将来の日本の首相として世界支配層に引き抜かれた人物、それが中曽根康弘だった

政治・社会
1985 G-7 Summit




冷戦末期には、レーガン、サッチャー、ゴルバチョフなどの大政治家が登場した。

中曽根康弘氏は当時のサミットの写真撮影の際、うまい具合にレーガンとサッチャーの隣に滑り込み、得意の英語で談笑してみせた(以下敬称略)。そのため、当時の西側の首脳としては、中曽根はミッテランよりもはるかに強い印象を世界中に与えた。

中曽根は今でも冷戦末期の政治家として世界中の人々の記憶に残っている唯一の日本の政治家だ。だから、今現在の世界の政治家たちから「大先輩」として有名で、非常に慕われている。このように世界的な政治家として名高い中曽根康弘。

だが、彼を西側の大政治家に引き上げたのは「誰」なのか、また彼の自尊心のために日本がどれほどの代償を支払ったのかは、ほとんど話題になることはない。



中曽根康弘が政治家になるまで

実は、中曽根康弘は非常に早くから世界支配層に引き抜かれた日本人である。

略歴をウィキペディアから借りる。

1918年(大正7年)群馬県高崎市に材木商の二男として生まれる。1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、内務省に入る。ただ時は太平洋戦争の直前。海軍主計中尉として任官し、すぐに戦争に赴くことになる。

中曽根は戦艦「青葉」に乗り、実戦を経験する。この辺は彼の『自省録』にも記されているが、僚艦が次々と撃沈されたり、戦友が戦死したりと、壮絶である。

余談だが、中曽根氏は『自省録』で次のように自身の戦争観を述べている。

私なりに大東亜戦争を総括するなら、次の五点に集約されます。

一、昔の皇国史観には賛成しない。

二、東京裁判史観は正当ではない

三、大東亜戦争は複合的で、対米英、対中国、対アジアのそれぞれの局面で性格が異なるため認識を区別しなければならない。

四、しかし、動員された大多数の国民は祖国防衛のために戦ったし、一部は反植民地主義・アジア解放のために戦ったと認識している。

五、英米仏蘭に対しては普通の戦争だったが、アジアに対しては侵略的性格のある戦争であった。

どうだろうか? 私はほとんど中曽根と考えを同じくするが・・。

終戦後、中曽根は内務省に復帰するが、日本の復興のために政治家になる決意をする。内務省を辞職し、1947年、衆院選挙に立候補して初当選。この時、28歳。

大政治家・中曽根康弘のはじまりである。

道徳再武装運動、ハーバード・サマーサミナー、そしてロックフェラー

さて、1950年、日本の財界人・労組幹部・国会議員など72名が「道徳再武装運動」(MRA:Moral Re-Armament)の国際チームの招待をうけ、西欧諸国を歴訪する。

この運動はスイス系アメリカ人の牧師が始めたとされるが、実際には世界支配層による西側諸国民への反共的思想工作であった。当時参加した人の体験談からすると、対日ということで言えば、どうやら労働運動に対する宣撫であり、また「戦後日本」の土台作りでもあったようだ。当時招聘された国会議員は7名。その一人が中曽根だった。

つまり、中曽根は議員になってほんの一、二年の間に、何らかの形で世界支配層のエリートか、又その日本人代理人の目に留まったと考えられる。

当然、彼らとしては、戦後の日本をハンドルしていかなければならない。二度と反逆できないよう、また命令通りに動くよう、躾けなければならない。そのためには、彼らのために忠実に働く将来の日本の指導者を、早い段階から育てておく必要がある。

おそらく招聘した側は、じかに中曽根なる青年を面接したかったに違いない。

スイスや英蘭のプロテスタント系貴族たちは、この30歳そこそこの日本人を見て何を思っただろうか。おそらく、日本人にしては長身で、端正な顔立ちであり、かつ戦争に参加した経験を持つ勇敢な青年ということで、それなりの可能性を見出したに違いない。

ちょうど、下関戦争で、かえって英国側が長州藩の幕僚たちに目をつけたように。

こうして“目をかけられた”中曽根が次に招待されたのが、1953年のハーバード大学のサマーセミナーであった。彼はここでまだ大学院生だったキッシンジャーと知り合い、デイビッド・ロックフェラーからもじきじきに歓待を受けた。

のちに世界支配層のカウンターパートである日本国際交流センターが、日本MRA本部と日米欧三極委員会の事務局を兼ねるようになる。公益法人・日本国際交流センターは非営利の民間交流組織という看板だが、設立者の山本正はメーソンでロックフェラーなどの世界支配層の日本側代理人であり、実際には英米系の支配層とその臣下側の日本人(のとりわけ有望な若手政治家)との間を取り持つ任務を果たしていた。

