さて、これまで、人が物語(フィクション)に魅了される背景には、驚くべき秘密が隠されていることを述べてきました。
疑似体験ができるから、又はその種の体験をするために、私たちは物語を鑑賞したいと思うわけですね。疑似体験ゆえに「面白い」と感じる。
しかも、それにはこの世界が創造された秘密までが関わってくると。
本当は、私たちの人生そのものがある種の疑似体験に他ならない。なぜなら、インドの深い英知が教えるように、世界に何が起ころうとも、自分がどんな目に合おうとも、真の自分(=アートマン)は何ら影響を受けることがないからです。
まさに疑似体験することが、神様がこの世を創った本当の理由に他ならないと述べました。つまり、疑似体験をしたいがために、わざわざこの仮想の世界を創造した、というわけです。
そして、「一」が「多」となって、その中にログインしているのです。それが私たちであるらしい。どうやら「一」を目指してまた回帰するという謎ゲーム(?)をやっているようです。
要は、人生も、世界の創造も、究極的にはただのゲームなんですね。
私たちはそのことを忘れていますが、いずれ神と合一した時に思い出すでしょう。
すべては「戯れ」(リーラ)なのです。
根本的にはただ遊んでいるだけであり、それが神様なりの退屈しのぎというわけですね。
それが太古のヴェーダ哲学が教えるところなのです。
生きる意味はSONYのプレイステーションが教えてくれる!?
さて、生きることと、物語を鑑賞することが、共に仮想世界を疑似体験する行為に他ならないとしたら、私たちが抱えるある難問を解決する上で、重要なヒントになります。
それは「何のために生きているのか」「人生の意義や目的とは何か」という、誰もが人生においてぶち当たる大問題です。
人生を「面白い」と思うことと、物語を鑑賞して「面白い」と思うことは、本質的には何ら変わりありません。人生もしょせんは“限りなくリアルな架空のお話”です。
ただし、あまりにリアル過ぎて、私たちはそれをリアルそのものだと錯覚しているにすぎません。その意味では、よく出来たVRのビデオゲームと本質的に違いません。
実は、これがヒントなわけです。
たとえば、ゲームの世界の中で、あなたはひたすら仮想通貨を貯めこもうとしますか。
ゲーム内の富や地位に目が眩み、その獲得に血筋を上げますか。
そのために人を騙し、傷つけ、蹴落としますか。
「安楽なのがいい」といって何もせずにゴロゴロと過ごしますか。
人々から孤立していて楽しいですか。
ゲームの中でそんなことをしていてもちっとも面白くないでしょう。
いや、そんなことしても少しも楽しくないどころか、第一、「プレイ」にすら値しない行動だと、誰もが考えるでしょう。
でもそれは、ゲームの世界だと分かっているから、です。だから、人はなんとかゲームを楽しもうとします。
言い換えれば、できるだけ、精一杯、疑似体験しようとするわけです。
仲間とコミュニケーションし、強い敵と戦い、様々な困難にチャンレンジし、いろんな出会いや冒険を果たし、ステージを上げ、なんとかゲームをクリアしようと努力する。
とにかく、そうやって何でもいいから、全力でチャレンジし、ゲームの世界を経験しようとする。
ゲームを創る側も当然それを心得ていて、プレイヤーができるだけ動き回って、エキサイティングな体験をできるようにして、あえて逆境にさらされるように設計します。それを克服していくことがゲームを楽しむコツだと、心得ているからです。
仮に私たちが現実と信じ込んでいるこの世界もまた仮想のものに過ぎないとしたら、同じことが言えるのではないでしょうか。要はその「ゲーム」のところを「人生」に置き換えればいいだけです。
すると、人生を楽しむコツが分かってきます。
あなたは何のためにゲームをしていますか?
なんのためにプレイステーションの電源を入れて画面へと向かいますか?
その動機を、自分に問うてみて下さい。誰もが「遊ぶため」とか、「楽しむために決まっているじゃないか」と、答えるでしょう。
究極的には人生の意義や目的もまったく同じなのです。
人生の最高の瞬間は「無我夢中」「完全燃焼」「一心不乱」「脱魂」
「遊ぶ」「楽しむ」という表現には誤解を受けやすいものがあります。先述したように、人間の本質にとっては「苦」でさえもまた一つの充実した生の経験なわけです。
その意味では、幸も不幸も等しいのです。ブッダもそう説いています。
大事なことは、結果がどうあれ、精一杯ゲームをするように、精一杯「生きる」ということです。
禅問答みたいになりますが、まさに「生きるために生きる」とか「体験するために体験する」ことが、人生の本当の意義や目的です。そういう疑似体験そのものが神にとっては最高のエンターテイメントになるわけです。
とりわけこの物質世界はゲームとしてよくできている。生きるために自然界に働きかけて衣食住を確保しなければならず、個人としても社会としても闘争が付きものですから、非常に難易度が高いというか、よく出来たサバイバル・ゲームというふうにも言えるでしょう。
実は、神の本来の性質がもっともよく現れているのが小さな子供たちです。
大人たちのように打算から人と付き合うこともなく、誰とでも心から打ち解け、夢中になって遊びます。ですから、大半の人は、子供時代が一番幸福だったと述懐します。
しかし、私たちは、大人になるにつれ、様々な社会のしがらみに捕らわれ、他人を地位や収入で値踏みするようになり、次第に「純粋に遊ぶ」という行為を忘れてしまいます。
幸福の鍵は小さな子供時代の思い出にあります。私たちは今一度、何かに無我夢中になった時のことや、時間を忘れて一心不乱に遊んだ時のことを思い出しましょう。
その時、あなたの中の神の性質(内在神)は、まさにこの瞬間のために世界を創ったのだと、大喜びしていたはずです。この瞬間のためにログインして来たのだと、狂喜しているはずです。
人生の意味はそこにあります。同じことはむろん大人にも当てはまります。
人生の極意とは? そして本当の意味での「成功者」とは?
むろん、大人がカブトムシ取りや砂場いじりに夢中になるわけにはいきません。ですから仕事や趣味、また日常生活や日々の予定の中に、何か時間を忘れて集中したり取り組んだりできることを見つけましょう。
その中に好きなドラマを見ることやゲームをすることを付け足しても何ら構いません。
そうやって、何かに夢中になれる瞬間が増えるほど、あなたがこの「世界ゲーム」「人生ゲーム」を思う存分楽しんだ証ともなります。
あえて困難な目標にチャレンジして、完全燃焼してみることも、また“ゲーム”の醍醐味です。結果ではなく、それ自体が人生の成功を意味するのです。
たとえ金銭的な実りや地位といった世俗的な成功をもたらさなくとも。
むしろ、それに執着し、始終気にかけていたら、心の底から無我夢中になれるでしょうか。
かのバガヴァッド・ギーターも「果実を考えることなく行動せよ」と説いています。
だから、本当は、己の義務や使命を見出し、それに打ち込むことができる人こそがもっとも幸せであり、人生の真の成功者と言えるのです。
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