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なぜ日韓併合は韓国の自己責任が大か(その3)

韓国皇帝から李完用への全権委任を命ずる勅書。1945年の日本降伏文書に全権の重光葵(外務大臣)と 梅津美治郎(参謀総長)が調印したように、全権者は一国の政府・皇帝の正式な代理人である。

前回、1882年7月の「壬午軍乱」と、84年12月の「甲申事変」について触れた。前者は、旧軍兵士の抗議運動を巧みに利用した、失脚中の大院君派によるクーデターだ。一方、後者は、青年官僚らのグループによる国家革新のクーデターである。

二つの事件に共通しているのは、李朝政府の内紛であること。そして、その「お家騒動」を、いずれも権力者の閔妃派が清国軍に依頼して解決したことだ。

自国の問題解決に外国の手を借りることに慣れ過ぎてしまうと、これが何を意味するのか分からなくなってしまうようだ。こんな国は独立国とは言えないのである。治安だろうが経済だろうが、外国にお願いして国内問題を解決すれば、「私を助けるために内政干渉してください」と頼んだも同じである。よって、その国に主導権が渡るのは当然だ。

例外は自然災害時の人道支援のようなケースである。その場合は「国家の枠や損得を超えた同じ人類としての純粋な義務」と見なされるからだ。それ以外で「タダ」はなく、必ず何らかの対価を伴う。とりわけ、自国の政治的な問題の解決に外国軍を引き入れた場合、その対価が「国家主権」となる危険性がある。李朝のアブノーマルさは、国王の臣下たる執政者がAかBかという問題に、いちいち外国の軍隊の出動を乞うことだ。

どんな国でも、政府の内紛に収拾がつかなくなった場合、その国の軍人たちが解決に乗り出して、外国の介入だけは阻止するのが普通である。反対のことを平然とやるのは、李朝が精神的にも属国であることの確たる証拠に他ならない。せっかく金玉均のような「自生的改革勢力」が現れたのに、そのまま「自主的近代化」へと李朝がスムーズに移行できなかった理由も、この“非独立性”が根源にあることと無関係ではあるまい。

しかも、当時の閔氏政権は一族郎党の私利私欲のため、ひたすら国家と民衆を食いものにしていた。外国の力をバックにして、内に対しては悪政の限りを尽くす……この時期の朝鮮ではおよそ最悪の政治が行われていたのである。

見せ掛けの平穏が9年間つづく

さて、1885年から日清両国は甲申事変の事後処理で火花を散らした。両国は李朝の頭ごしに交渉した。清は李朝の外交権を奪ってしまう。外交権を持たない国は、近代的な国際関係では保護国である。もっとも、元から属国なので不思議ではない。交渉の席では、日本はもちろん「金玉均とは無関係」で通した。クーデターが成功すれば恩を売り、失敗すれば切り捨てる…当たり前のことで、いちいち非難に値しない。

日清両国が一度軍事衝突してみた甲斐はあったようだ。4月、両国全権の交渉の結果、共同撤兵の合意に至る(天津条約)。といっても元々の駐兵規模からすると、日本の外交的勝利に等しい。ただし、朝鮮の「変乱重大の事件」の際は両国とも出兵できるとした。

この結果を一番喜んだのがロシアだった。当時、あまりに横暴な清とのバランスをとりたい李朝側と、朝鮮に食い込みたいロシア側との利害が一致して、両者の接近が始まっていた。ロシアは東朝鮮湾に面する永興湾の租借を要求した。初期に開港した元山港を含む地域である。ここを手に入れればロシアはウラジオストックから朝鮮半島へ“南下”した格好になる。ところが、4月、アフガニスタンでロシアと対立していたイギリスは、艦隊を派遣して巨文島(*対馬と済州島の間に位置する)を占領し、ロシアを鋭く牽制した(巨文島占領事件)。清の仲裁が成立するまで、英露は二年間にらみ合う。