はっきり言えば、日本の若手エリートというのは、世界支配層の邸宅に招待して私的に接待してやれば、彼らの威厳と富のスケールに圧倒され、自分が支配者から選抜されたという特権意識を持ち、以後忠誠を誓うようになると、安く見られているわけだ。

戦後にそういう悪い前例を作ったのが、もしかすると中曽根康弘なのかもしれない。

正力松太郎と“平和のための原子力”

さて、中曽根よりも一歩早く国際勢力に取り込まれたのが正力松太郎(しょうりきまつたろう)だった。元内務官僚なので、中曽根の先輩にあたる。

正力はA級戦犯に認定され、巣鴨プリズンに収容された後、不起訴釈放となった。必ずしもそれだけではないが、引き換えに彼はCIAのエージェントになった。

このコースは、安倍総理の祖父の岸信介もほとんど同じと考えられる。

つまり、彼らの場合は、「縛り首か、それとも手下になるか」という選択を迫られたとも言えるが、ただ、日本の復興のためには米の属国になってその力を利用する他ないという公的な思考と、自らの権力のためという私利私欲の混在した複雑な動機だったのではないかと推測される。どんな人間も「時代性」の制約から逃れることはできない。

読売新聞を率いていた正力松太郎は1952年、日本テレビを開局した。1955年にはアイゼンハワーの国連演説に始まる「平和のための原子力」の対日キャンペーンを担う。

中曽根はこの正力松太郎の後輩に納まり、杉山隆男『メディアの興亡』によると、のちに読売新聞社長となる渡邉恒雄記者が両者の連絡役になっていたという。

正力が原子力推進のメディア部門を担当したなら、中曽根は政治部門を担当した。1953年のサマーセミナー渡米の際、中曽根は早くもアメリカの原子力施設に招待されている。彼は原子力予算や立法に尽力し、科学技術庁を作って、初代長官に正力を推薦した。

そして世界支配層は中曽根康弘という切り札を使った

さて、1955年から1973年まで日本は「高度経済成長」を迎えた。この期間、日本の実質経済成長率は年平均10%を超え、英仏独などの西欧諸国を次々と追い抜いて、アメリカに次ぐ世界第二位の経済大国にのし上がった。

経済大国として巨大になりすぎた日本に対する本格的な取り込みが始まった。1973年、デイビッド・ロックフェラー提唱の「日米欧三極委員会」が正式に発足する。

ちなみに、1970年には先の日本国際交流センターが発足している。

こうやって、GHQ以来、世界支配層がより直接的に日本をコントロールし始めた理由は何だろうか。一つの目的は「日本が戦後蓄えた富を収奪すること」であった。

その計画はまったく見えないところで周到に練られ、1980年代にレーガン政権が発足する頃にはすでに準備は整っていたというユダヤ人ジャーナリストの証言がある。

ここからは以下の記事へと繋がっていくので、詳細は省く。

日本のバブル経済を作り崩壊させた国際銀行家たちの巧妙な陰謀
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それは、今にして思えば、十年がかりで徐々に日本を罠へと追い込み、一挙に天文学的な資産を収奪するという、信じがたいほどの悪巧みであった。

しかし、それを成功させるには、アメリカの政治力だけでは駄目だった。日本側で然るべき人物が権力を握って一緒に踊ってくれない限り、成功は望めなかった。

それが、彼らが早くから将来の日本の首相として目をかけ、育ててきた中曽根康弘だったのではないか。事実、中曽根は自前の派閥を立ち上げ、首相になった。そして、はっきりと田中派と決別した。すべては強大な超国家勢力の後ろ盾があってのことである。

こうして、冷戦が実質終結した翌年の1990年、日本は第二の“負け戦”を迎えた。はっきりと“経済敗戦”が確定したのはそれから数年後のことである。

こんなふうにバブルを起して、一挙に刈り取るという行為は、実は、世界支配層が英米でずっとやってきたことである。そういう意味で英米国民もまた被害者である。

いずれにしても、焼け野原から復興を遂げた日本は、その巨大な富の多くを彼らに奪われてしまった。もしかすると、中曽根本人にはそんなつもりはなかったかもしれない。私も彼自身は全体の絵や計画は知らされなかったと思う。

つまり、彼も利用されたに過ぎない。だが、結果的にそうなった。そして、政治家は結果ですべてを判断されるものだ。中曽根にとっては不本意かもしれない。だが、本人の愛国の情とは関わりなしに、彼こそは戦後最悪の売国奴ではなかったか。

かくして、日本の国富を献上して、日本を弱体化させることに貢献した彼は、世界支配層から非常に高く評価されている。「元海軍軍人」とか「タカ派」というのは、格好のカモフラージュである。だから彼は「世界的政治家」という地位を与えられた。

興味深いことに、中曽根政権から約20年後、また同じ様な「小泉政権」という売国政権が誕生している。そして、さらにその息子が今、脚光を浴びている。

しかし、それはまた別の話として語られるべきだろう。

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