前回は、天皇陛下が知らず知らずのうちに公務の形で「九経」を実践なさっていることが日本社会に不思議な安定をもたらしている秘訣ではないかと述べた。
しかも、それは半ば偶然に出来上がった「戦後天皇システム」による恩恵であると。
そう考えると、国会や委員会での議論とか、法律の制定などの“雑事”は、従来どおり政治家や官僚などの“臣下”に任せておけばよいのであって、天皇陛下はあくまで「政」(まつりごと)の最上級部分にのみ専念される今のシステムをよしとすべきだろう。
興味深いことだが、大和朝廷による国家開闢以来、日本の政体は常に進化し続けた。現在のシステムはその果てにたどり着いた、今のところベストなものではないか。
日本の政治システムは時代と共にどのように変化してきたか?(明治維新まで)
ここ1500年の変遷を、少し駆け足で振り返ってみたい。
最初は天皇家による親政(独裁)である。しかし、わずか2世紀後には外戚の有力貴族が実権を握るようになる。いわば大貴族による寡頭政体である。しかし、貴族同士の権力争いが激化すると、その警護役である武士が台頭する。ギリシアのポリスの頃からそうだが、結局は命賭けの戦いで成果を勝ち取った者が体制の中で優位に立ってくる。
その武士がついに主役に躍り出たのが源平合戦の頃であり、鎌倉幕府の樹立に至る。
ただ、以後数百年は、力関係の大小こそあれ、基本的に武家政府と、旧来の天皇・貴族政府が並立する状況が続いたと言える。それが壊れたのが戦国時代。その完全実力主義の中から覇権を握ったのが豊臣秀吉であり、それに取って代わった徳川家康だった。
家康による日本再統一は「第二の建国」に等しい偉業かもしれない。その徳川政体は長期安定したが、他方で家柄・地位・身分などが半固定されてしまう。また、天皇を中心とする旧政体は幕府の管理下でかつてなく縮小される形で継続を許された。
さて、天皇→大貴族→武士へと実権が移った。その武士の長期政権が続くと、今度はその裾野の広い支配層の内部で、外様とされた周辺勢力や下級武士による下克上が胎動する。
しかも、海外の軍事的脅威の高まりも変化の要因になった。彼らは自らの正統性の根拠として、古来よりの権威だが、隅に追われていた天皇を担ぎ上げて徳川幕府の打倒に立ち上がった。ただし、他方で時代のニーズであった三百諸藩の統合による国民国家の設立と近代化にも応える格好になった。結局は時代の変化に適用した側が勝利した。
日本の政治システムは時代と共にどのように変化してきたか?(明治維新後)
さて、明治維新後から現代までである。
当初、明治新政府は倒幕の主力となった薩長派閥が有力ポストを占めた。しかも、従来のあらゆる勢力をまとめて国民国家化するため、敵側だった旧勢力に対してもかなり妥協的にならざるをえなかった。その象徴の一つが華族制度の新設だった。
だが、テクノロジーの急激な発達と地球規模での人・モノ・カネの往来の活発化は、もはや日本だけが他者の影響を排して孤立してやっていくことを不可能にしていた。
列強との熾烈な競争から、近代的な教育や軍隊のシステムを整備することは不可欠だった。そして、農村などのまったく市井の優秀な若者がそのルートから社会の上層部へと解き放たれていった。また、軍部とりわけ陸軍が肥大化し始めた。次第に日本最大の官僚組織と化し、そこに出世の道を求めた無名大衆の出身者が大きな力を持った。しかも、日清日露戦争の戦功と兵士の犠牲が、ますます軍部・大衆の声を大きくした。
そこへ普通選挙の施行に代表される世界的な民主化の波が重なった。日本も大正デモクラシーや労働運動の活発化という形で民主化が進み、次第に議会と大衆勢力の比重が増していった。ただ、それは一方で民族主義的な思想や団体の膨張を許した。しかも外部の右派的な大衆勢力は、同じ大衆出身者が形づくる軍隊と容易に結びついた。
1920年代は民主化の時代でもあったが、他方で四度の金融恐慌に襲われた時代でもあった。皮肉なことに、明治維新によって出来た支配階級は、今度は陸軍と大衆という新興勢力から社会改革のために突き上げられる番となった。しかも、宮中・貴族・外務省・財閥などは親英米の国際協調主義者だったが、陸軍と大衆勢力は反英米・国粋主義に傾斜していった。
その陸軍のトップを天皇・皇族が務めるというねじれ状態があり、もっとも急進的な後者が“君側の奸”を排して天皇親政を目指すという奇妙な現象までが起こった。
大きな時代の流れ(又は空気)として、過度に民族主義的な陸軍と大衆勢力に対して、その統率者たる当の天皇自身が抗えなくなってしまった。たとえば、天皇は明確に満州から関内への軍事侵攻を禁止し、かつ英米との開戦を最後まで忌避したが、軍部によって守られることはなく、結局はずるずると押し切られ、妥協する格好になった。
よって、戦前戦中の状況を言うなら、日本は中途半端に民主化しており、大衆がほとんど国の主役に躍り出ようとしていたが、他方でその代弁者たる軍部が国家内国家と化して議会制民主主義を骨抜きにし、自身の組織防衛と独裁に走って、国全体を戦争という大博打に引きずり込み、結局は国家国民に多大な犠牲を強いる形になった。
さて、盛大に敗戦した日本は、軍民350万もの死者を出して、国土が灰燼に帰し、一時的に戦勝国のGHQの統治を受け入れるに至った。
そして、戦後憲法が立ち上がり、旧軍部は事実上滅んで、日本は新しく生まれ変わった。
以来、70余年、日本は基本的にその「戦後システム」のOSで動き続けている。
なぜ私たち国民が「大きな顔」をできるようになったのか?
さて、よく喧伝されるのが、大戦による大量の死者は軍部の無為無策による無駄死にではなかったのかということだ。ある視点、とくに軍事戦略視点では当然そうなろう。しかし、歴史的な観点で言うなら、まったくそうではない、というのが私の考えである。
そして、実はそれが当記事のポイントである。
繰り返すが、私は「日本の政体の変遷」をテーマとして記している。
上で見てきたように、当初は天皇の専制政治からスタートし、その権力が徐々に下層・周辺へと移っていって、最終的に一般大衆へと到達したのが経緯である。
現代の無名の市民――つまり私やあなたたち――が、なぜこうも偉そうに国家社会にモノを言えるようなったのか? なぜ世の中の主人ズラをして一国の総理大臣を罵ることができるようになったのか? なぜ天皇も総理も“国民に寄り添う”のか?
その理由は、実は、一般市民が先の大戦で大量に犠牲になったからではないか。
「私たち国民が最大の犠牲を支払った」という、その想いが、戦後、一般大衆をして、日本社会の主人たらしめたのではないか。
逆にいえば、仮に米軍がサイパン島を占領したあたりで講和に持ち込んでいたなら、当然300万もの犠牲は回避されたが、他方で「戦後」の改革は不徹底に終わり、民主化も不十分で、一般大衆が今なお権威に対して声高に主張できなかった可能性がある。
つまり、今風に言えば、私たち国民は、先の戦争で最大の犠牲者になることで、その後の社会のマウントを取ることができた、ということである。
そこに「戦後天皇システム」が非常にうまくマッチする格好になっている。
当初の「専制君主」が2千年(歴史的に正確かどうかはともかく)経って象徴的存在となり、主権者となった「民」とこのような関係を結んでいる・・・。
なんとも不思議だが、この2千年の進化を経てようやく獲得した政体が、日本という国の安定の大いなる秘訣であるのは、確かに違いない。
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