7月に日清両軍の漢城からの撤収が実現したが、清の支配は以前よりも強まった。10月、清は若僧の袁世凱を駐屯軍指揮官から政治家に昇格させた。肩書きは朝鮮総理交渉通商事宜――植民地総督というか、文字通り総理大臣というか、そういう地位と権限である。清としては属国の手綱を強めて己の支配領域を守ると同時に、「夷(朝鮮)をもって夷(日露)を制す」ためにも、より直接的に朝鮮をコントロールすることにしたようだ。

袁世凱は専横を振るった。外交や通商など、なんでも仕切ろうとした。高宗や閔氏一派はますます清を恐れ、ロシアへと傾斜していった。ただ、袁世凱が怖いのでコソコソと内密に事を進めようとした。10月、「朝露修好条約」が批准され、初代ロシア公使ウェーバーが漢城に赴任すると、両者の関係は密接化した。86年6月、ロシアの保護を求める高宗の親書がウェーバーのもとへ届く。密約という形だ。これはバレて、大問題になる。

李鴻章と袁世凱は、朝鮮のロシア接近を防ぐため、高宗の廃位を含めた数々の謀略をたくらんだ。一方で、李朝は少しでもバランスを取ろうと、ロシアとの関係を強化した。88年には陸路通商条約を結び、咸鏡北道の慶興郡を開放した。これは今の北朝鮮東北部にあり、ロシアと接する国境地帯である。つまり、ロシアとしては陸域での“南下”が実現した形だ。しかし、それ以上の権益獲得は清によって阻まれた。

91年、風雲急を告げるニュースが駆ける。ついにツァーリがシベリア鉄道建設を命じたのだ。計画そのものは50年代からあったが、国土を横断するその長大さと莫大な国家予算の必要性のため、実行は容易ではなかったのだ。東の終点はウラジオストックであり、そこからハバロフスクまで建設されることが決まった。全線開通の暁には、世界最大とも言われるロシア陸軍が極東地域へ本格的に動員可能となる事態が予想された。

ただ、それでも甲申事変後から日清戦争が始まるまでの約9年間は、比較的平穏な時代だったと言える。その主な理由は、大国間の力の均衡が保たれたからだと思われる。この時期、李朝の存在感は無きに等しく、清が保護者として外交などの国政を取り仕切った。一方、アジアの近代化の優等生であった日本は日増しに力をつけ、逆に清は衰退していたため、両者の国力差は相対的に縮みつつあった。そこにロシアが入ってきて「三つ巴」の構図になった。純粋な国力でいえばロシアが突出しているはずだが、素早くイギリスと清が牽制に動き、かつ輸送力にまだハンデがあるため、極東では持てる力をフルに発揮できなかった。こうして、三国鼎立状態ともいうべき奇妙に安定した時代が訪れたと考えられる(*機会は改めるが、これは現代にとっても重要な事を示唆している)。

だが、この均衡も、日清戦争によって破られることになる。

日清戦争の開始と傀儡政権の樹立

日清戦争の前後は、韓国近代史の中でも一番ややこしい時期であり、月単位でトレースしないと変化についていけない。それくらい激動の時代だが、幸い、まさにこの期間(94年1月から97年3月)の朝鮮を稀有な筆力で活写した人物がいた。イギリス人女性旅行家のイザベラ・バードである。彼女は自然科学者的な観察眼を持ち、およそ「偏見」というものをほとんど持たない。そんな人物がその目で朝鮮全土をつぶさに観察して回り、詳細な記録を残したのだ。しかも、日本人でも韓国人でもない第三者である。

実は、この激動の期間を、韓国の歴史教育が大きく歪曲しているので、第三者の証人として彼女を引っ張り出した次第である。この観察者の目を通して、歴史の真相は何だったのかを探ってみたい。

さて、平穏な9年間といっても、近代化改革がほとんど停滞し、圧政が続いた朝鮮国内では確実に病が進行していた。19世紀以降、大小の農民反乱が頻発し、国の大半を占める農村は疲弊しきって久しかった。一方、韓国の一部地域では、1860年に没落両班の崔済愚が唱えた「東学」(儒教・道教・仏教をミックスした独自の民間信仰)が広まり、弾圧を続ける政府と激しく対立していた。圧政下での信仰らしく人間平等主義と社会改革を説くが、スローガンの一つとして「斥倭洋」(倭と西洋を排斥する)も掲げていた。

