高沢皓司「『オウムと北朝鮮』の闇を解いた 9」――サリン開発の責任者だった「科学技術省長官」刺殺事件の全真相 前編

韓国・北朝鮮
1995年4月23日夜、待ち伏せしていた徐裕行(ソ・ユヘン)によって村井秀夫が刺殺される瞬間




ジャーナリスト高沢皓司氏の「『オウムと北朝鮮』の闇を解いた」第9弾です。

第一、これは大事な情報なので、もっと世間に広まるべき。

第二、様々なサイトに転載されてから、すでに15年以上も放置されている。

以上のことから、その公益性を鑑み、「著作権者の高沢氏からの抗議が来たらすぐにやめる」ことを条件にして、勝手ながら当サイトでも転載させてもらうことにしました。

(以下引用 *赤字強調は筆者)
「週刊現代 1999年10月23日号」高沢皓司(ノンフィクション作家)

村井秀夫はなぜ口封じされたのか?

犯人の徐裕行は、逮捕後、「上祐、青山、村井の3幹部のうち、誰でもよかった」と供述していた。だが、これは明らかな嘘だった。やはり、村井こそを抹殺しなければならない、相当の理由があったのである。そこには、これまでの報道からは想像もできなかった、恐るべき国際陰謀が隠されていた—。



村井だけを待ち続けた暗殺者

「あの事件だけは北朝鮮の仕業だ」

関係者のほとんどすべての人間が、口を揃えて同じことを言う。法曹関係者、マスコミ、捜査関係者、再検証のために取材で接触した事件の周辺の人々。

しかし、その「真実」はこれまで噂の領域を出ることはなかった。どこかで、真相が意図的に隠蔽されている、この事件にはそんな印象が圧倒的に強い。

その事件とは、オウム真理教一連の事件のなかでも、もっとも不透明で謎に満ちた、村井秀夫刺殺事件のことである。村井「オウム真理教科学技術省」長官はなぜ殺されねばならなかったのか? 事件直後から噂が飛び交ったように、刺殺事件は村井にたいする口封じだったのだろうか? ただ、それだけだったのだろうか? 実行犯・徐裕行の背後には、事件直後から暴カ団関係者の介在と、北朝鮮工作組織の影が色濃く噂されてきた。

オウム真理教の一連の事件を、北朝鮮工作組織との関係のなかで再検証しようとするこの連載のなかで、この村井刺殺事件はどうしても避けて通ることのできない事件のひとつである。さらに言えば、オウム真理教の一連の事件の背後に横たわる、これまで明らかにされてこなかったもうひとつの隠された真実を解明する、重要な手がかりを与えてくれる事件であった、と言うこともできる。

事件の再検証をはじめるにあたって、あらかじめ述べておきたいのだが、一回の記事だけではそのすべてを書き尽くすことは難しい。何回かにわたって作業をつづけるが、この事件が、それだけ深い闇と陰謀に彩られているのだ、ということだけは冒頭に述べておいてもいいだろう。

事件が起こったのは1995年4月23日、地下鉄サリン事件から、ほぼ1ヵ月後

東京・南青山にあった「オウム真理教総本部」前、多くの報道陣、関係者、さらに衆人環視の真っただ中で引き起こされた事件だった。

事件前日の4月22日朝、徐裕行は足立区の自宅を出てタクシーを拾うと、まもなく運転手に、「ここらへんで包丁が買えるところはないか」と聞いている。近くの金物屋で刃渡り20センチの包丁を買った。値段は5000円だった。

その足で南青山の教団総本部前を下見。渋谷に出て喫茶店に入り、アイスミルクを注文。しばらくして店を出るが、すぐに同じ店に入り、夜まで時間を潰す。その夜は渋谷・道玄坂のラブホテルにホテトル嬢と泊まった。

翌日午前11時、そのラブホテルをチェック・アウト、南青山のオウム真理教総本部前に到着したのは、それから約20分後のことである。近くのコンビニでパンを買い、ふたたび総本部前に。それから約9時間、徐は本部前でじっとひとりの男がそこから出てくるのを待ちつづけた。この間、徐がその場を離れたのは、夕方になって近くのラーメン屋に入ったときだけである。辛抱強く、この暗殺者はただひたすら「男」の出てくるのを待っていた。つまり、科学技術省トップ・村井秀夫が彼の前に姿を見せるのを、である。

