みなさん、こんにちわ。
私がオウム関係の陰謀論というか裏情報で「これはすごい」と感心したのが、かつて高沢皓司(たかざわこうじ)氏が「週刊現代」誌上で連載した「『オウムと北朝鮮』の闇を解いた」シリーズです。改めて調べたら、1999年8月~10月にわたる連載でした。
ウィキペディアによると以下のような経歴の方です。
高沢皓司(たかざわこうじ、1947年 – )は日本のジャーナリスト。
大阪府生まれ。関東学院大学在学中、全共闘運動に参加。その後、記者、編集者を経てフリージャーナリストとなる。1990年以降北朝鮮を数度訪問し、よど号グループへの取材を行う[1]。1999年『宿命』で講談社ノンフィクション賞受賞。そのほか、中国やカンボジアへも取材に赴く。現在は時折拉致被害者家族の集会等で講演を行なっている。
どうも高沢皓司さんというのはペンネームのようです。上にあるように、もともとは新左翼であり、共産主義者同盟(ブント)や赤軍派の一員でした。
高沢氏の「『オウムと北朝鮮』の闇を解いた」シリーズは、北朝鮮がオウムの内部に潜入して教団を操り、様々な工作を実施していた事実を暴露する衝撃的な内容です。
このことはむろん、オウムの裁判記録には登場しません。
ですから、ジャーナリストの江川紹子氏は「事実関係はほぼ解明された」とおっしゃっていますが、私は核心部分が隠蔽されたと感じている。
最近、私は次のような推測を記事にしました。
拘置所で規則正しい生活を強いられている40歳そこそこの麻原が、病気でも、物理的に頭を打ったわけでもないのに、ある日突然、まともに会話ができなくなった・・。この不自然さ。致死性ではないが、精神を破壊する何らかの毒物を盛られたのではないか。
もっとも、麻原彰晃は、家族を人質に取られているも同然なので、ずっとノーマルな状態だったとしても、背後組織の存在を明らかにできたかどうかは疑わしい。
同様のことは早川紀代秀、林泰男、井上嘉浩、新実智光、土谷正実、そして上祐史浩にも言える。どの人物にも家族親戚がいるし、村井秀夫の暗殺を見せ付けられている。
だから、彼らはオウム以外の組織の名を口外することができない。そして、そのことが語られないまま、教祖以下、主な幹部はすべて死刑になってしまいました。
それゆえに、映画監督の森達也氏らによる「オウム事件真相究明の会」が、どういった真相を念頭に置いているのか、北朝鮮の闇に触れる覚悟があるのかどうか分かりませんが、私自身も事件の全容は解明されていないと感じているわけです。
高沢氏の「『オウムと北朝鮮』の闇を解いた」シリーズはそれに迫るものです。
今回、私は複数の出版社に高沢氏の連絡先を尋ねましたが、かなり以前から連絡を取っていない、つかない、とのことでした。当時のケータイ番号は当然ながら繋がりませんでした。しかし、これは物凄い情報なので、もっと世間に広まるべきです。また、高沢氏の記事が様々なサイトに転載されてからすでに15年以上も放置されている。
以上のことから、その公益性を鑑み、「著作権者の高沢氏からの抗議が来たらすぐにやめる」ことを条件にして、勝手ながら当サイトでも転載させてもらうことにしました。
全11回です。
まさに「事実は小説より奇なり」を地でいく話です(*赤字強調筆者)
(以下引用)
高沢皓司「『オウムと北朝鮮』の闇を解いた 1」――麻原彰晃被告の側近は「北朝鮮潜入工作員」だった!(週刊現代 1999年8月21日号)
高沢皓司(ノンフィクション作家)
オウム真理教と北朝鮮の間に密接な関係があるのではないか、という疑惑は根強くあった。この疑惑は、ある意味で真実であり、ある意味で間違っていた。というのも、オウムは秘かに潜入した北の工作員によって、利用されていた可能性が高いからだ。
事件の根底からの見直しさえ迫られる衝撃のレポート!
