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次は金正恩だ――後継者を世界で最初に指摘した藤本健二氏

またまた「金正日の料理人」傑作選です。

金正日は四人の女性と子供を作っていますが、事実上の正妻が高英姫(コ・ヨンヒ)さんでした。かの吉永小百合に似ているとか。で、映画マニアの金正日は、吉永小百合を指して「日本で一番きれいな女優」と言っていたという。

(前略)夫人は在日朝鮮人の帰国者で、満寿台芸術団の元踊り子だった。部下たちは皆、「オモニ(お母さん)」と慕っていた。

高英姫夫人には、長男の正哲(ジョンチョル)、二男のジョンウンの他に、長女ヨジョンがいる。高英姫夫人は「奥様」、子どもたちは「王子様」「お姫様」と呼ばれていた。

(こうして見ると、金正恩は母親そっくりですね。誰ですか、金正恩の母は横田めぐみさんだとか言っているのは・笑)

 金正日には複数の妻がいると言われているが、男の子を産んだのはソン・ヘリム夫人と高英姫夫人の二人だった。ソン・ヘリム夫人の長男の金正男(ジョンナム)は、二〇〇一年五月の日本密入国に失敗し国外退去した事件以来、北朝鮮には戻れない状態となっている。

日本の入管で捕まったときの正男氏

(その最後。2017213日、マレーシア・クアラルンプール国際空港にて)

 そのため後継者には、高英姫夫人の長男王子・正哲が有力視されているとの説があるが、私はおそらくそれはありえないと思う。金正日は、正哲王子のことを、「あれはダメだ。女の子みたいで」と、よく言っていた。

一番のお気に入りは、二男の方だ。二男王子・ジョンウンは父親にすごく似ている。体型までも似ていた。ただし、二男の存在は表向き明らかにされていない。(後略)

この高英姫女史は、在日朝鮮人であるだけでなく、父は「日本軍協力者」の高ギョンテクなる人物らしい。当時、陸軍指定工場の上級管理職だったという。

王朝「正史」的には不利なためか、北朝鮮ではあまり公ではないらしい。

まあ、35年間の日本統治時代は、協力するのが当たり前だったわけで、とくに戦争中は日本人であれ朝鮮人であれそうしないと罰せられるのが普通です。

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金正恩の人となり、そして藤本氏とのエピソード

ちなみに、金正恩は1984年1月8日生まれ。ウィキペディアから紹介します。

済州島に出自を持つ大阪出身の在日朝鮮人の母親を持ち、幼少期から日本人の専属料理人、藤本健二が作った寿司を好んで食べ、当人自身も東京タワーに興味を持つなど日本文化に囲まれた状況で育った[10]。

1996年9月よりスイスに留学し、ベルンの国際学校で「パク・ウン」という偽名を使用しながら教育を受けた。国際学校には数か月しか在籍せず、隣接する公立小学校でドイツ語を学んだ[1]。(略)1998年9月、ベルンの自宅近くの公立中学校に編入[1]。スイス滞在中は北朝鮮の在スイス大使が目付け役として身辺の管理を行っていたほか、親戚の寄り合いがインターラーケンやレマン湖の別邸で行われることもあった[18]。2000年8月、夏期休暇が終わると公立中学校を退学して帰国した。(略)

日本語についても漢字の書き取りなどをしていたとされ[22]、来日経験もある。

ディズニーランドにでも来ていたのか、という突っ込みはともかく。

小学校の終わり頃から4年間、スイスに留学していたわけです。しかも、公立小中学校に学んでいた。東洋人は少ないから、目立ったと思いますが・・。

この帰国時期とはちょっとズレますが、藤本氏は次のエピソードを記しています。

二〇〇〇年の七月十六日、金正日一家と白頭山に登った時のことである。山頂に着くと霧が出ていた。

「向こうへ行こう」と弟のジョンウン王子に誘われ付いていくと、なんと小便をしようという。霧の中、私と王子は並んで連れションをしたのだった。王子に「見られませんか」と聞くと、王子は「見えないよ」と答えた。

その王子の優しさに触れ、感激したことがある。

ある晩、金正日と側近たちが外出することになり、私は招待所に残って王子たちの相手をしているようにと命じられた。しかも、所長の代わりに団長室で電話番をしろとのことだった。

二、三日すると、食事の時に飲むビールが切れてしまった。そのことを、私はうっかりジョンウン王子に話してしまったのだ。

それから数日後のこと、夜部屋にいると、誰かが私の部屋をノックした。出てみると、なんと王子が立っていた。王子はズボンの両ポケットからハイネケンの大ビン二本を取り出すと、「これを飲んで」と、私に差し出したのだ。