(暗殺当日の昼間、オウム総本部前にいた徐。)

彼がたったひとりの男、村井を待ち続けている間に、午前11時26分、上祐史浩緊急対策本部長が外出先から教団本部に戻ってきた。徐の前を通り過ぎるが、彼は手を出さない。徐が本部前に到着して数分後のことである。

午後2時38分、これも教団の幹部だった青山吉伸弁護士が外出先から総本部へ戻ってくるが、徐は動こうとしない。その10分後、ふたたび上祐が外出のために姿を現す。しかし、徐は今度も動こうとしない。

そして夜8時36分、村井秀夫が教団総本部かち姿を現した。この日、村井は普段つかっていた通用口が閉まっているのを知って、本部の正面玄関に姿を見せたのである。

徐裕行の身体がゆっくりと動いた。手にしていたアタッシェケースから包丁を取り出すと、ゆっくりと向きを変えた。テレビクルーのまばゆいライトの中へ暗殺者は平然と入っていった。村井の腹部に、買ったばかりで値札がついたままの包丁が突き刺さっていったのは、その数秒後のことである。

大きな隠すべき真実が存在した

犯行後の徐は、興奮した顔色を見せるでもなく、平然と立っていた。駆けつけた警察官に身柄を押さえられても終始、その態度は変わらなかった。任務を果たし終えた暗殺者の、充実感と虚脱の中にいたような印象を受ける。

この経過から、はっきりとすることは、暗殺者・徐が明らかに上祐でも青山でもなく、ただひたすら村井秀夫ひとりをターゲットにしていた、ということだった。

逮捕直後の供述で徐裕行は、

「自分ひとりで考えてやった。テレビでオウムの報道を、見て義憤にかられた。このままオウムを放置しておくと危険だと思い、誰でもいいから幹部を痛めつけようと思った」

と言っている。

しかし、この供述を信用した人間は、捜査関係者のなかにも誰一人としていないだろう。誰でもよかったというのは、明らかに事実と違う。

犯行後しばらくして、徐は所属団体について供述を変える。

「所属団体は伊勢市の神洲士衛館」

右翼団体である。しかし、この政治結社はなんの活動もしていなかった。前年、’94年の10月に三重県選挙管理委員会を通じて自治省に政治団体の設立届が出されてはいたが、街宣車もなく、事件の5日後には解散届が出されていた。

さらに供述は、「山口組系暴力団・羽根組(三重県伊勢市)幹部の上峯憲司から指示されたものである」という内容に変えられた。

警視庁は事件から20日ほどたった5月11日、羽根組幹部上峯憲司の逮捕に踏み切る。

しかし、上峯憲司の公判廷は一審、二審とも無罪。

裁判所は次のような判断を明らかにした。

「徐の供述には主要な点で不自然、不合理なところがある。……被告(上峯)が徐に殺害を指示したのであれば、それは絶対に組との関係が明るみに出ないように配慮すべき極秘指令であるはずである。刑事責任を免れようともくろんでいた被告が、わざわざこのような指示をする合理的な理由は見出しがたい。……(犯行を指示されたとする)日付に関する(徐の)供述変遷も非常に不自然で、被告からの話が徐にとってはさして重要なことではなかったのでは、との疑いをぬぐえない。……徐の供述には重要な疑問点があり、ほかに被告の犯行への関与を推認させる有力な証拠もない……」

ここで裁判所が示した徐の供述にたいする疑問は、この事件の経過を検証したときに、まったく正当なものである。上峯は、この村井秀夫刺殺事件に、どうやらまったく関係していない。では、なぜ、徐は「指示された」という供述をし、羽根組との関係を強調したのだろうか。

私がたちどころに思い当たる理由は、ふたつである。ひとつは取り調べにあたった捜査員による誘導。この「誘導」は、これまでにもいくつかの事件で大きな問題になったケースがある。人は自ら納得のいく絵しか描かない。逮捕直後の徐の供述、単独犯説に捜査陣がごく普通に疑問を持ったときに、この供述を引き出す土壌は用意されていたと言えるだろう。

さらに、もうひとつ、徐がなぜその誘導にのったのかという点については、テロリスト・徐裕行に、もっと大きな隠すべき真実と事情が存在していた、ということにほかならないだろう。

大きな隠すべき真実の前で、人は小さな嘘を罪の意識なく平然と言ってのけることができる。言葉で説明をはじめると何万言も費やさなければ、この事情を説明し切ることは容易ではないのだが、私は「よど号」のハィジャッカーたちの嘘と北朝鮮の虚構を解読する作業のなかで、なんどとなく同じようなケースに遭遇した。暴力団関係者に指示を受けた、という当局の誘導は、実行犯・徐裕行にとって、天の助け、とも思えたはずである。

さて、では徐が本当に隠したかったことは何であったのか?