「よど号」田宮高麿の証言
「筋がちがう……」
そのひとことを聞いたとき、私は自分の耳を疑った。
オウム真理教の一連の衝撃的なテロ事件の背景に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が絡んでいるのではないか、とする噂は事件当時からいくつもあった。そのことを北朝鮮にいた「よど号」ハイジャック・グループのリーダー、田宮高麿(故人)にぶつけてみたのである。
「どこかで『よど号』も、今回の事件に絡んでいるのではないのか?」と。
田宮は、「一連のオウムの事件にわれわれが関係しているのではないかという噂もあるようだが、関係などない」と答えたあと、ポツリ、と冒頭のような一言をつけ加えたのである。
その衝撃的な言葉を聞いたのは、1995年6月。サリン事件をはじめとする一連のオウム事件から2ヵ月近く経ったときのことだった。場所は北朝鮮の首都・ピョンヤンにある「よど号」グループ事務所の一室でのことである。
田宮の言葉は、ふたつの「真実」を伝えていた。ひとつは、われわれはオウム事件に関与していないという釈明、もうひとつは、関与したのはわれわれではない、という肯定的な意味あいである。
北朝鮮の工作組織にはいくつかの指揮系統(筋)がある。田宮は「(われわれの指揮系統とは)筋がちがう」ということを言っていたのである。
しかし、田宮の衝撃的な一言は、私のなかに重く錨を下ろしたように残りつづけたが、その言葉の落ち着き先はなかなか見つからなかった。
ところが、最近になって不思議なことに気がついた。私は昨年、「よど号」のハイジャッカーたちの嘘と海外での秘密工作を暴いた『宿命-「よど号」亡命者たちの秘密工作』という本を書いたが、この本に反論する政治的なパンフレットが北朝鮮で出版されている。
執筆しているのは、当然のように「よど号」グループのメンバーたちだが、奇妙なことにそのパンフレットのなかでたびたび言及されているのが「よど号」=北朝鮮とオウムは無関係であるという主張なのである。
不思議なことは、私がその本のなかでオウム教団と北朝鮮の類似についてふれているのは、500ページを超えるその本のなかで、たったの一行なのである。過剰といえば、あまりにも過剰な反応と言わざるを得なかった。
私は、あらためてオウム真理教と北朝鮮の類似に考えをめぐらさざるを得なかった。そして、一連の事件と「よど号」グループとの関係についても、である。
オウム真理教の一連の事件の背景には、たしかに北朝鮮の影が何度も見え隠れしていた。
教団幹部・早川紀代秀「建設省」長官に、数次にわたる訪朝歴があるのではないか、あるいはグルと呼ばれた教団の教祖・麻原彰晃(松本智津夫)の出自(実際、渡韓して調査にあたったマスコミもあった)、教団と北朝鮮の間での覚醒剤取引疑惑、統一教会との関係、教団大幹部だった村井秀夫「科学技術省」長官刺殺事件の実行犯・徐裕行の北朝鮮人脈と背後関係、そして国松孝次警察庁長官狙撃事件。荒川区の事件現場にはなぜか、北朝鮮人民軍のバッジが落ちていた……。
しかし、いずれもオウム真理教と北朝鮮を直接結びつけるには、これといった裏付けに欠けていた。「疑惑」の領域を出ることはできなかったのである。
だが一連の事件から4年を経たいま、われわれ取材班はこの「疑惑」の核心に迫る、決定的なキーマンがいたことを突きとめた。
村井に重用されて、武器製造に携わった
この人物は日本人ながら、北朝鮮と極めて深い関係を持っている。そして、一連の事件が起こる数年前にオウムの出家信者となり、幹部にのぼりつめていた。そして、麻原ら幹部が逮捕された後、なぜかオウムを脱会していたのだ。
オウムと北朝鮮の関係について、これまでわれわれは大きな勘違いをしていたのではないか。つまり、オウムと北朝鮮はもともと密接な関係にあったのではなく、北から潜入した工作員によって、オウムがうまく利用されていたふしがあるのである。そしてこの「北の工作員」の一人こそが、われわれが突きとめたA(46歳)という男なのだ。
