みなさん、こんにちわ。
最近ユーチューブで偶然に見て、すっかり嵌まってしまったアニメの場面があります。アニメそのものではなくて、あるアクションの場面ですね。
それがこれ。
[AMV] Jubei Chan II [Jubei VS Freesia] (Full HD – 1080p)
Jubei-chan 2
もう何十回見たか分からない。
アクションとBGMが妙にマッチしていて、思わず見入ってしまう感じです。
読者の皆さんも、まずご鑑賞あれ。
そして、上をご覧になって、どういう感想を持たれたでしょうか?
このシーンの演出・原画・動画を担当したアニメーターの皆さんは天才だというのが私の感想です。不運にして、作品名は私がおっさん過ぎて分からなかった。
調べみて『十兵衛ちゃん2 ―シベリア柳生の逆襲-』(2004年1月7日 – 3月31日放送)だと分かりました。どうもパート1があって、それが『十兵衛ちゃん ―ラブリー眼帯の秘密―』(1999年4月5日 – 6月28日放送)だそうです。
「ラブリー眼帯」ですがな(笑)。
この黒人さんも大ファンかな?
ウィキペディア『十兵衛ちゃん』によると、こんな内容です。
今から約300年前、江戸時代初期の剣豪、柳生十兵衛は今際の際に、弟子の小田豪鯉之助に「ラブリー眼帯」を授け、2代目柳生十兵衛を探し出せと言い残して死去する。2代目の条件は――「ぽちゃぽちゃのぷりんぷりんのぼんぼーん」。 300年後の現代。2代目にいきなり指名されてしまった中学2年の少女・菜ノ花自由。彼女は「ぽちゃぽちゃのぷりんぷりんのぼんぼーん」であるため、その名を継ぐ資格があると鯉之助はいう。彼は300年間気力だけで生きながらえてきたのだ。見事認められた自由はいやいやながらも眼帯をつけたとたん、天下無双の剣の達人「十兵衛ちゃん」へと変身、柳生に代々深い恨みを持つ「竜乗寺家」からの挑戦を受けざるを得なくなったが、実は2代目柳生十兵衛の剣には秘密の力があった。
いやはや、なんとも自由な発想で。
原作・監督・脚本は「大地丙太郎」という方です。
これほどの天才にも関わらず、今まで大地氏の名前は存じていませんでした。
そもそも、私は2000年代以降のアニメの大半を見ていない。しかも、こんなことを言ったら反感を買うかもしれないが、いわゆる「萌えアニメ」があまり好きではない。もちろん、内容次第ですが、あのキャラデザインからして少し抵抗がある。
見ようによっては、この『十兵衛ちゃん』もその部類に入るのかもしれないが・・。
ともあれ、この作品は音楽もいいんですね。
[Music] Jubei-Chan 2: The Counterattack of Siberia Yagyu ► Main Theme (Re-Mix ver.) ║Extended║
歩いている時や電車に乗っている時に、しばらく、これが脳内再生されてますた。
声優さんたちの演技もいい! 改めて、日本のアニメというのは、様々な才能が寄り集まって創られている総合芸術なんだなと思います。
というわけで、アニメの文化的価値をわらう輩は、私の筆誅の前に倒れるがよい。
アニメの面白さは「デフォルメ」や「荒唐無稽さ」にあり
ところで、アニメの「面白さ」って何でしょうね?
