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「村上春樹ブーム」の虚構と幻想の終わり

出典:The Daily Sheeple

この記事は前回の続編。またまた警告(WANING)! 村上春樹ファンは精神衛生上たいへんよろしくないので、この記事は読まないでください。

とくに村上春樹氏本人と担当編集者は心臓麻痺を起す可能性があるので、絶対に読まないでほしい。

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村上春樹作品の「ポップな感じ」について

実は、村上作品にも「もしかするとこれは長所かな」と、引っかかる点はあった。

一つは「ポップな感じ」。なんとなくお洒落で、登場人物や場所も、日本でありながらどこか無国籍風だったりする。英文直訳調の文章もそのイメージを助けている。

どうも彼は、英語で文章を思い浮かべてから改めて日本語に書き改めるという、奇妙な脳内作業を無意識に行っているような気がする。

しかし、この「軽さ」は、人間が描けていないところから来るのはないか。

単に人の言動・行動を描写するだけでなく、その内面、つまり、揺れ動く心理を克明に描写して、人の心の中で起こっているドラマを描き出すことこそ、小説の真髄である。例を挙げると、松本清張の『真贋の森』『顔』『空白の意匠』などは白眉だ。

そして、まさにここが、実は映画やアニメなどの映像作品と一線を画せる、小説ならではの長所なのだ。だから、しばしば傑作小説を映画化すると、奇妙なほど駄作になったりするのである。当然、物語作家としての真価が問われる部分だ。

古今東西の傑作小説はいずれも人の内面を上手に描写している。必ずしも文学の可能性を限定する気はないが、物語をあえて「小説」という形式で描く利点やゆえん(必然性)がここにあるならば、それを解しない“小説家”は存在意義を問われよう。彼は何ゆえ非常な集中力のいる小説職人としてのこの作業を放棄しているのか。

ところで、この点で、世間には私と似た感想を持つ人もいるようだ(傍線太字筆者)。

村上春樹「バカ売れ新作を爆笑問題・太田光がクソミソ酷評!」2013522

3年ぶりに新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(文藝春秋)を発表した作家・村上春樹氏(64)。発売わずか1週間で100万部超えのバカ売れ状態だが、これに爆笑問題・太田光(47)がかみついた。(略)

村上春樹がなぜつまらないかわかった。俺に言わせれば、人間を描けてないってことなんだよね。登場人物が自分だけが特別だって意識の人たちで、涼しげに思わせぶりなことを言うだけでちっとも感情的じゃない。それと翻訳みたいな言葉ばかりで、そんな会話しているやつなんかいねぇだろって!  大事な根幹の部分を飛ばしちゃって涼しいままで終わっているから、ふざけんじゃねえよって感じなんだよ。やっぱり村上春樹は認められない。俺みたいな野良犬がキャンキャンほえたって何も影響ないから言うんだけど」(略)

私はいつも太田光の意見に賛成するわけではないが、これに関しては同意せざるをえない。キャラクターが「自分だけが特別だって意識」で「涼しげに思わせぶりなことを言うだけでちっとも感情的じゃない」のは、要するに「人形」ということだ。

精緻な内面描写がない。真のドラマがない。だから登場人物たちが血の通った「人間」になっていない。もっといえば、人間の心を持たないキャラクターに近い。

それを太田光は「涼しげ」と呼んでいる。その深みのなさを、村上春樹は小ネタやアイテムの羅列というファッションでカバーしている。

というわけで、「ポップな感じ」というポジティブ感は、根本的には、人間が描写できていないのに、無駄に長文であるばかりか、彼がアメリカ文化かぶれでそういう方面のトリビアに長けていることから起きる錯覚のように思われる。

村上春樹作品の「思わせぶりな文章」について

さて、もう一つは、所々に何か「思わせぶりな文章」が挿入されている点だ。ちょっとした、取ってつけたような政治的主張に遭遇することもある。

実は、最近読んだ村上春樹に関するウィキペディアで知ったが、彼は「激しい隠喩」を用いていると説明しているらしい。

しかし、これもこけおどしの類いだと思われる。

何か意味がありそうだと読者に錯覚させることによって、いかにも「文学」であるかのように世間を煙にまいているだけだ。つまり、彼の計算高さに拠るもので、本当は深い意味はない。私は「意味がありそうで実は何もない文章だ」と喝破した。