オウムが北朝鮮に利用されていたとしても、もちろん麻原以下オウム幹部が犯した凶悪犯罪が免責されるわけではない。だが、一連の事件の中でも特に深い謎が残ったままの村井幹部刺殺事件、国松警察庁長官狙撃事件などについては、根底から事件の本質を見直さなければならないかもしれない。
私と取材班は、これまでに日本国内はもちろん、ヨーロッパ、アメリカヘも飛んで取材を進めてきた。A本人にも接触している。その中でわれわれは、驚くべき事実に遭遇したのである。
Aがオウム真理教に出会ったのは1980年代の末、海外でだった。Aは東京に住んでいるが、当時は一時的に旅行関係の仕事をしていたこともあり、度々ヨーロッパヘの渡航歴があった。
しばらくしてAはオウムに入信する。’89年(平成元年) 12月のことである。しかしAは、入信後もそのころ滞在していたスペインに留まっている。
Aがモスクワ経由で日本に帰国するのは’92年(平成4年)5月、’93年にはオウム「科学技術省」で活動しているところが捜査当局にも確認されている。翌、’94年(平成6年)2月5日に出家、出家後はオウム「科学技術省」で活動していた。
最初は第8サティアンで総務の仕事を担当したり、ヘッドギアの基盤をつくる仕事をしていたらしいが、村井幹部の声がかりで、山梨県富沢町にあった「清流精舎」と教団内では呼ばれていた施設に移っている。
オウムはこの施設で、ソ連をはじめ旧共産圏の軍隊で広く使われた「カラシニコフ(AK74)」型自動小銃等を密造していたと見られ、銃身内に旋条と呼ばれる溝を彫る「ブローチ盤」など特殊な工作機械を備えていた。つまり、サリンを作っていた第7サティアンと並んで、教団武装化の最重要拠点の一つだったわけである。
Aは、この重要拠点へと選抜され、同年の9月には、「沙長」という、いわば中堅幹部の地位へと昇格している。「清流精舎」での活動内容についてはこんな証言がある。
「清流精舎では当時、自動小銃以外にもいろいろな装置の部品づくりも行われていましたが、最大の目標はやはり自動小銃。1000丁を目標に、工作機械10台と100名近いサマナ(出家信徒)とが投入され、尊師の肝入りで作業が進められていました。Aは設計図、人、機械とその全体の管理を任されていたのです。この仕事はかつて、古株の信徒が歴任してきたものの、誰一人として長く続かず、Aが抜擢されて、初めて落ち着き、作業もスムーズに進展するようになったのです。Aは人・物・時間等の管理能力に優れており、その点は省のトップの村井からも大いに評価されていました。尊師の覚えもめでたく、尊師の側にいることを許された幹部でした」(元信者)
つまり、Aは武器製造の担当責任者として高い能力を発揮し、その評価は教団内で著しく高かったのである。
チュチェ思想国際研究所に所属
しかし、Aはサリン事件をはじめとする一連の事件のあと、突然、オウムを脱会する。
周辺の友人には、「サリンを作っているなんてて、まったく知らなかった。あんなひどいことをする宗教だとは知らなかった。もうオウムとは訣別した。自分がオウムに入信したのは、人を助ける宗教だと思ったからだ。」と語っていた。
実家の両親も、そのあたりの事情をこう語っている。
「オウムに強制捜査が入って、やっと目が覚めたんです。出先で新聞や雑誌を読んでいるうちに、自分の間違いに気がついたようです。脱会したい、と言ったら、力ずくでも引き止められるのが分かっているから、本部の引き出しに脱会届を入れて、そっと抜け出してきたそうです。カネもなかったので、離婚した妻に電語をして喫茶店で待ち合わせ、カネを受け取って実家に帰ってきました」
’95年の7月22日の夜だった、という。
ここには、純粋な宗教心からオウムに入信したが、一連の事件で目を覚まし、自発的に脱会した、というストーリーが描かれている。
しかし、Aには当時のオウム真理教の仲間や信者たちが誰も知らない秘められた経歴があったのである。それは、私を驚かせるに十分なことがらだった。
Aがオウムに入信する直前の数年間の詳細は不明である。なぜなら彼は日本にはいなかったからである。しかし、いま判明している彼の経歴だけでも、十分に驚くに価するだろう。なんと彼の前歴は、チュチェ思想国際研究所の事務局員だったのである。