親友の父親は朝鮮総連幹部

実行犯・徐裕行の背後には、明らかに北朝鮮工作組織の影がある。

私たちは、あらためて徐の生い立ち、周辺の事情を再検証した。関係者の話もできるかぎりの範囲で、あたり直した。さまざまな側面と複雑な背景、事情が浮き彫りにされてきたが、それらのひとつひとつをここでレポートしている余裕はもちろん、ない。

私が知りたいのは、そして明らかにしておきたいのは、背後で蠢く北朝鮮工作組織の関わりだけである。

徐の背景には、いくつかのあからさまな北朝鮮工作組織の人脈が配置されている。

東京・五反田のコリアン・クラブ「M」に徐が何度か顔を出していた、という話。ここのママの姉にあたる人物が、北朝鮮の工作員・辛光洙と同居していた人物であるという事実。また、この店のママの所有していた家屋に、徐が仲間3人と同届し、住民票を移していたという事実。

しかし、これらの複雑に絡みあった事実の背後に、なにかが潜んでいるという予感はあるにはあるのだが、どうやら、それらはこの事件の本筋ではない、という印象がつきまとう。

「M」のママはこう証言する。

「徐のことでは、うちは大きな損害を被った、事件が発覚するまで、徐の名前も知らないし、顔も見たことがなかった。店にも来たことはないですよ。

空き家になっていた世田谷の家を、Mという息子の友人に貸していたのは事実です。家賃は10万円でした。それがひとりでは家賃を払いきれないというので、もうひとり、Tという友人と二人で借りたいと言ってきた。断る理由もないでしょう。ところが徐のことになると皆目わかりません。あとから、MとT二人のうちのひとりが、徐を連れてきた、ということを知りました。しかも、住民票まで移していた、という……。

おかげで、世田谷の家がテレビに映し出されるわ、マスコミの人たちが押し寄せるわ、大変でしたよ。住民票が移されていたお陰で、大変な目にあいました。わからないことばっかりです。逆になにかに利用されたのかもしれません。公安が流した情報が書いてある雑誌をもって、公安が聞き込みにくる。マッチポンプみたいなものですよ」

しかし、さらに取材と検証をすすめる過程で私たちは、徐が一緒に住んでいた友人Mの父親が、朝鮮総連の幹部だったという事実に突き当たった。さらにタクシーの運転手をしていた徐の父親もまた、朝鮮総連と関係の深い人物であったようである。

しかし、だからといって、これらの登場人物が、徐の犯行の背後に直接なんらかのかたちで関係しているということはできない。ただ、私はこうした事実の積み重ねのなかで、徐裕行の生い立ちにおける北朝鮮との深い関わりを見る。

北朝鮮へ渡った形跡がある

徐が世田谷で同居していた友人のひとりTは、その後別の事件で逮捕され、村井刺殺事件との関係を追及されている。そのTの弁護士の話は、大変興味深いものだった。

――徐は朝鮮学校の出身だという話があるのですが。

「そのはずです」

――足立区の工業高校出身という話もあるのですが。

「それは違うでしょう」

――親しくしていた友人のひとりの父親が、朝鮮総連の幹部だった、ということについてはどうでしょうか。

「あっ、やっぱりそうでしたか? じつはね、われわれもあの刺殺事件の裏には、なにかが絡んでいたのではないかと考えていたんです。いろいろな状況から考えると、ほぼ90%はそうではないか、と」

――具体的には?