むろん、その「思わせぶりな文章」が、実際に単体として意味を持つケースはある。ただ、そこだけ光っていても、それが作品の構造の一部を成して「作品全体としての意味」に奉仕するものでなければ、単なるひけらかしか、自己満足の類いでしかない。

えんえんと描写される主人公の日常の惰性の中に、唐突にキラリと光る「うんちく」が出てきたところで、「どっかから拾ってきた」という印象は免れることはできない。

そして、その「文学でござい」というあざとい演出に、そうと分かっていながら飛びつくのが出版社の息のかかった文芸評論家たちなのだ。彼らが、あたかもペンキを壁にぶちまけただけの無内容な現代美術を大げさに持ち上げる評論家のごとく、そのような箇所に過剰な意味づけをして世間を欺く共犯をやってきたのである。

だから、村上春樹と御用文芸評論家たちの行為は、低品質な食べ物に大量の食品添加物を加える行為に似ている。もっとも、見栄えをよくするための小手先のテクニックであっても、私たちはかえって、そういう安っぽい食品に群がりがちだ。

しかし、食品企業としては売れればいい。出版社もまったく同じである。

結局、人間心理や内面のドラマの描写、愛と憎悪・戦いや赦しといった人類にとっての普遍的なテーマの追求、読者を楽しませようというエンターテイメント性などの「物語の本質」が欠けていれば、その本質の補完材でしかない「飾り」「うんちく」部分をどれだけ散りばめたところで、中身のない小説――ただの文章の羅列の域を出ない。

いくら表面を糊塗するような真似をしても、本質はごまかすことはできない。とくに登場人物に人間らしさが不足し、人間不在の作品と化している点は致命的だ。

出版社とメディアの創り上げた「村上春樹」という共同幻想

以上のことから、村上春樹は、「作家」としてならともかく、「小説家」としては三流であると思えてならないと前回言った。仮に彼を一流扱いすれば、その他の、私が敬愛してやまない本物の一流の小説家たちに失礼になると考える。やはり、並みいる日本の小説家たちの中では、彼の実際の実力は、下の下のクラスだと思う。

しかし、そんな彼の作品が大ヒットしてきたことも事実である。そして、ビジネスにとってはそれが一番重要だ。質が低かろうが悪かろうが、売れれば関係はない。

実は、業界の人なら暗黙のことだが、村上春樹に限らず、特定の小説家や作品を「売り出す仕掛け」というものが存在している。

本というモノが書店の棚にあるだけでは不十分なのだ。題名のつけ方、本の装丁、帯のコピーから「売る仕掛け」は始まっている。

そして、大きくものを言うのが、出版社の営業力。

コピー力・ネーミング力、広告打ち、自社媒体への併載、話題づくり・・等など、総じて大手出版社ほど宣伝に力を入れる。また、その資金も豊富である。

ちなみに、こういった販促が非常にうまくいったケースが2001年刊行の『世界の中心で、愛をさけぶ』(小学館)だろう。300万部を突破した。

だが、散々言ってきたように、売れたからといって質が高いとは限らない。人々の率直な感想はどうか。アマゾンの感想欄を覗いてみればいい。

このように「星一つ」が一番多い。ゴミだと言われているようなものだ。ちなみに私個人の感想をいえば、「こんなもので泣くやつがいるか」である。

実は、売上げを伸ばす手段として大手がよく活用するのが「書評」である。

職業書評家という“権威”や、知名度のあるタレント・俳優などがある作品を大げさに褒めていると、普通の人々は「ほほう」と興味をそそられる。

裏方は、そんな評価は嘘で、ただ金を支払っているだけだと知っている。

「村上春樹ブーム」にもこれが大きく貢献してきたのではないだろうか。

出版社から書評の仕事を貰っている何人もの文芸評論家たちが次々と絶賛する。それに対して、作家たちも他の書評家も出版界も沈黙を守る。なぜなら、全員がそのようなシステムの恩恵を受ける側だからだ。しかも、版元は、講談社、新潮社、文藝春秋など、資金力と人脈のある大手ばかり。仕掛け人は複数いるのだ。

