みなさん、こんにちわ。
「紹介」と称するのはおこがましい話で、以下はほんの挨拶程度のものです。
「バガヴァッド・ギーター」(Bhagavad Gita)については、ウィキペディアがたいへん参考になります。
それによると、記されたのは紀元前5世紀頃から紀元前2世紀頃。
700篇の韻文詩からなるヒンドゥー教の聖典のひとつである。
ヒンドゥーの叙事詩マハーバーラタにその一部として収められており、単純にギーターと省略されることもある。「ギーター」とはサンスクリットで「歌」(又は詩)を意味し、「バガヴァン」(Bhagavan)、すなわち「神の歌」(詩)と訳すことができる。
「ラーマーヤナ」と並んで、「マハーバーラタ」という古代インドの大長編叙事詩の名が高校の世界史で登場します。マハーとは偉大、バーラタとは古代インドのことです。
つまり「偉大なるバーラタ」(Bharat)という意味です。「大日本」とか「グレイト・ブリテン」とか「大清」と称するのと似ているかもしれません。
そういえば最近、サイババ信者であるインドのモディ首相ですが、2023年の「G20サミット」で議長国を務めたのを機に、国際的な国の正式名称を「インディア」から「バーラト」(Bharat)にいきなり改めたとして話題になりました。
「精選版 日本国語大辞典」では、
(Bhārat) インド人によるインドの呼称。古代インドの伝説上の王バラタ(Bharata)の領土を意味するサンスクリットのバーラタ(Bhārata)に由来するヒンディー語で、一九四九年、インドの正式の国号として採択された。
となり、国内的にはすでに1949年に正式国号とされていたんですね。
「バーラタ」と「バーラト」は、単に日本語の方での翻訳の違いで、インドではどちらも「Bharat」のようです。私的には「バーラタ」の方がいいですが。
この「マターバーラタ」という大叙事詩の中に、もともと同じ大王の子孫であるパーンダヴァ一族とカウラヴァ一族の争いが描かれています。
王位継承をめぐって結局は内戦に発展してしまいます。
両軍が戦場で対峙した時、パーンダヴァ軍の王子アルジュナは苦悩します。簡単にいえば、「血縁を殺すのは大罪だ、私は戦わない」と言って、武器を捨ててしまいます。
これに対して、彼の乗る戦車の御者役を務めていた神の化身クリシュナは「戦いなさい」と諭します。
自陣に大義のある場合、戦士はちゃんと義務として戦わなければならないんですね。
最初の一章でアルジュナがえんえんと泣き言を述べた後に、二章から、今度はクリシュナが「この世の奥義」についてえんえんと語り始めて、彼を説得します。
その深遠な内容が「バガヴァッド・ギーター」と呼ばれているわけです。
さっそく一部を紹介してみましょう。
(2章11節)
バガヴァーン語る
博識なことを君は話すが
悲しむ値打ちのないことを嘆いている
真理を学んだ賢い人は
生者のためにも死者のためにも悲しまぬ
(2章12節)
私も、君も、ここにいる王たちも
かつて存在しなかったことはなく
将来、存在しなくなることもない
始めなく終わりなく永遠に存在しているのだ
(2章13節)
肉体をまとった魂は
幼年、青壮年を過ごして老年に達し
死後捨身して直ぐ他の体に移る
自己の本性を知る魂はこの変化を平然と見る
このように、クリシュナはアルジュナに対して長々と諭していくわけです。
この短い一節の中にすら、
人間に本質的な死が存在しないこと、魂と肉体が別々の存在であること、魂が不滅であるばかりでなく輪廻転生すること、
などが語られています。
これを「オカルト」と評して切り捨てるのは容易いですが、しかし、こういった人間観に立脚するだけでも、たとえば人種や民族の違いが表層的なものでしかなく、それを基にして人間を差別することがいかに馬鹿げているかがよく分かります。
ギーターの素晴らしい点は、これらを踏まえた上で、「人はいかに生きるべきか」「どうすればこの世の荒波を乗り越えて解脱することができるのか」を説いている点です。
あなたは『バガヴァッド・ギーター』を読まずに死ねるか?
というわけで、私的には『バガヴァッド・ギーター』ほどおススメする聖典はないわけですが、しかしながら、ギーター自身「この内容はまったく理解できない人もおる」と説いている通り、人を選ぶ内容であり、ある種の人にとっては狂ったオカルトとしか思えないかもしれません。
人間期においては、動物から繰り上がったばかりの人と、今回の人生で卒業して神々になる人とが混在しているので(だからこそ人間期は面白い)、受け止め方が人それぞれなのは仕方がありません。
ただ、少なくとも普段から仏教書を読むような精神的向上を目指す人にとっては、これ以上のガイダンスはないものと確信します。
私たちはつい実用的な知識ばかり求めますが、本当は、人を根底から変革するのは、一見実用とは何の関係もない、霊的な真理であるというのが、私の考えです。
その意味で、この「ギーター」ほど、有用な本はないかもしれません。
(了)
*なお、日本語版ですが、「ギーター」マニアの人ならご存じかもしれませんが、どれも翻訳が少しずつ違っています(笑)。
どれも一長一短のため、どれがいいかは難しい。
クリシュナ意識国際協会版は、かなり大胆な訳というか、意訳が過ぎる気もしますが(しかし真意はむしろよく伝えている)、その代わり注釈・解説が素晴らしい。
対して、岩波版は学問的であることに徹しており、熊澤版は両者の中間くらいだと思います。どれがいいかは、私程度には判断つきかねます。
なお、ますます狂った話に思えますが、おそらく日本の「ギーター」愛読者や研究者たちがほとんど誰も注目していない「ある予言」箇所に、私はなぜか引き付けられています。
しかも、私にはどうもそれがサイババさんと関係しているような気がしてならない。こんな着眼をしているのは、日本で私くらいのものかもしれませんが・・。
実は、サイババさんは「あ、実は大昔に、アルジュナに説法をしたのは、当時クリシュナだったワシじゃから」というふうに言っています(笑)。
その関係?で、現代のクリシュナによる『現代版ギーター』である『神の詩 サイババが語る「さとり」への道』も、一番下に紹介しておきます。
しかも、これを翻訳したのが青山圭秀(マサヒデ)さん。
すべては繋がっているんですね(笑)。
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