94年2月、過酷な税と暴政で民を苦しめていた全羅道の古阜の郡守に対して、東学教の幹部が農民を率いて決起した。農民軍は役所を襲い、穀物を奪い返し、武器を奪った。政府の宣撫が失敗すると、農民軍は勢いを増し、各地を進軍して、5月には全羅道の道都全州を制圧するに至る(甲午農民戦争)。彼らは、身分制度の廃止、税制・土地制度改革などを要求した。しかも、農村に自治組織を作り、自ら改革を実施していった。

このように、誰が見ても、これは悪政に対する農民の反乱と革命であり、過去に発生した類似の一揆の系譜に連なるものだが、韓国の歴史教育はかなり日本のせいにしている。たとえば、中等歴史教科書は、甲申政変以後、日本商人が「農村のあちこちで米を買いあさったので、わが国の農村では米が不足して農民の生活が困難となった」と記す。まるで今度の農民反乱が日本のせいだと言わんばかりである。

当時、日本商人は安い朝鮮の穀類を買い付け、日本に輸出した。それによって生産農家などは潤ったが、品薄や価格高騰の問題も起こったらしい。だが、これが農村の構造的貧困の直接的原因とは思えないし、「日本の経済的侵略」という教科書の表現も妥当ではない。農民軍の要求などを見る限り、やはり問題の根っこにあるのは、李朝の専制政治と前近代性であり、末端の官吏にまで至る政治の腐敗と言わざるをえない。

さて、李朝はこの反乱を自力で収拾できず、またしても袁世凱に派兵を要請する。三度目である。

しかも、今度は政府内の問題というより、国を揺るがす内乱だ。6月、清国軍が出兵すると、日本軍もまた清との天津条約に基づき、日本人保護等の名目で出兵した。ただし、李朝は直後に農民軍と和約に漕ぎ着け、いったん停戦を実現した。

だが、日本は撤収に応じなかった。これには日本なりの強い危機感があった。かくも朝鮮の内政が不安定であることは、地域の安全保障に関わる問題だ。政治が極度に腐敗し、圧政に喘いだ民が貧窮を極めている限り、同様の内乱は何度でも繰り返されよう。それがいつ何時、列強の介入を招くか分からない。

元凶が国政を壟断する閔氏一派であることは論を待たないが、なにぶん李朝には自浄能力が無い(あえて言うなら貧民の蜂起がそれに当たるのだろうが)。農民軍との「和約」というが、体制の自己否定に繋がりかねない改革はどうせ最初からやるつもりはなく、その場しのぎの空約束に違いない。

そこで日本は、清に対して共同で李朝の内政改革をやろうと提案した。しかし、清が拒否したため、7月、日本は李朝に対して内政改革案を示し、同22日を回答期限とした。

日本の目はずっとロシアの南下を見据えてきたから、おそらく、朝鮮国内の悪弊を根治するには、ここら辺りが限度だと感じていたのだろう。日本は農民反乱を機に一挙に攻勢へと転じ、内政改革の強要という荒療治に打って出たのである。

もっとも、それまで一族郎党の私利私欲のために悪政をほしいままにしてきた専制支配集団である。当然のように改革案を黙殺した。日本は勝負に打って出た。王宮を軍事力で占領し、閔氏政権を転覆させるという強硬手段に出たのだ。そして近代化改革を断行するため、穏健な開化派だった金弘集を首相として擁立し、新たに政府を組織した。

ほぼ同じ頃、日清両軍が衝突した。94年8月には正式に宣戦布告が行われ、日清戦争へと突入する。以後、日本軍は陸海戦で清を圧倒した。開戦から半年で、朝鮮から清国軍を駆逐し、北洋艦隊を降伏せしめて制海権を手中に収めた。

