みなさん、こんにちわ。
前回は「四書」の一つである『大学』について触れました。
一身の修養と「徳治」を説いたものでした。
今回は『中庸』のほうを簡単に紹介したいと思います。
すでに『中庸』の一節である「九経」は紹介しました。
天皇陛下が知らず知らずのうちにこの「九経」を実践なさっているのではないか。だから日本の社会が安定しているのではないか・・そういう説でした。
それをメディアが粛々と報じてきた。直接的・即効的影響はないけれど、その活動がじわじわと国民に浸透し、現代的な「君民直結」のモデルが出来上がったのだと。
人間が生まれ持つ「本性」と「天の働き=誠」という考え方
実は、この「九経」以外にも、「ほうこれは」と思った一節が『中庸』にありました。もともとはそれを紹介したくてこの種の記事を書き始めたわけですが、その前に『中庸』とは何かという点について、改めて簡単に触れておく必要があるかと思います。
と言っても、例によって金谷治先生の『大学・中庸』(岩波文庫)からの受け売り。
朱熹によると、この『中庸』こそが古代から連綿と受け継がれた道の正統。「四書」の中で『中庸』は最後に学ぶべきもっとも深遠な内容であるとされました。
『中庸』には「性」(本性)と「誠」という二つの重要な哲学があります。
本文の冒頭に、「天の命ずるをこれ性という」とあります。これは人の本性のことで、天によって定められたものであり、その「性」に従って生きることが「道」です。
当然、本性とは「本能」のことではなく、人が持って生まれた善の性質のことです。だからこのような考えは孟子にもある性善説に拠って立っている。
以下現代語訳です。
天が、その命令として〔人間や万物のそれぞれに〕わりつけて与えたものが、それぞれの本性(もちまえ)である。その本性のあるがままに従っていく〔とそこにできあがる〕のが、〔人として当然にふみ行うべき〕道である。その道を治めととのえ〔てだれにも分かりやすくし〕たのが、〔聖人の〕教えである。道というものは、〔いつでもどこにもであるもので〕ほんのしばらくの間も人から離れることのないものである。離れられるようなものは、真の道ではない。(『中庸』第1章)
このような考えは、後半に登場する「誠」という考えと結びつきます。
「誠」といえば、新撰組の隊旗を思い出しますが、事実「中庸出典説」があるようです。
「誠なる者は天の道なり」の一節から始まる文章です。
誠とは天の働きとして窮極の道である。その誠を地上に実現しようとつとめるのが、人としてなすべき道である。誠が身についた人は、努力しなくともおのずから的中し、思慮をめぐらさなくともおのずから達成し、自由にのびのびとしていてそれでぴったりと道にかなっている。これこそ聖人である。誠を実現しようとつとめる人は、努力をしてほんとうの善を選び出し、そのうえでそれをしっかりと守ってゆく人である。(『中庸』第11章)
「誠」とは天の働き。よって、天が命じて人に与えた本性とは「誠」に基づくもの。人はこの誠を地上に実現しなければならない。それが人としてのなすべき道。
こうして、「性」(本性)と「誠」の哲学が融合するわけです。
しかも、この「誠=天の働き」と合致した人は、努力なく、考えもなく、常に正しい側につくことができる。その境地に入った人を「聖人」と呼ぶ。
ちなみに、一部のメディアや知識人によると、元文部科学省事務次官だった前川喜平氏がこの「聖人」であるらしい。ま、人それぞれの見方ですね(笑)。
知識人はいるが「聖人」がいない今の日本
さて、私が『中庸』の中で「ほうこれは」と感心した一節のことです。
それが「聖人」の域に到達すると、社会レベルの動向が前もって分かるという話です。いわく「至誠の道はもって前知すべし」から始まる以下の一節です。
最も完全に誠を備えた〔聖人の〕立場では、ものごとの推移を前もって予知することができる。国家が興隆しようとしているときいは、きっとめでたい前兆(まえぶれ)があり、国家が滅亡しようとしているときには、必ず不吉なきざしがあって、それは卜筮(ぼくぜい)の占いにあらわれたり、重要な人物の挙動にあらわれたりもする。〔そこで〕禍いや福がやって来る前に、〔福のもとになる〕善いことも、〔禍いのもとになる〕悪いことも、必ず前もって見抜くのである。だから、完全に誠を備えた境地では、〔そのはたらきは〕まるで神霊のようである。
先生はいわれた、「神霊のはたらきというものは、いかにも盛んだね。形を視ようとしても見えないし、音を聴こうとしても聞こえないが、〔それでいて〕どんな事物とでもすべて洩れなくいっしょになってはたらいている。天下の人びとに潔斎して身を清め、りっぱな礼服をつけて祭祀を受けつがせ、〔斎場の〕辺りいっぱいに満ちあふれて、人びとの頭上のあるかのようであり、また人びとの左右にあるかのようである」と。『詩経』には「神霊の降臨は予測できない。ましてや、それを嫌ってなおざりにできようか」とうたわれてもいる。
そもそも、微妙なことほどかえって明らかになり、誠があれば必ず隠れてはいないというのは、この〔神霊のはたらきの〕ようなものである。(『中庸』第13章)
最初これを読んだ時、「なるほど、オレは聖人だったのか!?」と思ったものです。
いやいや、それはウソ。冗談です。
まあ、国家人類の行く末となると、もはや天の計らいの域ですから、「誠=天の働き」と完全に一致したレベルの人なら「ものごとの推移を前もって予知することができる」というのは、理屈としては通っているわけです。
私が驚いたというか感心したのは、そういう聖人が国家の興亡すらも事前に見抜くこと、またそれを目に見えない神霊の働きのごとくと『中庸』が論じていることです。
というのも、「儒教は形而上について語らない」という誤解がかなりある。
しかし、実際には、「天」や「誠」や「神霊」のように、目に見えない世界とその働きを想定し、そこに絶対的な規範を求めて、根本的に依拠している。
そう考えると、儒教は宗教に値しないという説が多いが、実際にはやはり宗教の一種ではないかと考えられる。しかも、この「天」は「神」の概念にかなり近い。
あまりに政治について論じ過ぎているから、現世的な内容一色と誤解されている。
また、上の一節を読んで、私がつくづく感じたのは、今の日本には知識が一杯詰まった人や「モラル」を掲げる人は掃いて捨てるほどいるが、「聖人」が不在なこと。
私はしばらく「誰か聖人はおらんのか?」と考えましたが、思い当たる人がいない。
さて、ここ何回かにわたって儒教を取り上げてきましたが、その理由として、石平氏の記事も一つのきっかけですが、近年、妙に儒教を小馬鹿にする人が多くなってきた風潮に対して、私が常々疑問を感じていたこともあります。
とくに保守派の一部には、「儒教は中韓民族のメンタリティの基になったくらいだから駄目なんだ」という、中韓批判と絡めた主張を展開する人もいる。
その当の韓国でも「朱子タリバン」などと嘲笑する者がいたりする。
つまり、儒教≒東アジアの悪しき精神的伝統、迷妄・迷信の類い・・というわけです。
本当にそうでしょうか? そう言うアナタは本当に儒教を知っているのか?
私は読んでみて、逆に「うむーっ」と感心することが多かったですね。
むしろ、今まで自分の中で過小評価していたと、反省したくらいです。
幸い、日本では、官製「孔子学院」などというものに行かなくても、岩波文庫がある。「儒教だけ」でも駄目だが、儒教が欠けていてもよくない。
儒教は決してオワコンではないのです。