前回は、なぜ人が物語に魅了されるのか、又なぜ物語に接した時に「面白い」と感じるのか、その根源的理由について述べました。
私たちの人生そのものが疑似体験――つまり自分を主人公とした一つの物語であり体験ゲーム――だったというオチでしたね。そしてそれはまた「世界が創造された秘密」とも関わってくるとも・・。今回はその話です。
仮に人生が至高の疑似体験であるとするなら、物語の世界に入り浸ることは、その疑似体験の中の疑似体験と言えるでしょう。
だから私たちは、古代から、神話や演劇に始まり、叙事詩、小説、絵本・絵巻、人形劇、弾き語り(吟遊詩人や琵琶法師など)、講談、マンガ、映画、ビデオゲーム(テレビゲーム)などの「物語系娯楽」を作り出しては、その架空の世界に浸ることで、二次的な疑似体験を楽しんできたわけです。
すると、そのような二次的擬似体験の最終形態として、VR(バーチャル・リアリティ)のビデオゲームが現れたことは、まことに興味深く思われます。
「物語系娯楽」がどんどん進化していくと、結局は限りなく“リアル”なこの世での体験に近づいていく・・・このこと自体、私たちの人生が本当はただの仮想体験ゲームに過ぎないという真実を示唆しています。
おそらく、これは偶然ではなく、時代の必然なのでしょう。今、多くの人々がそのことに直感的に気づき始めており、世界中で「この宇宙はある種の仮想現実でありコンピュータ・シミュレーションではないか」という仮説が囁かれ始めています。
ただし、私は少しだけ先へ進んで、厳密には死後の世界でさえも疑似体験に違いないと考えています。つまり、この世では物質の世界を体験し、あの世ではより希薄な世界を体験するというわけです。この世とあの世という、異なるステージを往復する仕組みは、たいへんよく考えられたシステムですね。
おそらく、神と完全に合一するまでは、このような疑似体験モードがえんえんと続くに違いありません。
この世界が創られた理由とは?
ところで、この世界がゲームであり、それをプレイ(体験)するために私たちが存在しているとすれば、逆にいえば、世界のほうもまたそのために用意された、という仮説も考えられるわけです。
別に不自然ではありません。ゲームだってそうです。
私たちは、自分がゲームを楽しむために、そのゲームの世界を創造するわけですから。
実は、これこそが、この世界が生まれた真の理由だと、私は信じています。
ヒンドゥ教には「宇宙は神の夢であり、ただ戯れているだけ」という創造の概念があります。「戯れ」というのは換言すれば「遊び」のことです。
実は、神の小さな分身であるわれわれも毎晩、同じことをしています。それが「夢を見る」という行為です。正確には、脳内で夢の世界をクリエイトして、その中で戯れるというゲームをやっているわけです。
神様がそれをやると、宇宙の創造になってしまうわけです(笑)。
つまり、遊びたいがために、わざわざこの世界を創造したということですから、人間の常識でいえば、あまり深刻な動機とは映りません。よくスピリチュアル界では、「現世は魂の学校であり、魂の修行の場だ」という意味のことが喧伝されています。そのように真摯に考えている人にとって、そのような動機は困惑するものであり、一見、信じ難いと映るに違いありません。
たしかに、私たちの人生が霊的な成長のためにあるという考えは真理に違いありません。しかし、それだけでは、神がこの宇宙を創造した真の動機をうまく説明できないこともまた事実です。
なぜなら、神はもともとすべてにおいて完全無欠であり、主体も客体もない唯一の普遍意識だからです。その完全なる存在が、なぜわざわざ「不完全な多」となる必要があったのでしょうか。
考えられる理由はただ一つしかありません。
それは、人には人の退屈しのぎがあるように、神にもまた神なりの退屈しのぎがある、ということです。それが、わざわざこの世界を創造した真の理由です。
神様もまた夢を見ます。そうやって遊びたいがために、夢を見ている(=世界を創造し、運営している)ともいえるのです。
その架空の世界の中で「一が多」となって戯れているわけです。
それが私たちであり、また私たちの人生なのです。
だから、人はみんな神の化身です。
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