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国籍や民族もまた現世で自分に与えられた役柄である

撮影:Takaaki Yamada

さて、前回は「人種・民族・性別」を超えた輪廻転生という観点から、それらを理由とした差別的な考えが無意味であることを説明しました。

ただし、ここが肝心な点ですが、

第一に、その概念は社会的公正の基礎として用いられるべきだ、ということです。

ヒンドゥ教や仏教では、輪廻転生は「カルマ」と関連付けられることがある。

だから、現世において、あなたがある人種・民族・性別そして社会的階層に属することによって不当な仕打ちを受けているとしたら、それは前世の報いであり、甘んじて「罰」を受けねばならない・・・という類いの馬鹿げた考えが生まれてしまった。

これこそ政治が霊的知識を悪用した典型です。こういった解釈を提起するのは常に支配者側であった事実を知らねばなりません。彼らにとって下々の人間は従順であったほうが都合がよいのです。ゆえに真理から二次思想を作り、濫用してきました。

本来、上の概念は社会的公正のためのものであって、いかなる社会的不公正も容認するものではありません。またカルマを盾にしてその個人が受けている不当な仕打ち容認することも許されません。そういう意味で、近代的な人権思想や社会正義は霊的知識と対立するものではなく、補完して、両刃の剣となることを防いでくれるものでもあります。



自衛のための戦争は正しい

第二に、戦争を全否定するものではないということです。

これには驚かれるかもしれません。

もちろん、理想は、万人が人種・民族・性別、そして国籍や宗派を超えて、いかなる争いもなく平和的に共存し、ともに助け合って繁栄することです。

しかし、人類がその理想に到達するまでの道のりは長く、まだまだそれらの属性を根とする利害衝突や、時には戦争が起こるでしょう。私たちは依然、未熟なのです。

そこで現実に起きる争いにあって、私たちは個人としていかなる選択を取るべきかが問われます。輪廻転生を理由にして、国籍も民族も戦争も無意味であるとして、何もしないのか。それとも、そのしがらみを受け入れ、あえて戦うことも厭わないのか。

戦争に関していえば、常に「動機」が判断基準です。こちらから他者のテリトリーを侵略し、あまつさえ大量殺人をやる行為は、まったく許されない罪悪です。

ところが、そうやって不当に仕掛けられた場合には、逆に戦わなければならない、ということです。つまり、自衛のための戦争は正しいということです。

これは人類だけでなく、全生物にとって絶対的な真理です。どんな生き物でも、襲われたら、逃げるか、抵抗します。逃げられない時は最後の瞬間まで戦います。

不可解なことに、今の日本では「外国から侵略されても無抵抗でいる」と公言する知識人が一部にいます。これは平和主義でも何でもなく、逆に悪を助長する行為です。

こういう者たちは、他方で、自分が強盗にあったらすぐに警察を呼ぶわけです。暴力に対して、別の暴力(しかも国家権力の暴力)をもって防ごうとするわけです。

彼らの間違いはまた、外国の軍事侵攻と、政府の対デモ行動という、まったく次元の異なる状況を混同している点です。後者に対しては、非暴力は政治的な戦略の一つになりえます。前者の場合、非暴力は逆に侵略を助長します。占領後に非暴力デモに訴えればいいという思考もただのナンセンスで、デモ自体が非合法化されて終わりです。

とりわけ、自衛の戦争にあって、職業軍人が戦うことは「義務」ですらあります。

人が、ある時はドイツ人、ある時はフランス人に輪廻転生するとしたら、普仏戦争や第一次大戦で祖国のために戦うことに何の意味があるのでしょうか?

おそらく、究極のレベルではないでしょう。しかし、仮にあなたがフランスの職業軍人であるなら、祖国を守るためにドイツ軍人を殺さねばならない。

たとえ前世がイギリス人であっても、現世でイギリス軍から自国が侵略され、自由と生命を奪われる側の人間である場合には、人間として戦わねばなりません。自衛のために、あなたの生まれ育った祖国のために立ち上がることは、まったく正義なのです。

もっとも、「自衛のための戦争は正しい」としても、それが本当に「自衛」の戦争なのか、それとも戦争によって何らかの利益を得る者たちが人々を戦争へと駆り立てるための都合のよい口実なのかは、ちゃんと見極めなければなりません。

後者は、とくに民主国家ではありがちな現象です。

しかし、それはまた別の問題です。政治が民衆を欺く類いの悪は、自衛の戦い自体はやらねばならないという真理とは、また次元を異にします。

自分の生まれ育った郷土や国を愛するのは当たり前のこと

第三に、以上とも関係しますが、「愛国心」(又郷土愛)を否定するものではないということです。霊的英知は、戦争も、愛国心も、全否定しないのです。

言うまでもないですが、自分たちさえ良ければいいという精神を意味しません。

このあたりのことは、以前にも述べました。

私はこれまでの記事で次のように書いてきました。私たちはみんな神様で、本質的にはいかなる優劣も存在しない。この世は単なる仮想現実に過ぎない。人は性別・民族・人種の枠を超えて生まれ変わる。すべては「神のリーラ(遊戯)」にすぎない。ま、全部、聖典
当記事は、先行するこちらの記事と互いに補完し合う関係にあるので、一部、内容が重複する部分もありますが、ご容赦ください。インドの神霊哲学に学んだ私は、次のように述べてきました。私たちはみんな神様で、本質的にはいかなる優劣も存在しない。この世は

ナショナリズムは「ネーション・ステイト」(国民国家)とともに誕生した共同幻想であるという学説があります。しかし、実際には、類似のメンタリティはすでに古代から見られます。たとえば、マサダのユダヤ人たち、ローマの侵略を受けたカルタゴの人々、そしてペルシア帝国の侵攻を受けたギリシアの都市国家の人々、等々です。

ナショナリズムはもっと人間の原始的な本能に根ざす感情で、それが近代国家による言語の統一・公教育・徴兵制の整備などにより制度化・洗練化されたに過ぎません。

霊的な観点でいえば、「身内」に属する意識と守る行動は、人間の根源的な部分で初期設定されている「ルール」に他なりません。つまり、自分がそのような立場に立たされた時に戦うことをしなければ、ルールそのものが崩壊してしまう、ということです。

要は、ゲームが成り立たなくなり、あなたも世界も存在意味を失ってしまうわけです。

それはちょうど「冒険RPG」の中で冒険することを放棄したようなものです。そうなったら、プレイヤーにとって「冒険ゲーム」は何の価値がありますか。

言葉を換えれば、「人は己の役柄を演じなければならない」ということです。

たしかに、人は、本質的には、いかなる人種や民族にも属さない神の化身です。人が霊的に向上していくにあたり、その真理は誰もが血肉化していかねばなりません。

しかしながら、繰り返される輪廻転生において、その時々の役柄までが消滅するわけではありません。それは本人の霊的向上のための用意された最善の道です。

ですから、われわれは、そうと分かりながらも、舞台における役柄(現世の役割)を放棄してはならないのです。たとえ現世でたまたま与えられた国籍や民族であっても、それはそれとして、最後まで演じ続けなければならないのです。