北朝鮮の秘密施設「招待所」(チョデソ)とは何か?

韓国・北朝鮮
実はこの後に「あるもの」が配られていた?




みなさん、こんにちわ。

北朝鮮情勢が再び動き始めていますね。

この国の秘密のベールを剥いだ人物として、「金正日の料理人」だった藤本健二氏のことは過去に何度か記事にしてきました。藤本氏は現在、平壌で日本料理店を営んでいるそうです。おそらく、今度こそ北朝鮮に骨を埋める覚悟なのだと思います。

彼は今の最高指導者である金正恩ともサシで話せる人物です。彼のような民間の逸材を生かしきれないところに、日本の官邸・外務省の外交レベルがうかがえます。

1982年、藤本氏は寿司職人として平壌に単身赴任しました。

しばらくして、彼は金正日の「元山(ウォンサン)招待所」に呼ばれ、寿司を握ることになります。以来、彼は金正日から認められ、専属料理人となり、ついには側近の一人として将軍様のプライベートに付き合うまでになりました。

その体験を綴ったのが『金正日の料理人』(扶桑社)です。

この本は以前、紹介しました。

金正日の料理人―間近で見た権力者の素顔

今回はその続編である『金正日の私生活』(同)のほうです。

藤本氏いわく、「金正日が生身の自分をむき出しにするのは必ず『招待所』という空間だった」という。そして、この本は、その「各招待所で繰り広げられる未知の国の最高権力者の『私生活』の現実を白日のもとに晒した」ものだということです。

以前も記しましたが、私個人的に、およそ北朝鮮関連で藤本氏の本ほど面白いものはありません。そして、今ほど見直されるべき時期もないように思えます。

今回も少しだけ紹介させていただきたいと思います。

(以下、同書P18~22から引用 赤字は筆者による)



招待所(チョデソ)とは?

拉致被害者の多くが滞在したと証言している招待所(チョデソ)。

北朝鮮にはさまざまな性格の招待所が存在しているようで、のべ十三年間、私が金正日と過ごした各地の招待所には、拉致被害者の住居のようなものは見当たらなかった。拉致された日本人を見かけることもなかった。

とすると、拉致被害者専用の招待所があったと考えるのが妥当であるようだ。

ただ、金正日の王子(子息)たちは招待所の中で日本語の勉強をしていた。招待所の中で王子たちの日本語の練習ノートを見かけたこともある。王子たちに「『波』ってどう(漢字)で書くの? 教えて」とせがまれたこともあった。(略)

だが、私にとっての招待所とは金正日のアジトである。それもきわめて高級なアジト

北朝鮮内に数十か所存在する招待所では、金正日ファミリーが首都平壌の金正日邸と同レベルの快適な生活ができるようになっている。

信じられないだろうが、金正日が平壌にいる日数は年間わずか六十五日ほどでしかない。あとの三百日は、各招待所を転々と移動しているのが現実なのである。

金正日ファミリーに随行するのは直属の部下、SP、秘書班のみならず、医療班、料理班などがクルーを組んで移動する。多いときの随行員は百名を上回る。

最高指導者が「招待所回り」をする訳

金正日が頻繁に招待所を移動するのは、危険から身柄を守るため、自らの居所を偵察衛星に察知されないためのいわば自衛行動なのである。

だから、クルーに加わったばかりの頃の私は、うかつにも出先の招待所から平壌の妻に電話をして、

「バカ、どこで電波をキャッチされるかわからないではないか。将軍様の居所を敵に教えるような真似をするな!」

と幹部からひどく叱られたものだった。(略)

その後、金正日将軍が車に乗っている最中、前後をトラックにはさまれ、サンドイッチになりかけたという事件も起きた。暗殺未遂事件だったのかどうかは、金正日は口をつぐんでいたが、これは金正日自身が食事会の席で言っていたことだった。

それを機に運転席にピストルを置くようになったという。

招待所のその他の機能として挙げられるのが、海外の要人を招く場所ということだろう。

例えば、韓国の金大中大統領が訪朝する直前、現代グループの会長が露払い役としてやってきたのは、数ある招待所の中でも最大級の元山(ウォンサン)招待所だった。そこで、金大中訪朝に対する見返りをどうするのかということについての交渉が行われたのは想像に難くない。