「上峯の裁判についてはご存じですね? 徐は他の誰かの名をかたることによってカモフラージュしたんだと思いますよ。私も函館(刑務所)に行って徐に会ってきましたが、凄い形相で睨みつけるような表情をしていた。大胆でしたたかな人物ですね。出廷したときも裏の関係については発言を拒否した。なぜ拒否してなにも言わないかというと、彼は役目を終えたからだと思います。目的を果たした以上、しゃべる必要はない。それに一度、上峯の名前を出してしまっているしね。ただ、まだ言うことができないことがたくさんあるんですよ。いずれ、あきらかにしなければならないことだとも思いますが……」

徐の背後関係について、誰もが確信めいた疑惑を持っている。しかし、そのことは深い闇のなかに封印されたままで、あからさまに語ることを誰もが躊躇する。

しかし、ここで私は、こうした回りくどい言い方をやめて、はっきりと書いてしまいたい。徐裕行は、北朝鮮工作組織の関与のなかて、村井刺殺という犯行におよんだ、と。いくつかの傍証は、これから徐々に出していくことができるだろう。

ただここでひとつだけ明らかにしておけば、徐の経歴のなかで、一時期、まったく足取りがつかめない空白の部分が存在する。高校中退後からイベント関係の会社を設立するまでの数年間の空白である。この空白の数年間、そのうちの大部分を彼は北朝鮮に渡っていた形跡があることである。そこで、彼は北朝鮮の思想と工作の技術を学んだのではないだろうか。

くり返すことになるが、この訓練と工作技術を学んだ人問は決して、自分の思想性を表面には表さない。それが金日成主義の原則であるからである。そして秘めやかに地下活動に従事する。工作員が自分の思想性を露にしてしまえば、それはもはや工作員たりえない。

徐裕行も、イベント会社を設立してからの友人たちの描くプロフィールのなかに、微塵もその思想的な側面を滲ませていない。政治の話などしたことがなかった、という証言だけが集まってくるのである。

しかし、その徐が、事件の数週間前から突然、「オウムには気をつけろ」と語りはじめた、という証言が複数得られている。このとき、徐はすでに、ある密命を帯びていたと考えるのが分かりやすい。

北朝鮮が危惧した「秘密」の暴露

渋谷・道玄坂。事件の前日、徐は上峯被告と連絡を取り合ったことになっているが、北朝鮮工作員のやり方として、これはきわめて不自然なものにうつる。

北朝鮮工作員のやり方から見て、すぐに足のつくような電話や接触による連絡などは、取るはずがないからである。

徐は犯行直後の供述で、「自分の考えでやった」と、単独犯行を匂わせる供述を行っている。

私には、むしろこの供述のほうに、半分の真実が隠されているように見える。なぜなら金日成主義の工作員は、獲得すべき任務の内容を指示されるが、その具体的なノウハウについては、通常、指示を受けないものであるからである

そのために高度な工作技術――破壊工作の技術であれ殺人のための技術であれ、領導芸術と呼ばれる誘導の技術もふくめて、高度な訓練を受ける。自分の思想性、主義主張を隠したままで、実質のともなった工作を完了するために、この訓練は必須である。

徐はその意味で、きわめて高度に訓練されたテロリストであり、工作員であったのである。彼の並はずれた忍耐力も、それを証明している。

では、なぜ村井秀夫だったのか?

ようやくこの謎を解くことをはじめなければならないだろう。

’95年4月、事件の数日前に村井「才ウム科学技術省」長官は、テレビに出演し、次のようなことを語っている。

「使える金は1000億ある」

「地下鉄事件で使われたのはサリンではなく、別のガスだ。アメリカの研究所もそのことを証明してくれる」

この放送を聞いていたある関係者は、一瞬、身が凍ったという。村井が秘密にせねばならないことを話してしまうのではないのか、と。

村井は、周辺の人間の印象として、ひどく生真面目で、誠実な人柄だった、という証言がきわめて多い。それは村井という人間の気の弱さをも象徴しているだろう。

「村井がしゃべってしまう」

その危機感をオウム幹部の誰もがいだいた。そして、その危慎をいだいたのはオウムの幹部たちだけではなかった。オウム事件の背後に蠢く北朝鮮工作組織も、そのことにきわめて強い危惧を持っただろうことは想像に難くない。

まさに村井が話し出したふたつの事がらは、先週号で指摘した、偽ドルを含むオウム真理教の資金ルート、さらにはサリンの入手ルートにつながるものだった。

そして、さらに、それらふたつ以外に、現在にいたっても秘匿されたままの第三の秘密、どうしても隠し通さなければならない、さらに深い秘密につながっていくものだった。

その第三の秘密に村井がふれかねない危慎を、北朝鮮側にもいだかせるものだったのである。

(文中敬称略、以下次号)

■取材協力 時任兼作、今若孝夫、加藤康夫(ジャーナリスト)

(以上引用終わり)

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