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過去5回の日中間の戦争を振り返って見えてくるもの

人民日報社

見方によっては、日本と中国は過去に5回も戦争している。

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歴史的に見れば日中間の戦争は珍しくない

1度目「白村江の戦い」

663年(天智2年)8月。倭・百済遺民連合軍と唐・新羅連合軍との戦い。朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた。

2度目「元寇」

モンゴル帝国(大元ウルス)及び高麗による二度の日本侵略戦争。1度目を文永の役(1274年)、2度目を弘安の役(1281年)という。蒙古襲来とも言われる。二度目において日本へ派遣された艦隊は、それ以前では史上最大規模の艦隊であったという。

3度目「日明戦争」

一期目は1592年に始まり1593年に休戦した「文禄の役」。二期目は1597年の講和交渉決裂によって再開し、1598年の太閤秀吉の死をもって日本軍撤退で終結した「慶長の役」。大半は日本軍と明軍との戦い。

4度目「日清戦争」

1894年7月~1895年3月。主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる戦い。

5度目「日中戦争」

1937年7月~1945年8月。日本帝国と中華民国との戦い。もともと上海平定が目的だったが、そのままずるずると全面戦争に移行していった。

以上はウィキペディアを参考にさせてもらった。なお、「元」はモンゴル人政権であり、「清」は満州人政権だが、「漢化された征服王朝」の場合、(中国の)一般的な歴史観では「中国の一王朝」と見なされているので、それに従うことにした。

日本が本当に勝ったと言えるのは、実は日清戦争だけか?

以上の5回にわたる戦争を振り返ってみると、最初は一方的な敗北であり、その後、日本はしばらく唐軍の侵攻に震え上がり、各地に要塞を築く有様だった。

2度目の元寇では、敵に攻め込まれたが、ほぼ沿岸地帯の侵攻に食い止めた。弘安の役では鎌倉武士団が奮戦し、モンゴル軍を撃退したと言われている。

3度目の日明戦争は、両者ほぼ互角だった。ただし、秀吉死去で増派が中断された経緯がある。「明史」ではそれで助かったという意味のことが記されている。

4度目の日清戦争で、ようやく日本は完全な勝利を収めた。陸軍の兵数や海軍艦艇の戦闘力では清軍のほうが優位だったが、結果は日本軍の圧勝だった。

引用元リンク切れ。教科書か何かの資料だと思われる。

このように、1から4度目までを見ると、「日本が中国に対して時代と共に強くなっている」のが分かる。ところが、評価が難しいのが最後の日中戦争。

当初の上海攻防戦こそ手間取ったものの、あとはほとんど日本軍が一方的に押しまくる展開に近かった。中国が広大なため、兵站が伸びきり、面の制圧には苦心したが、点と線の要衝は押さえた。また、陸軍の兵数こそ劣っていたものの、武器の質や士気・練度においても、とんどの場合、日本のほうが上だった。海軍力や空軍力の点では比較にならなかった。

このように、日中戦争時においては、過去のどの時代よりも、日本が圧倒的に中国よりも強かったというのが歴史的事実である。

ところが、戦術的にはどうであれ、戦略的にはとても「勝った」とは言い難い。

たしかに、英米による支援がなければ蒋介石政権は倒れていたかもしれないし、また日本からすれば「日米戦争に突入しなければ勝っていた」可能性が高い。だが、外交を駆使してそうなるように努力したのも彼らである。戦闘に勝ったからといって必ずしも戦争に勝つとは限らないということの典型例かもしれない。

むろん、言うまでもなく、これは国民党中国の話であって、今の共産中国に戦勝国ヅラする権利はない。ただし、戦略面でいえば、毛沢東こそが最大の勝者であることは間違いない。共産党は国民党と日本軍を戦わせ、その国民党は日本とアメリカを戦わせた・・・他力本願だろうが、ズルかろうが、やはり勝ったもの勝ち(変な表現)なのだ。

日本とガチで戦った中国王朝のその後の末路

その他にも興味深い事実がある。

第一に、日本と大規模な戦争を行った中国王朝に起きる異変。

最初の「白村江の戦い」は、日本からすれば大戦争だが、唐からすれば一戦闘のようなものだった。ほとんどの中国人もこんな戦いがあったことを知らない。だから、日中間の最初の「国家VS国家」の本格戦争は「元寇」ということになる。

弘安の役の後、しばらくするとフビライは亡くなり、その後、大元ウルスは内紛が頻発するようになる。そして急速に衰退して、やがて滅亡。

明は対日戦で国費をついやし、財政危機に陥る。その後、満州族の勢力拡大に対応できなくなり、侵略を受けて滅亡。

清は対日戦で敗北した後、列強のさらなる侵略を受け、辛亥革命で滅亡。

最後の国民党の場合は「滅んだ」わけではないが、結果的に中国全土の支配権を失った。蒋介石は、中国のほぼ全土を統一して以降、実質的に十年は統治していたので、中国史に倣えばこれも「王朝」の一つと言えるのではないかと思う。

このように、中国の歴代王朝にとって、日本は「鬼門」のようなものらしい。

石平氏「中国に近づくと必ず『国乱れる』日本史の法則」

そして、第二に、似たことが日本にも当てはまるということ。換言すれば、大陸といっさい戦争がない時、もっとはっきりいえば「縁を切った」ような状態の時、日本国内はなぜか平和になる。実は、石平氏の著作で、私も始めて気づいた。

(略)天智天皇の近江王朝、清盛の平家政権、秀吉の豊臣政権、中国と深く関係した政権はことごとく短期間で崩壊したのに対し、中国と没交渉か関係の薄い平安時代、江戸時代において、日本史上もっとも平和な“繁栄の時代”を享受できたのはなぜだろうか。

近・現代史においても、この不思議な関連性がはっきり見て取れる。たとえば昭和時代を概観してみると、昭和六年から二十年までの十四年間、日本は「満州事変」を引き起こして中国大陸に本格「進出」し、中国との全面戦争に突入する。有史以来、日本がこれほど中国に深入りしたのはこの時期をおいてほかにない。しかし、まさにこの十四年間、日本はもっとも苦難に満ちた“激動の時代”を経験し、太平洋戦争の敗戦による外国軍の本土占領という、最悪の結末を迎えるのである。

昭和二十年の敗戦から四十七年の日中国交回復に至るまでの二十七年間、日本は再び中国大陸を隔離された関係にあった。そして、この期間、日本は驚異的な高度経済成長を成し遂げ、戦後の繁栄と発展を築き上げる“黄金の時代”となった。

これは一体、どういうことだろう。

『「日中友好」は日本を滅ぼす! 歴史が教える「脱中国」の法則』(講談社+α新書)プロローグより

石平氏は、大陸のことを、日本にとっての「祟り神」とまで表現されている。韓国が「疫病神」という表現はよく目にするが、中国を「祟り神」と喝破したのは石平氏が始めてかもしれない。仮にこういう歴史的ジンクスがあるとすると、中国に深入りしすぎている今の日本は、最終的に相当厄介な状況に行き着くのかもしれない・・・。

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