これは「村上春樹利権共同体」とでも呼べばいいのだろうか。そして、この共犯をやるのが、出版社から多額の広告を受注している電通・大手新聞・キー局。

新聞社は「世界で村上春樹が流行」などのヨイショ記事しか書かない。内容がつまらないなどと本当のことを書けば、その出版社が広告を干してくるからだ。

こうして、大手の、しかも複数にまたがる出版社とメディアが一緒になって、これまで「村上春樹ブーム」を作り上げてきた。それが本当は虚構であろうと何であろうと、彼らからすれば馬鹿な大衆から金を搾り取ることさえできればよいのである。

実際に、私やあなたのような一般人は、こういった世間の流行りものや複数の権威や有名人が評価するもの、メディアが大げさに持ち上げるものに対して、弱い。

だから、『1Q84』だが、『騎士団長殺し』だか知らんが、4千円近くもの金を出して彼の小説を買っている私たちはよく考えるべきなのだ。これは「村上春樹利権」にありついている者たちがでっち上げたブームであり、私たちがそれに踊らされ、まんまと食い物にされている構図ではないのかと。私はその二つの大ベストセラーを未読だが、どうせこんな小説を買うのは環境破壊に加担しているようものだろうと想像している。

なぜ村上作品が世界的に注目されてしまったのか

ところで、村上春樹が世界的に売れているらしい。

以上の説明では、世界でヒットしていることの理由としては不十分だ。これについては、正直言って、私にも依然として不可解だ。

ビートルズやマイケル・ジャクソン、「ハリーポッター」や「ドラゴンボール」、「ゼルダの伝説」などが世界的にヒットする理由は分かる。

だが、なんでよりによって村上春樹がその二段下くらいのブームになるのか。

これは現代における世界七不思議の一つである。

幸運の要素も多い、世界的な集団同調性バイアス現象なのかもしれない。

村上春樹が世界の読者から注目され始めた時期は、日本のビデオゲームやアニメが世界に普及して、日本の現代文化に対する興味が高まった頃と一致している。

そこで、たまたま“そこにあった”村上春樹の、本来つまらない小説が、日本のカルチャーということで、過度に注目を浴びてしまった可能性は考えられないだろうか。

第一に、日本のものに飢えたファンが安易に日本の小説にも飛びついた。

第二に、なにかと異文化に理解を示し、過度に持ち上げることで世間に教養人たることをアピールしたがる欧米の評論家や書評家が無責任に評価してしまった。

このような連中が、本音では「なんだ、このゴミ小説は! 日本人は小説の書き方も知らんのか?」と思いながらも、つい大げさに褒め称えてしまった。

世間の評判に弱いのは、日本だけでなく、欧米でもどこでも同じだ。日本と同じ様に世界的に「過大評価の雪だるま現象」が起こってしまったのかもしれない。

それにしても、私としては忸怩たる思いだ。よりにもよって日本の現代作家の中でもっともナンセンスなのが注目を浴びてしまうとは! もっと優れた、面白い小説を書く人はごまんといる。松本清張、森村誠一、赤川次郎、東野圭吾、真保裕一、宮部みゆき・・とくにミステリー分野には才能は事欠かない。日本の並みいる現代作家や大衆小説家が村上春樹レベルと思われるのは、日本人として非常に迷惑だ。

ましてや、ノーベル文学賞などをとったら、国辱ものと言わざるをえない。

だが、いずれ鍍金が剥げるだろう。世界の読書家たちも、こんなものはゴミだということに気づくはずだ。その時、世界でも“村上バブル”は弾ける。

私たち一般人が「王様は裸だ」と指差し続ければ、こんなものは終わる話なのだ。

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