チュチェ思想国際研究所といえば、北朝鮮の指導的思想である「チュチェ(主体)思想」の宣布と、金日成主義の国際的なネットワークづくりを任務としている組織である。いわば、金日成主義者、チュチェ思想信奉者のあいだでも、一種のエリートであると言わねばならない。
金日成主義のエリートと新興宗教集団・オウム真理教どの組み合わせは、本来、水と油のようなものであるはずなのだ。なぜなら、北朝鮮の国家思想は、宗教をアヘンとして否定し、害毒を流すものとして規定していたはずだからである。
そのチュチェ思想のエリートたる国際研究所のメンバーだった人物が、身分を隠すようにしてオウム教団に入っていた、というのは穏やかではない。なぜなら、ふつう、チュチェ思想国際研究所のメンバーといえば、思想的に堅固で、金日成に対する忠誠心を持ち、優秀な理論活動をなしたものでなければならないからである。
また、諸外国の金日成主義者やチュチェ思想研究団体の横の連絡を任務とするため、いくつかの外国語にも堪能でなければならない。どのような苦境にあっても金日成首領を讃え、その思想を宣布し忠誠を尽くすものでなければならない。しかも、金日成主義者の常として、自らの思想を相手に理論的に説明するのではなく、知らず知らずのうちに誘導する技術を持っていなければならない。
北朝鮮へも度々渡航していた
Aの経歴をたどってみると、いくつかの新しい事実が分かってきた。Aは京都の大学に在学中に、このチュチェ思想と出会っている。大学在学中にチュチェ思想研究会(チュチェ研)に参加、和歌山方面でオルグ活動にも当たっていた。
「学生運動というよりは、チュチェ研の活動を熱心にやっていたはずですよ。チュチェ研が和歌山に支部をつくるというので、組織から指示されて和歌山にオルグに行っていた」(当時を知る知人)
’80年にはチュチェ研のメンバーとして訪朝、約1力月、北朝鮮に滞在している。
この訪朝は、現在判明しているものだけで’82年4月まで数度にわたり、そのうち長い時には約3ヵ月間にもおよんでいる。さらに、それ以降もモスクワを経由してたびたび長期間の海外渡航をくり返していた。
これまでに判明しているだけでも、次のような渡航歴が明らかになっている。
1980年6月26日~7月23日、北朝鮮に渡航。
1982年4月1日、キム・イルソン研究会として訪朝。
1986年8月、モスクワ経由で出国。
1987年2月、モスクワ経由で帰国。
1987年3月、モスクワ経由で出国。
1987年8月、モスクワ経由で帰国。
1987年9月、モスクワ経由で出国。
1989年8月4日、スペインから帰国。
同月23日、スペインに出国。
その他、この時期に限ってもロンドンヘの出国、帰国、マドリード、モスクワヘの出国、帰国がくり返されている。この時期はまだ旅行関係の仕事は始めておらず、きわめて不審な渡航歴と言わざるを得ないのである。
さらに’80年代中期からは、たびたびスペインでの足跡が確認されている。当時、スペインには北朝鮮の工作拠点や、「よど号」グループの活動拠点があったことを考えあわせると、直接の北朝鮮渡航ではなくても疑惑はふくれ上がる。
また、Aが最初に活動していたチュチェ思想研究会(尾上健一主宰)は、日本の金日成主義者たちの組織で、その組織はきわめて不定型であり謎の組織とも呼ばれているが、日教組や保母、看護婦などの職場にも活動をひろげ、小中学校の教諭を中心に日本教職員チュチェ思想研究会などの組織も擁している。
この研究会の主要メンバーであった複数の女性活動家が、現在は北朝鮮で「よど号」グループの「妻」として相変わらず北朝鮮賛美のプロパガンダ活動を行ってもいる。
実際、Aの元「妻」(46歳)は、このチュチェ思想研究会の幹部活動家のひとりで、「よど号」の「妻」のひとり金子恵美子とも親密な関係にあったことがわかっている。
ではAは、なぜオウムに入信していたのか。いろいろな背後関係が判明してくると、Aの語っているように素朴な宗教心からこの新興宗教教団に入信したのだとは、どうも考えにくい。Aのオウム潜入は、北朝鮮の意志によるものではなかったのか? どうしても、この疑惑が浮かび上がってくるのである。Aのオウム入信は、偽装入信だったのであろうか?なんのために?