本格的な近代化改革を始動させる

第一次金弘集内閣は抵抗勢力の妨害にあったので、日本はいったん人員を強化して、94年12月に改めて第二次金弘集内閣を成立させた。今風にいえば「改革断行内閣」である。改革は旧態依然とした朝鮮の政治・経済・社会全般を一挙に刷新するものだった。農民反乱軍の要望にも対応し、清との宗属関係を脱して将来的には立憲君主型の近代国家を目指すものでもある。改革は政治・官僚制度、教育、警察、軍隊、租税、財政、司法から、果ては身分差別の撤廃や女子の権利の尊重まで、広範囲に及んでいた(甲午改革)。

イザベラ・バードの『朝鮮紀行』(講談社学術文庫)は当時をこう記述する。

一八九四年七月に日本軍が王宮を占拠して以来、国王は『俸給をもらうロボット』にすぎず、またかつて権勢を誇った閔一族は官職から追放されていた。(中略)日本のさまざまな要求は当初は国王の譲歩を得ながらも、受け入れられなかった。しかし、一八九四年一二月、ついに井上伯はそのうち五件の要求を即座に実行するという正式の誓約を手に入れた。(1)一八八四年の甲申政変の陰謀者全員を放免する。(2)大院君および閔妃は今後国務に干渉しない。(3)王家の親戚はいかなる官職にも就かない。 (4)宦官と側室の数を最小限に減らす。(5)身分の区別――貴族と平民――を廃止する(342~343ページ)

一八九五年一月八日、わたしは朝鮮の歴史に広く影響を及ぼしかねない、異例の式典を目撃した。朝鮮に独立というプレゼントを贈った日本は、清への従属関係を正式かつ公に破棄せよと朝鮮国王に迫っていた。官僚腐敗という積年の弊害を一掃した彼らは国王に対し、《土地の神の祭壇》[社稷壇]前においてその破棄宣言を準公式に執り行って朝鮮の独立を宣言し、さらに提案された国政改革を行うと宋廟前において誓えと要求したのである(322ページ)

こうして、日本の圧力により、高宗は祖先の霊の前で洪範十四か条を誓わされた。その内容はあまりにまっとうなものばかりである。

全部を羅列するスペースはないが、たとえば第六条は「人民による税の支払いは法で定めるものとする。税の項目をみだりに追加し、過剰に徴収してはならない」とあり、また第十三条は「民法および刑法を厳密に制定せねばならない。みだりに投獄、懲罰を行わず、なにびとにおいても生命および財産を保全するものとする」とある。

今日の韓国人はこれを読んでひどく混乱するだろう。というのも、日帝が朝鮮人民に対してこのような無法な行為をしていたと信じ込まされているからだ。だが事実は逆で、本当はそのような行為を止めさせようとしたのが日本なのである。

当時の日本は、ここまで朝鮮の内政に手を突っ込んで、近代的な独立国家へと作り変えようとした。むろん、軍事力をもって傀儡政権を樹立した事実には変わりない。今の基準で見れば「なんと無法な」となる。ちょうど、他国の“民主化”のために軍事介入までやらかす今日のアメリカのような傲慢・無神経さであり、少なからぬ人々の反感を買ったのは当然と思われる。しかし、閔氏一派と日本の、どちらがより朝鮮人民の側に立っていたか、と考えることも必要ではないか。なぜなら、支配の正当性とは、究極的にはその点に立脚するものだからである。甲午改革の内容は、それを判断するいい材料になろう。

また、内政問題の一言で片付けられないのは、当時の李朝が自国をまともに統治する責任を果たしていないからだ。地政学上の要衝にある国が己の足で立つことができずグラついていると、周辺諸国の安全を脅かす。「そんなのうちの勝手だ」という理屈は、国際社会では通らない。主権者が自国をまともに統治してみせ、地域を安定させる義務を果たせないならば、列強から内政干渉されも文句は言えない――それが当時の常識だ。

下関条約と“鬼軍曹”日本

さて、閔氏政権を打倒して日本派内閣を擁立し、清国を戦争で打ち負かした日本。伊藤博文・陸奥宗光らは清国全権李鴻章と交渉を重ね、95年4月、日清講和条約(下関条約)を調印する。その第一条はかねてからの日本の主張を明文化したものだ。

