さて、儒教の話をしていたら、天皇制の脇道に反れてしまった。
少なくとも私は儒教を勧めますね。とくに政治家は学んでほしい。
南宋の朱熹が大成した朱子学においては「四書」が定められ、そのうち『論語』『孟子』は比較的知られていますが、『大学』と『中庸』の内容はそうではない。
しかし、江戸時代の(上級)武士は『大学』『中庸』もしっかり音読して学んだ。
私も金谷治先生の『大学・中庸』(岩波文庫)から全面的に学んだ側なので、あまり偉そうなことは言えませんが、ごく簡単にどのような内容かを説明したい。
金谷氏は『大学』の要点を次のように記します。
「己れ一身の修養を基盤として天下国家の統治を目指すという『修己』と『治人』との組織的な連携統一であて、それこそが大学教育の目標」
これでは分かりづらいですが、「修己」とは己自身の修養のこと。昔から讃えられてきた聖人の徳を学んで身につけることです。そして「治人」とは統治のことであり、要は民に親しい政治をしましょうという内容。この二つのことを「至善に止める」、つまり最高レベルに維持しようと努力しなければならないと、こう説いているわけです。
具体例として本文を紹介しましょう。
「聖天子の尭や舜は、自分で仁愛の徳を修めてそれで天下を統率したから、民衆もそれに従って仁愛を行い、暴君の桀や紂は、自分で暴逆を行ってそれで天下を統率したから、民衆もそれに従って暴逆を行った。しかし、君主の命令が君主のほんとうの好みとはうらはらだというときには、そんな命令に民衆は従わない。そこで、君子はまずわが身に徳を積んでからはじめて他人にもその徳を求め、まずわが身に不徳を無くしてからはじめて他人にもその不徳を非難する。」(『大学』第5章)
つまり、統治者が自ら模範となることに政治の根幹がある、というわけです。
明治くらいまではこの種の儒教的教養はまだ常識の範疇だったようで、人の上に立つ人ほど一身の修養を心がけたものでした。
「君子はまず何よりも自分の徳の充実に気をつけるのである。自分の徳が充実すると自然に民衆が帰服してくる。民衆が帰服してくると自然と国土が保持できる。国土が保持できるとそこで財物も豊かになる。財物が豊かであるとそこで流通も盛んになる。徳が根本であって、財物は末端なのである。根本のことをなおざりにして末端のことに力を入れたりすると、民衆を利のために争わせて、奪いあいを教えることになるのだ。そこで、財物〔に努めてそれ〕をお上の倉に集めたりすると、民衆の方は〔貧窮になって〕君主を離れて散り散りになるが、〔反対に徳に努めて〕財物を民衆のあいだに散らせて流通させると、民衆の方は〔元気になって〕君主のもとに集まってくる。そこで、道にはずれた言葉を口から出すと、また道にはずれた言葉が他人から返ってくるように、道にそむいて手に入れた財貨は、また道にそむいて出てゆくものだ。
康誥篇には「そもそも天命はいつまでも安定したものではない」と言われている。〔君主が徳を積んで〕善であれば〔民心を得て〕天命が得られるし、反対に不善であれば〔民心が離れて〕天命が失われることをいったのである。」(『大学』第6章)
どうですか、中国の儒家はすでに古代において、統治者にあっては「徳が根本であって、財物は末端」と喝破していたわけです。
有力な政治家や官僚が率先して利を漁り、税金を重くして過度に民の財物を取り上げたりすると、民心もまた荒み、国が乱れてくるわけです。
私は以前に「安倍さんも鳩山さんも実はボンボンという点では似ていて、庶民の暮らしが肌で分かっていない」と記しました。
千円以下の時給で必死に働いている何百万人もの労働者たち。ただでさえ少ない収入なのに、なおも税金・年金・医療保険費・NHKの名目で抜かれていく。
ここ30年、なんとOECD諸国の中で日本だけが所得が下がっているそうです。
自民党は現在、政権を担当しているから、より厳しい目で見られるのは当然のことでしょう。総理以下、政治家は今一度『大学』を学び、「徳治」を心がけてほしい。
でないと、「天命が失われる」ことになりますぞ。
あまりグチりたくないが、与党にも野党にもあまりに「人物」がいない。本当は天も日本の政界に命を授ける相手がいなくて、困っているのかもしれない。
次回は『中庸』のほうです。
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