対日撹乱工作の予行演習か
北朝鮮には、金日成主義の用語でいう「領導芸術」という、人をうまく誘導していく技術がある。相手にそれと悟られることなく、人を動かしていく技術、一種のマインド・コントロールの技術と言いかえてもよい。もし、Aがこの技術をもって、潜入したオウム教団のなかで何人かの中心的人物を誘導していったのだとすれば、それだけで単純に解けるオウムの闇と謎がひとつだけは確実にある。
オウム真理教の一連の事件がおこり、オウムの名前が社会的にも知名度を高め、教団内部の事情がテレビや週刊誌のマスコミで紹介されるようになって、一番の驚きは、私の場合、それがあまりにも北朝鮮の思想、発想、機構、組織と似ているということだった。
他人をポアする(殺す)ことも、その人間を救済することなのだとする、あまりにも超主観的なオウム真理教の発想も、北朝鮮が日本人を「拉致」することは結局、その対象となった人間を「地上の楽園」たる北朝鮮に連れてきてやるのだから、いずれ相手からは感謝されるに違いない、という発想と酷似していたし、「尊師」という絶対中央集権の制度も、北朝鮮のそれと似ていた。
ものの考え方だけではない。事件の直前にオウム信者がよく口にしていた「米軍がオウム施設を狙ってサリンを散布している」という言い方のなかにも、「米帝憎し」とする北朝鮮的発想が入り混じっていた。そもそも「サリン」という言葉にしてからそうだった。
事件が起こってからにわかに「サリン」という言葉はふつうの言葉のように一般の人に語られるようになったが、それまで「サリン」という言葉は一般の人には馴染みのないものだった。たったひとつの例外、金日成主義者たちをのぞいては、である。なぜなら金日成主義者たちの必読文献であり数十巻からなる『金日成著作集』には、この言葉がたびたび登場し、金日成自身がサリン研究を呼びかけてすらいたからである。
では、教団内部に潜入した工作員(これはAひとりとは限らない)は、そこで何をしようとしていたのだろうか。どのような政治目的があって、秘密の潜入活動をなしていたのだろうか。
これを理解するためには、北朝鮮の対日工作の現状と目的を考えてみる必要がある。北朝鮮にとってもっとも有意義な対日工作の内容は、じつは日本撹乱工作なのである。朝鮮有事を考えたときに、その後方基地に位置づけられている日本で、種々の機能を麻痺させることは軍事的にも北朝鮮を非常に有利にする。
北朝鮮にいる「よど号」グループが「日本革命」の名のもとに工作活動をになわされているもの、内実はこの攪乱工作であった。それが、北朝鮮の意志であり、狙いであった。
オウムの場合もそのためにこそ、徹底して「領導」され、誘導され、利用され尽くしたとも言えるのではないだろうか。サリンをはじめとした一連のオウム真理教のテロ事件は、日本攪乱工作(クーデター工作)の、いわば一種の予行演習でもあり得たのである。
Aはこれら一連のオウム事件のあと、ひそやかに教団内部から姿を消した。素朴な宗教心からオウムに入信して、一連の事件のあと、自らその宗教に不信を抱き教団を去った、とするストーリーは、じつは、ひとつの工作実践が完了したあとの撤退、というふうには読み替えられないだろうか。
Aは、オウムを脱会後、すぐさま海外への頻繁な渡航を再開している。北朝鮮との接触をはかった可能性もないとはいえない。あらたな活動が再開されたとも言えるのである。そしてさらに取材をすすめると、北朝鮮とAのさらに驚くべき接点が見つかった。
(文中敬称略・以下次号)
■取材協力/時任兼作、今若孝夫(ジャーナリスト)
(以上引用終わり)
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