一人留守番をしていた私は、この時の王子の優しさが身に沁みて嬉しかった。涙が出そうになるほど感激した。

この「連れション」には、仲間であることを確認する儀式としての意味があるとも言われている。学校や職場などで、女性にも見られる現象です。

藤本氏に自らビールを差し入れた人物が、のちに人を殺すようになっていく。

二〇〇一年三月三一日、元山招待所内で、藤本氏は落馬事故を起した。

(前略)サングラスが割れ、顔がグチャグチャになっていた。駆けつけた医師に肩を担がれ、顔の消毒をしてもらったが、その痛いこと痛いこと。そんな私を、金正日はひどく心配し、医師に何度も電話で容態を尋ねてくれていたという。

ジョンウン王子もまた、心配して電話をくれた。私は、歩くことはできるので、センターまで王子に会いに行った。王子に向かって両手を広げて見せると、「藤本、サライッソヨ(生きています)」と言った。

三、四十分ほど話をしたあとで、ジョンウン王子は私に、

「藤本、今度日本に行っても、必ず帰ってこい」と言った。

「必ず帰ってきます。そしてまた、王子様とご一緒に馬に乗ります」

と言うと、王子と固く抱き合ったのだった。

もし北朝鮮がいまの政治体制を続けるのであれば、ジョンウン王子は次の将軍になるべき人である。そんな王子が、私にはいとおしく感じられてならなかった。

その晩、私は夢を見た。夢の中で、私は日本の旅館の板前として働いていた。そこに突然、ジョンウン王子が現れ、「藤本、一緒に共和国に帰ろう」と言うのだ。

私は、驚いて目を覚ました。全身が汗でびっしょりになっていた。

そして、この時の王子の「必ず帰ってこいよ」という声は、その後もずっと私の耳に残り続け、離れることはなかった。

金正日も、金正恩も、本当に藤本氏を気にかけていたのがよく分かります。

このように、藤本健二氏は、ジョンウンの実在を公にしただけでなく、他の機関やメディアに6~7年も先んじて、彼こそ金正日の後継者であると断言しました。

そして、「必ず帰ってこいよ」という夢の“お告げ”の通り、藤本さんは本当に北朝鮮へと旅立って行きました。今度こそ骨を埋める気なのかもしれませんね。

その後の金正恩――独裁者への道

さて、以上はまだ金正恩が、日本でいう高校生の頃です。その後にどういった経歴を辿っていったのでしょうか。やはりウィキペディアから紹介です、

2000年以降の動向はスイス時代と共に北朝鮮政府内の秘密事項として公にはされず、現在でも指導者就任から間もないこともあり部分的にしか報道されていない。明確なのは、父と同じく、北朝鮮内における最高の教育機関である金日成総合大学に在学していたことと、軍の教育機関である金日成軍事総合大学(党内の養成機関である金正日政治軍事大学とは異なる)で訓練を受けていたことである[27]。金日成総合大学では情報工学を学び、金日成軍事総合大学では砲兵指揮を専攻したとされている[28]。(略)

2010年9月27日、金正日は金正恩ら6人を10月10日付けで朝鮮人民軍の大将に昇進させる朝鮮人民軍最高司令官命令を発した[36]。そして9月28日に開催された朝鮮労働党代表者会において、金正恩は党中央委員に選出され、同日に開かれた党中央委員会総会で党中央軍事委員会副委員長に選出された[37]。これらの動きにより金正日の後継者としての地位が確定したとみなされている[38]。(略)

金日成大学で学んだあと、いきなり「人民軍大将」です。

そして、2011年12月17日、父親の金正日氏が死去する。1994年から約17年間にわたって続いた父の時代が終わると、北朝鮮の公式メディアは次のように発表。

金正恩はこの訃報において「卓越した領導者」と呼称され、金正日の政治的後継者である事が内外に示された[43]。(略)『労働新聞』は金正恩を「最高司令官」「将軍」と呼称し、翌日には朝鮮中央通信が「革命武力の最高指導者」と呼称[44]、また「不世出の先軍統帥者」とも呼称[45]するなど、軍事指導者であることも示された。

それからあとは、われわれのよく見聞きする金正恩です。

父親の側近だった張成沢はじめ、気に入らない幹部をどんどん処刑していく。

2013年2月の三度目の核実験強行からは、はっきりと中国とも仲たがいして、プチスターリン化していきます。2016年からは弾道ミサイル実験のラッシュ。

で、今では日本にとって「ナンバーワンの公敵」というわけです。

金正日の料理人―間近で見た権力者の素顔

文庫版 金正日の料理人 (扶桑社文庫)

金正日の私生活―知られざる招待所の全貌

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