元山招待所はその後、韓国の政財界を揺るがした北朝鮮への現金供与スキャンダルや牛数百頭(!)現物贈与の舞台になっていた。

私が実際に金正日に同行した招待所は十数か所ほどだが、それは全体の何分の一か、あるいは何十分の一かもしれない。特殊な機関のみ使っている招待所が存在するのは薄々わかるのだが、それらについての話は、私の前では一切明かされることはなかった。

招待所回りのついでに各地の部隊を表敬訪問

さて、私が金正日に同行した十数か所の招待所にはすべからく共通点があった。

まず、どこの招待所にも映画館があることだ。

規模はまちまちであるが、たいてい二、三十人は収容できる。

次に、射撃場の設備である。

それから、私の知るかぎりでは、妙香山(ミョヒャンサン)招待所を除き、各招待所にはかなり大掛かりな舞台が備え付けられていた。そこにお抱えのオーケストラや舞踏団がやってきて、金正日の前で日頃の努力の成果を披露するのである。

あとは遊戯台。以前は金正日がはまっていたバカラ台がどこの招待所にも用意されていたが、 その後はユンノリという北朝鮮版双六(すごろく)の台にとってかわられた。ビリヤード台も必ずあった。(略)

各招待所建設の基礎工事には軍隊が動員されたと思われるが、肝心の上モノの設計、建築はお抱えの建築家が携わり、場合によっては、専門家を海外から招聘していたようだ。

そして、彼らは契約金以外に金正日のための仕事を受けた場合、一日五万円程度の出張料をもらっていた。

あるときそれを知った私は、平壌に様子を見にきた日朝貿易商社の会長に直談判し、金正日に寿司の出張で呼ばれたときの出張料を一回につき五万円に決めてもらった。

一九八二年当時、だいたい月に十二回は金正日用に出張していたので、出張料だけで六十万円稼いだ。もともとの基本給は五十万円だったので、計百十万円とけっこうな実入りがあった。

そのほかに金正日から出るチップの額も馬鹿にならなかった。白い封筒に入っているチップの中身は、手の切れそうな米ドルか日本円だった。それら外国の紙幣は、友好国のスイス経由で渡ってきているようだった。

やがて金正日の専属料理人となった私はクルーの一員として各招待所を渡り歩いた。金正日が各招待所を目まぐるしく巡回するのは、表向きには、各地に分散する軍隊への表敬訪問の形をとっている。将軍は訪れた招待所の近辺の駐屯地を回りながら、兵士たちを激励し、「北朝鮮は大丈夫だ! お前たちも頑張れ!」と軍全体の士気を高揚させるという将軍職としての役割を果たしている。

私も、何度かそうした場面に付き合わされたので、鮮明に憶えている。

一行が駐屯地にトラックを従えて訪れると、「将軍様がいらっしゃった!」ととこでも大変な騒ぎになる。金正日は兵士たちの歓声に応えるように手をふり、兵士たちに日本製のカップラーメンの差し入れをするのである。

兵士一人ずつに対して、エースコックの「スーパーカップ」の醤油味一箱、味噌味一箱ずつを配る金正日将軍を包む歓喜の大合唱。実に凄まじい光景が繰り広げられていた。

(以上、引用終わり)

エースコックのお得意様か! という突っ込みはさて置き、

逆にいえば、最近立ち上がった「自由朝鮮」に私が所属して、「スーパーカップ」を配布すれば、私も民衆から「将軍サマ」と呼ばれるようになるのかもしれない(笑)。

あるいは「あっちがエースコックなら、おれは日清でいく」とか・・。

ちなみに、上の写真は残念ながら新バージョンのもので、金正日じきじきに配っていたモノよりは、味などが少し向上しています。

私が「スーパーカップ」で好きなのは「野菜たっぷりタンメン」ですけど。

冗談はさておき、藤本氏の本には、一見何でもないところに、物凄く重要な情報がさらりと記載されているのが特徴ですね。

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