日本支社営業課の社員は少し苛立たしそうに遮った。「だから、下水処理はすべてそちらにお任せしてるんです」
下水! この若造め、と林原は心の底から憤った。
「つまり、それだけ御社の製品が凄いと言いたかったのですよ、西田さん」
林原は笑みを浮かべた。貼りついたような笑みではなく、できるだけナチュラルなそれを浮かべることを意識して。とにかく仕事を回してもらっている以上、耐えるしかないのだ。地区の担当者は数年ごと変わるから、長くともあと一年半は我慢する必要がある。彼としては、後任者がもっとマシな人間であることを祈るしかなかった。
まだ二十代半ばの西田はメガネを直しつつ、傲慢をにじませた笑みを浮かべた。林原の卑屈な態度にいたく自尊心をくすぐられた様子だ。
ポ社と精神医療業界は深く関わっている。エニグマはユーザーの脳波や精神状態を常時、把握している。そのデータは通信回線を通して刻々と本社に送られている。精神状態の危ないユーザーは、いきなりそうなるのではなく、それ以前に傾向があり、徐々に症状が重くなる。そういった「危ないユーザー=潜在的患者」は自動的にリスト化され、営業課を通してその地区の精神科医たちに配布されるのだ。そのデータを元にすれば、林原たちも効果的な営業攻勢ができる。たとえば、ターゲットを絞ったピンポイントの電話・メールでの営業、そして電子広告などだ。仁科英雄もこうやって彼が獲得した患者である。
「おっ、きたきた」西田の目が突如として生気を帯びた。
座敷にビールが運ばれてきた。それからすぐに松坂牛のしゃぶしゃぶの皿が続いた。
「まあ、どうですか、一杯」林原はお酌をした。
より多くの顧客を回してもらいたければ、精神科医たちはその権限をもつポ社の担当者に気に入られる他ない。必然的に、接待漬けと両者の癒着が起こる。
西田はすぐに顔を赤らめ、機嫌がよくなった。高級牛肉を貪り、時おり盛大に笑う。
やがて、彼の雄弁はグチへと変わった。
「この『出会いプログラム』を企画したやつは大出世しましてね」ネクタイをだらしなく緩めた西田が妬みをあらわにした。「企画課のやつらは本当にいいよ、チクショウ…。おれも企画課に行きたいなあ…。でもそのためには何か斬新なことを考えないとなあ…」
ここからが精神科医としての本領発揮である。エリートぶっていても、しょせんは若造だ。一流大学の出身者として幹部候補生だとおだてられて入社してみたものの、いざ巨大企業の一員になってみれば現実がそう甘くはないことを思い知らされる。上司に顎で使われる毎日だ。自分はもっと上に行ける能力があるはずだが、それにふさわしい待遇を受けていないと信じている。実質下請け業種といえる林原たちに対する傲慢・慇懃無礼な態度もその裏返しにすぎない。会社の力を完全に自分の力と錯覚しているのだ。
林原はいつものとおり、悩みを聴いてやった。何度も酒宴を供にするうち、社内のいろいろな極秘の話も教えてくれる。この「出会いプログラム」のことも、そのひとつだ。
これはユニヴァースの中でいつも単独行動している孤独なユーザーを自動的に見つけ出し、異性との「出会い」を演出するものだ。エニグマはユーザーの脳波・心拍数・血圧などを常時モニターしているから、彼がユニヴァース内でどんな異性を目撃した時に興奮したかを余すところなく記録している。このプログラムは、その膨大なデータの中からユーザーの好みの異性を割り出し、数百ある人格プログラムの型を組み合わせて自動的にひとつのキャラクターを作り上げる。あとは、偶然を装った「出会い」を演出して、両者の関係が終焉するまで働き続けるという仕組みだ。
ターゲットにされたユーザーは、実在しないプログラムキャラクターの中に理想の異性像を見出し、のめりこんでいく。プログラムの擬似人格自身にも学習能力があり、ユーザーとの会話などを通して、その立ち振る舞いをますます洗練させていく。こうして、近年開発されたこの悪名高いプログラムは、ヘビーユーザーを次々と増やしていった。
「しかもですよ、どうやらその出会いの際に快楽中枢を刺激しているらしいんですよ」
西田はビールの入ったグラスを手に持ちながら、アルコールで赤らんだ顔をしかめた。
「ほう…」
「そのプログラムキャラと出会うたびにドーパミンの放出が促されるわけでしょ。つまり、麻薬と同じってわけです」西田は自分の頭を指で突付いた。「だから、脳はその異性とどうしても会いたがる。ユーザーが依存患者になるのは当たり前だ、ヒック…」
「さしずめエニグマ中毒ですね」この仕事を引退する時には復讐を兼ねて必ず匿名で告発してやると林原は固く心に誓った。
結局、彼の患者が必死で追い求めていたものは幻だったのだ。だが、惨めな現実から逃れようとするその必死の想いすらも、ポ社はビジネスの種としてしまう。エニグマの登場以来、精神科医は繁盛しているが、とくに孤独な男女をターゲットにしたこのプログラムが普及して以来、相談者がひっきりなしだ。まさにユーザーを骨までしゃぶり尽くす商法である。もっとも、そのおかげでこっちも仕事が繁盛しているわけだが。
林原はふと十数年前のエニグマを思い出した。
当時のユニヴァースはもっと粗雑だった。一見してCGと分かるそれの粒子は粗く、本物の質感に欠け、感覚の再現もお粗末なものだった。お菓子や果物はその種類にかかわらず何を食べても甘さの濃い薄いの違いでしかなかった。登場するプログラムキャラもその仕草や表情が人形っぽい。嗅覚もよく欠けていた。
事故も少なくなかった。初期型にはオートログアウトの機能がなかったため、エニグマに繋がったまま心臓マヒや精神錯乱を起こしてあの世に逝ったユーザーもいた。なにしろ、リンゴひとつ再現するにも膨大にして緻密なプログラムが必要だ。リンゴの鮮やかな赤、つやつやとした光沢、手触り、甘い香り、噛んだ時の食感、そして蜜と酸味の融合した特有の味。そのすべてを再現するためには、関係する脳のあらゆる部分に細かな信号を送らなくてならない。そんなことは不可能だとする向きもあったが、結局、ポ社は莫大な開発費を投入した末、やり遂げた。
かくして実際にはリンゴを食べていないにもかかわらず、ユーザーの脳は本当に食べていると錯覚するような、驚くべき電脳世界が生み出された。十年そこそこで長足の進歩である。
西田が酔った目つきで、林原に顔を近づけた。
「とにかく先生にはどんどんデータを回しますから、びしびし治療をお願いしますよ。世間が騒ぎ立てるのをなんとしても阻止しろというのが本社の至上命題ですから」
♦♢
翌朝。林原の前に、四十代の女性が腰かけていた。げっそりとしている。先日、林原のほうから携帯電話にメールを送り、反応が返ってきた客だ。
「彼が会ってくれないんです」
「ほう…それはまた」
「もっとも彼といっても、あの、その…」
「エニグマの中で出会った男性ですね」
女性は頷いた。
(了)