私はなぜ靖国神社に参拝するのか

オピニオン・提言系
撮影 Takaaki Yamada




靖国神社と参拝行為には問題が多い。

第一。いわゆる国家神道そのものが、明治維新後の政治的な背景と動機から人工的に生み出されたと考えられる、国家イデオロギー的な信仰であること。

第二。すべての日本人を対象としていないこと(慰霊にあたり、同じ国民を皇国イデオロギー基準で差別していること)。

承知の通り、由来は明治初めの「東京招魂社」。鳥羽・伏見以来の戊辰戦争戦没者のための施設。ゆえに明治維新の際に賊軍とされた会津藩などの戦死者は祀られなかった。

第三。祀られる側の個人的な意志と信仰を無視していること。

キリスト教やヒンズー教、その他の信仰者の中には、はた迷惑であり、場合によっては人生に関わる問題になる可能性を感じる人もいる。

第四。日中戦争のような大義なき侵略戦争の計画者・責任者まで祀ってよいのか。

多数の民間人死者を厭わなかった犯罪的性格の強い作戦遂行者や、稚拙かつ不合理な作戦のごり押しにより大量の餓死・病死を味方に強いた責任者も、中にはいる。

他方、それを強いられた側の将兵や命令に基づいて職務を果たしただけの将兵、又計画者の立場にあっても侵略や戦争犯罪の要素とは無縁に近い将官などが大勢を占める。

同じ「戦死者」ということで、その大勢と、少数の問題ありと見なされる者を、同列に置いて慰霊することが正しいのか。誰も彼も一緒にするのがよいのか、ということ。

これはA級戦犯合祀の問題と完全に同じではないが、ある程度、ダブる。

第五。天皇陛下自身が参拝を見送りしていること。

昭和天皇は戦後、靖国神社に参拝していたが、神社側がA級戦犯を合祀して以来、それを良しとしないことから参拝を見送るようになったと言われている。

以上、まだあるかもしれないが、だいたいこのような問題を抱えている。



靖国神社参拝を裁く者たちが都合よく忘れていること

私は上の事情を承知しながら、靖国神社に参拝している。

必ずしも「遺族だから」という理由ではないし、また8月15日は“小泉参拝”の政治的な騒動以来あまりに騒々しくなったのでむしろ避けている。

また、多くの参拝者がおっしゃる「英霊に感謝する」というのとも違う。

前にも書いたが、そもそも「1億玉砕」などという発想は“軍国主義”というより宗教的狂信に近い。その上、第一から第五までの問題点はよく承知している。

だから、私の靖国観の中身は、むしろ参拝反対派に近い。

にも関わらず、なんで山田高明は靖国を参拝するのかと、訝る人もいよう。

理由は第一に、宗教施設の役割は時代と共に変化していくということであり、第二に靖国にだけ厳格な基準が適用されねばならないとするのは不公平だと感じるからだ。

靖国神社は、歴史が浅いせいか、たしかに政治的な作為が透けて見える。

しかし、それを得意げに指摘する側は、そういった人工性や政治性が、本当はキリスト教や仏教も五十歩百歩であるという事実を都合よく忘れているか又は知らない。

つまり、“国家神道”を言うなら、国家キリスト教であり、国家仏教ではないのか、歴史的に見ればそっちのほうがもっと胡散臭くないのか、という話になる。

とくに、戦時中に戦争に反対しなかった過去をやたらと「反省」してみせる日本のキリスト教関係者などは、一番分かっていない者の自己欺瞞の典型だ。

キリスト教はローマ帝国時代に国家権力と融合し、聖俗両方にまたがる強大な権力そのものと化して、西ローマ帝国滅亡後も生き続けた。

そして、法王が先頭に立って十字軍遠征、ユダヤ人迫害、異端審問などをやった。

プロテスタントが枝分かれして以降も、教会がその時々の国家権力の戦争を支持して兵士を死地に赴かせることに協力することは、当たり前のように行われてきた。

つまり、比べ物にならないくらいキリスト教のほうが胡散臭いのである。

だから、日本のキリスト教関係者は、靖国神社を批判するが、それを言うならキリスト教についても反省しないと筋が通らないのではないか、という話である。

だいたい彼らはイエスが何と教えているのかも忘れているらしい。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイによる福音書)

靖国神社は今はただの慰霊施設である

もちろん、後世の宗教会議が聖書を編集し教義に手を加えても、精髄たる「マタイの福音書」の普遍性はなおも失われない。これは「法句経」などの仏教の経典も同じことである。そこが人種と民族の壁を越える霊的真理を有する世界宗教たるゆえんだ。

対して、こう言っては怒る人もいるだろうが、国家神道は現人神を信仰し、その系譜を核とする共同体への帰属意識を確認し、自負するための民族宗教のようなものだった。

一度の敗戦で瓦解してしまうほど宗教的呪縛力が弱いのもそのためである。

だからこそ、結局のところ余計なイデオロギー部分が取れて、「残った」のは戦争で亡くなった将兵のことを思い起こし、追悼したいという人々の素朴な想いだけである。

靖国の「真実」はそれだけとも言える。そしてそれに特化してきている。

だから、靖国神社の役割は時代と共に変遷し、今ではすっかり先の大戦で戦死した将兵を純粋に追悼することが主たる役割になっていると言える。

そして、参拝する人も、ごく一部を除いてだが、純粋に追悼する目的で訪ねている。

みなさんもそうだし、私もそうである。

それに対してまで、ごちゃごちゃとケチをつけるなら、歴史的に過ちを持つすべての宗教とその施設も全否定して、ちゃんと筋を通してからにしたらどうか。

なお、以上は、それゆえ靖国神社は何の改善もしなくてよいという意味ではない。

やはり以下のことは改善して欲しい。

賊軍とされた人々の名誉回復に対して何らかの手を打つこと。

また、信教の自由は絶対的に尊重されねばならない。

よって、遺族が合祀お断りを申請するなら、「生前の故人は合祀を望まなかった」ことの証人になってもらい、たとえば霊爾簿の上から「墨塗り抹消」し、「報告の儀」を別途執り行う等の柔軟な対策を取っても、罰は当たらないのではないだろうか。

神社側が「できない」とばかり突っぱねるだけでは何の解決にもならない。

すでに民間法人なので、国があれこれできないという、法的問題は承知している。

だから、神社側が「第三者委員会」を作って、幾つかの点を改善する必要がある。

神社側もまた人々の自由意志を尊重しなければ国民の理解は得られない。

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