御諏訪太鼓から今日の組太鼓を創った小口大八

生活・雑学
「あれなるは勝頼が生まれ故郷の御諏訪太鼓でござる」 youtube Battle of Nagashino 1575より




前回の続きである。

世界に広まる組太鼓は、どうやら日本の「御諏訪太鼓」(おすわだいこ)をそのルーツとするらしい。それを1951年に小口大八(おぐちだいはち)が復興させた。

以下、ウィキペディア「御諏訪太鼓」より。

(略)起源は戦国時代にさかのぼる。戦国時代の武将、武田信玄は戦に際し、指揮・命令系統の重要性を認識し、その手段として和太鼓を用いていた。

武田信玄の配下には「御諏訪太鼓21人衆」と呼ばれる陣太鼓を奏でる者達がおり、これが現在の御諏訪太鼓の源流となっている。

その後、この御諏訪太鼓は武田氏の滅亡とともに諏訪地方において神楽太鼓として根付き、継承されていたものの、次第に廃れていった。(略)

御諏訪太鼓の代表的な曲としては「諏訪雷」「飛竜三段がえし」「阿修羅」「勇駒」「諏訪湖ばやし」「天鳴竜尾大神楽」「萬岳の響き」などがある。

このように元は武田信玄の「軍楽隊」が起源らしい。

そういえば、あくまでドラマであるが、長篠の合戦を描いたものに「御諏訪太鼓衆」がチラリと登場する場面がある。

(Battle of Nagashino 1575)

「あれなるは勝頼が生まれ故郷の御諏訪太鼓でござる」というセリフと共に次の白装束の太鼓衆が出て来る。

このドラマの考証がどこまで正確かは分からない。

武田騎馬軍団はこの太鼓の音と共に敵陣に突撃したのだろうか。

どうやら武田家の滅亡後も諏訪大社などで伝えられていたようだが、どういうわけか明治になると途絶えてしまった。当時は廃仏毀釈令など伝統文化を否定することが文明開化などと錯覚された時代だから、近代化の熱狂の中で忘れ去られたのかもしれない。

これを復興させたのが小口大八氏というわけだ。

親戚の家から譜面が出てきたことがキッカケだったというのが面白い。しかも、その前にたまたまドラム演奏を習得していた偶然も重なる。

以下、サイト「御諏訪太鼓」の小口氏の経歴より。

1924年        2月27日、長野県岡谷市に生まれる

1941年        奥田宗弘氏にドラムスを習う

1947年        復員後、大八パン創業、長野県岡谷市で燦星楽団を結成

1948~49年          長野県スケート連盟設立参加

本家筋の親戚・小口喜代人氏の味噌蔵から「御諏訪太鼓」の譜面(藤太郎覚書)が出てきて 譜面の解読を頼まれ復元をはじめる

≪覚書の部分には、毎年八月一日には諏訪大社の秋宮で、諏訪太鼓の奉納打ちくらべがあり、優劣の順位をつけていたと書いてあり、川中島の合戦以来400年近くも続いた儀式だったという≫

1951年        明治以降途絶えていた御諏訪太鼓の形をほぼ整え復興する

≪大小さまざまな太鼓を組み合して打つスタイル、組太鼓(複式複打)を

完成させるとともに、「諏訪雷(信玄法性陣礎)」を作曲する≫

(諏訪雷 すわのいかづち)

しかも、小口大八は武田由来の「御諏訪太鼓」を復活させただけではなかった。

今日の組太鼓へと繋がる「複式複打法」(ふくしきふくだほう)へと洗練させた。

多種多様な太鼓を2人以上の打ち手によって演奏する、いわば『太鼓のオーケストラ』といった演奏形態であり、現在の和太鼓(創作和太鼓)演奏の主流となっている。 古くは武田信玄配下の陣太鼓集団『御諏訪太鼓21人衆』もこの複式複打法を用いていたと推察されているが、 現在の形態は御諏訪太鼓の宗家・小口大八によって考案・確立された。

これは「創作和太鼓」(そうさくわだいこ)ともいう。

和太鼓を主体とする音楽のこと。太鼓奏者の小口大八は、胴の長さや直径等の違いで音が違ってくることを利用し、これを組み合わせることによって太鼓をひとつの音楽に仕立て上げた。これが、複式複打法とよばれる、大人数によって様々な種類の太鼓が合奏のように演奏されるようになる組太鼓のはじまりである。これが編み出されるまで、他の芸能の脇役を務めることが多かった和太鼓は、複式複打法の確立により、和太鼓を主体とした音楽の地位を確立する。

以上、今日、私たちが祭やイベントなどで目にする「組太鼓」はここから生まれた。

だから、全国の日本人が組太鼓を目にし、親しむようになったのは戦後と思われる。

つまり、日本の郷土芸能ではあるが、ある意味、戦後生まれのショービジネスとしての側面も、無きにしも非ずだ。

小口大八以下、関係者の多大な努力により、それが日本全国、そして北米・南米・ヨーロッパへと広まっていったのである。

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