ストーリーやキャラクターの魅力は当然の条件でしょう。しかし、それはアニメに限った話ではなく、小説や映画・漫画などのフィクション全般に共通することです。
私がここで言っているのは「アニメならではの面白さ」のことです。
実は、私がここで『十兵衛ちゃん』の動画を紹介した訳は、その答を何となく教えてくれている気がしたからですた。あるいはヒントとか示唆と呼ぶべきでしょうか。
それは「デフォルメ」とか「荒唐無稽さ」ではないでしょうか。
つまり、リアルな映画撮影では絶対に不可能な動きや表現。
逆にいえば、そのアニメ作品が簡単に実写化できるようなら、それがいかに面白い作品であっても、「アニメ的」とは言えない。極論すれば、それが物語的に面白いか否かにかかわらず絶対に実写化不可能とすれば、それは「アニメ的」であると言える。
近年、世界的に話題になったアニメに新海誠監督の『君の名は。』があります。私も好きな作品であり、以前、当サイトでもこんな記事を書かせていただきました。
余談ですが、2018年12月、新海誠監督の三年ぶりとなる新作「天気の子」の発表が行われました。2019年7月19日に公開されるとのことで、大変楽しみです。
新海誠作品といえば、背景美術の美しさで知られています。
私は当初「リアルを追及したもの」というふうに考えていたのですが、現実の風景を模倣しているようでいて、実際にはそれを「アニメ的な美しさ」へと変換しているのではないかと気づいた。ですから仮に新海作品の背景美術のモデルとなった風景をそのまま実写でドンと出したとしても、私たちはそれをさして美しいとは思わないでしょう。むしろ、現実のほうが色あせて感じられるに違いない。CGを使って現実のモデルのほうを加工修正しなければ、アニメで感じたような美しさは感じられないかもしれません。
つまり、「リアルな背景」と言うが、実際には現実をデフォルメしているんですね。
現実の風景のアニメ化に関しては、深夜アニメ枠の拡大などによる制作数の増加に現場が追いつかなくなり、デジカメで写真を撮ってトレースする方法が広まったことも影響していると考えられる。興味深いことに、ちょうどリミットアニメから日本アニメの独特の動きや演出方法が生まれたように、今回も「手抜き」からかえって「瓢箪から駒」なプラスの効果が生まれたのかもしれません。今では、ファンの間では、その風景を探し当てたり、訪ねたりする「聖地巡礼」が流行っています。
ちょっと話が逸れましたが、ただ、キャラの「動き」に関しては『君の名は。』をはじめとする新海誠作品は、それほど「アニメ的」とは言えない。まあ、これはキャラが普通の人間という設定だから、そこから限定されていることかもしれないけど。
その点、『ドラゴンボール』などは大変「アニメ的」と言えます。むしろ、実写作品のヒーロー作品やアクション作品のほうが、CGを多用することによりあのレベルに近づこうとしている。だから今では実写のほうがアニメに近づいているとも言われる。
しかし、上で紹介した『十兵衛ちゃん』レベルになるには、もう実写というよりは、ほとんどアニメそのものにならないと再現不可能でしょう。そういう意味で、『十兵衛ちゃん』はアニメならではの「デフォルメ」や「荒唐無稽さ」を有しています。
つまり、『十兵衛ちゃん』は十分に「アニメ的」な面白さのある作品ということです。
日本の伝統と「フィクション論」
かつてディズニーのアニメ映画では、マンガ的でない人物が登場する場合、現実の俳優に演技させて、その動きをそのままトレースする技法を取っていた。それこそフルアニメの一コマずつ・・。それがアニメをより高級化する方法とさえ信じらていた。
欧米では、マンガでさえ、登場人物は現実の表情や動きの模倣がよしとされた。言ってみれば、写実主義的であり、美術の技法。しかし、日本は「絵巻」や「浮世絵」を見ても分かるように、伝統的にそういった人体模型的な描写から自由だった。
興味深いことに、すでに「絵巻」の段階で、止まっている絵を動いているように錯覚させる技法などが登場しています。そうやって日本人は、昔から読者の「目」以上に、その背後にある「脳」に訴えかける技法を発明し、積み重ねてきたんですね。
そういう伝統があったからこそ、アニメの制作において、現実にはありえないアニメならではの表現方法が花開いたのだと思う。そうしたことを無意識のうちに行い得るというのは、制作現場の制約から来る苦肉の策以上に、日本美術の歴史があるからです。
人間の「フィクション」の伝統は、当初、演劇から始まり、小説、マンガ(絵物語)、映画、アニメ、ビデオゲームへと進化してきました。興味深いことに、テクノロジーの進化がフィクションの技法の域を広げてきたわけです。
それぞれの技法に一長一短があります。たとえば、小説は人間の内面描写に優れていますが、一方で視覚や聴覚には訴えかけません。対して、映画は視覚や聴覚に訴えかけますが、人間の「考え」を克明に描写するには適さない表現方法です。
それは単なる「違い」なのです。ありがちな過ちは、たとえば小説とマンガを比較して優劣を論じる行為です。だから小説と比べてマンガを劣った存在であるかのように論じている作家識者がいたとしたら、それは彼とその考えが劣っているということです。
マンガは小説的長所と映画的長所の両方に欠けますが、一方で、映画よりは人物の心理描写に長け、また小説よりは視覚に訴えることができます。そういう意味で、小説と映画の間に位置する広大な空域を埋めているわけです。
「デフォルメ」でいえば、日本のマンガは、リアルな顔面ではありえない表情や、通常の人体ではありえない動きを追求してきました。止まっている絵を動いているように錯覚させ、「擬音」という形で音のイメージも表現してきました。キャラクターの心理に即した背景まで考案してきました。結果、芸術表現として高いレベルに達しています。
だから、一昔前のアメコミを見ると、キャラクターが無表情で、動きが止まっているように見えます。人の「脳」に訴えかける道を選んだ日本マンガの勝ちでしょう。
結局、雑談になっちゃいましたが、機会あれば、いずれマンガとアニメの日本独自の表現方法についてまとめてみようと思います。
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