「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認すよりて右独立自主を損害すへき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全くこれを廃止すべし」

下関条約第一条

これに関しては「同様の規定で日本側を拘束していないから日本からの独立を保障していない」などと、馬鹿に穿った見方が多い。それは「結果そうなった」だけで、この時点における日本の国家意志が、後に実行された完全併合にあったわけではない。まず単純に、戦勝国が己を拘束するルールを設ける必然性自体がない。また、日本はわざわざ高宗に独立を公に宣誓させている。それは「清からの独立」といった特定国を指定しない一般的な「独立」であり、「他のいかなる国にも依存せず」との文言が入った「独立」である。

したがって、この時点における日本の国家意志は、「過渡期にある朝鮮の状況を考えて今すぐの完全独立は難しく、一時的・部分的な保護国化はありえるが、それでも内政改革が成功すれば行く末は独立させる」というものが一番近く、それは日露戦争まで続く。

こうして、朝鮮国が自らの意志と自らの軍隊で、南下してくるロシアから自国の領土と独立を防衛することが、これすなわち日本の安保・国益となる。仮に朝鮮が敗北しても、彼らが頑強に抵抗した分だけロシアの国力を疲弊させ、時間を稼ぐことができる。日本侵攻になるか否かを問わず、わが国は戦略的猶予を得られる。つまり、モンゴル襲来の時と似たケースだ。むろん、是が非でも防波堤に仕立てる道理はなく、状況次第では日朝連合軍で迎え撃ってもいいし、朝鮮を緩衝地帯としてもよい。

事実、後述するが、その機会は後に訪れる。要は朝鮮が「普通の国」になるだけで、対ロ戦略の幅が広がるのだ。

このように、当時の日本は、決して朝鮮をとって食おうとしていたのではない。それどころか逆になんとしても朝鮮を近代的な独立国家へ導こうと奮闘していた。「他国の政権を軍事力で打倒してまでか!?」と訝る向きも当然あるだろうが、そもそも自国民の衣食住の面倒すらまともにみれない政権など存在している意味があるのだろうか。しかも、人々に愛されているならまだしも、日本が追放した閔氏一派は国民の憎悪の的だったのである。

これは歴史的に見れば、李朝にとって「第二のチャンス」だったと言えよう。日本の力によって清の属国の地位から解放され、近代化へのレールが敷かれたのだ。帝国主義的お節介によるものとはいえ、李朝としてはこの機会を最大限に利用すべきであった。

奇しくも、日本が第二次金弘集内閣を擁立した94年12月は、甲申事変からちょうど十年後にあたる。「甲午改革」と「下関条約」は、日本が押し付けたとはいえ、故金玉均らによる国家改造の夢が十年越しに実ったものともいえる。事実、改革内容には金玉均らの綱領と重なる部分もあった。朝鮮人自身の努力も多く、改革はいわば日朝合作の成果だ。

この時期の日本は、いわば兵学校の「鬼軍曹」のようなものだ。口やかましいし厳しいが、その意図するところは、あくまで朝鮮の自主独立と近代化にある。鬼軍曹の指示通りに鍛錬すれば必ず一人前の兵士になれるように、日本のアドバイスに従って一歩一歩前進していけば、朝鮮もまた近代国家としての実力を養い、富国強兵を達成することができよう。

つまり、いかに日本がお膳立てしようが、最終的には「本人のやる気」に掛っているともいえた。二度目のチャンスを生かせるか否かも結局はそれ次第であった。

主要参考資料

名越二荒之助編著『日韓共鳴二千年史』(明成社)/呉善花『韓国併合への道 完全版』(文春新書)/海野福寿『韓国併合』(岩波新書)/姜在彦『朝鮮近代史』(平凡社)/イザベラ・バード『朝鮮紀行』(講談社学術文庫)/『入門韓国の歴史 国定韓国中学校国史教科書』(明石書店)/『韓国の高校歴史教科書 高等学校国定国史』(明石書店)

2013年12月11日「アゴラ」掲載

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