高沢皓司「『オウムと北朝鮮』の闇を解いた 6」――もう一人の「潜入工作員」は林郁夫の右腕だった

韓国・北朝鮮
元「治療省大臣」。地下鉄サリン事件の散布役の中で唯一死刑判決を免れた。




ジャーナリスト高沢皓司氏の「『オウムと北朝鮮』の闇を解いた」第6弾です。

第一、これは大事な情報なので、もっと世間に広まるべき。

第二、様々なサイトに転載されてから、すでに15年以上も放置されている。

以上のことから、その公益性を鑑み、「著作権者の高沢氏からの抗議が来たらすぐにやめる」ことを条件にして、勝手ながら当サイトでも転載させてもらうことにしました。

(以下引用 *赤字強調は筆者)
「週刊現代 1999年9月25日号」高沢皓司(ノンフィクション作家)

電気ショックによる記憶消し、薬物使用した洗脳…北朝鮮の”人格改造技術”をオウム真理教附属病院で実践した男

オウム真理教が、薬物や電気ショックを使って信者を「洗脳」していたことはよく知られているが、こうした恐ろしい手口は、すでに北朝鮮で実践されていたという。オウム病院に潜入した工作員Bは、この非合法活動に手を染めていた。しかもこの男は、麻原さえも「洗脳」できる立場にあったのである。



麻原彰晃の寵愛を受けていた

オウム真理教を過激なテロ行為に誘導していったと思われる幾人かの疑惑の人物。

これらの人物像に共通するのは、いずれも教団内部ではそれぞれに重要な立場を占めながら、あくまで目立った存在ではなく、あたかも影のようにひっそりと息をひそめて存在しているということだ。

したがって、彼らは、これまでの厖大なオウム真理教のマスコミ報道にも、ほとんど登場したことがなく、その姿を明確には露出させてはいない。

これから、ここで語りはじめなければならない疑惑の「潜入工作員」B(37歳)についても、元信者の次のような証言がある。

「Bはマスコミ的には華やかな人物でも有名な人間でもありませんでしたが、教団内では重要なポストにいた人間でした。でも、なぜ、彼は逮捕されなかったのでしょうか? あれだけのことをしておいて、彼だけが逮捕をまぬがれているということが、そもそも解せません」

私たち取材班が追いかけていたBは、教祖・麻原彰晃(松本智津夫)の側近医療団の中にいた、心理療法に長けていたといわれる一人の医師である。彼は教団内部でも特別な扱いを受けていた不思議な人物といわれる。

「Bは特別な信徒だったので、よくおぼえています。似年の4月に出家するとすぐに、師補という立場の幹部待遇になってホーリーネームをもらい、麻原とも直接にいろいろとやりとりをしていました。私たち(元)信者の間でも、不思議な人物として強い印象が残っている人です。

教祖の寵愛を受け、医師として麻原の面倒をよくみていたようです。また、教団内の活動においても重要な仕事をまかされ、医療部で医療部長の立場で、附属病院の院長だった林郁夫の右腕として、かなり危ないことを平気でやっていたようです。

ワークといって、イニシエーション(秘儀伝授)など、オウム真理教の独自の修行があったのですが、いまから考えると、あきらかに違法行為だと思われるようなことを平然と行なう冷酷そうな姿が印象的でした。Bの名前を聞くと、まずそのことを思い出します。それにもかかわらず、彼はあの事件のときに逮捕されていないですよね。いままでずっと不思議だったのです」(事件後にオウムを脱会した元信者)

取材班はBの足取りを追った。そして、Aの場合と同じように、奇妙な事実に行きあたった。闇のなかにひっそりと身を潜める疑惑の男。

そのBにも、驚いたことに北朝鮮との接点が浮かび上がってきたのである。

彼ら「影の工作者」たちの背後には、なぜか共通して、金日成主義とチュチェ思想の影が濃く横たわっている。

北朝鮮系の病院に突然転職した

ここではまず、Bのプロフィールを追ってみよう。

Bは1962年生まれ、1988年に信州大学医学部を卒業し、N中央病院に勤務した。地元では共産党系の総合病院として有名だ。

「信州大の医学部からは、ほとんど勤める人はいないですね。悪く言えば給料は安いし、仕事はつらい。よく言えばマジメ。Bは中肉中背で、真面目なタイプの学生でした。大学では学部の空手部に入っていました。遊んでいるところは見たことがありません。本人は共産党員ではなかったと思いますね。当時、民青にいたら、盛んにビラ配りなんかしていたはずですが、Bがやっているところは見たことがありませんし」(大学の同窓生)

学生時代のBに、取り立てて変わったところはなかったようだ。ただ、他の学生があまり行きたがらない病院を選んだということぐらいだろうか。

BをN中央病院に誘った当時の関係者は、

「いい人でしたよ。誠実で真面目な方でした。純粋な医療を信条としている病院だから、選んでくれたのではないですか」

しかし、この病院との出会いが、Bをして政治や社会主義というものに目覚めさせたのかも知れない。Bは『赤旗』を購読するようになり、やがて共産党に対する批判も仲間内で口にするようになった。

Bは、この病院で奇妙な事件を起こす。当時、入院中だった難病の患者を、病院側に無断で転院させてしまったのだ。その紹介先が、東京・中野区のオウム真理教附属病院だった。オウム真理教内では「AHI」(アストラル・ホスピタル・インスティテユート)と呼ばれていた施設である。「温熟療法」と称して、50度もあるお湯に信者を入浴させ問題になったところだ。

BはN中央病院に勤めはじめた直後の1989年6月に、オウム真理教に入信していた。

N中央病院の事務局長は、この無断転院事件についてこう証言する。

「オウムだったなんて、誰も知りませんでしたよ。入院患者を連れ出してオウムに誘った事件を起こすまでは……。そのときは当時の院長が厳重注意をして一応残ってもらったんです。まだオウムがいろいろと事件を起こす前のことでしたし、危機感というか差し迫ったものがなかったですから……。でも本人がいづらくなったのでしょう。消えるように辞めていきました」

N中央病院を辞めたあとのBは、突然上京し、都内・足立区のN病院に再就職している。このN病院は北朝鮮系の病院として有名で、内科待合室の壁にはいまも「朝日親善」などと書かれた標語が掲げられている。

院長は高齢だが北朝鮮では有名人で、この人の名を冠した通りや病院が、ピョンヤンにつくられている。一説には金日成・金正日親子の医学的な相談役の立場にもあったのではないか、とされる。この夏にも北朝鮮を訪れ、8月下旬に帰国した時には、金正日の糖尿病治療にあたってきたのではないか、と噂された。

疑惑の「潜入工作員」Bは、このN病院に紹介者もなく突然あらわれて就職し、1992年6月から1994年3月まで約2年間、勤務していた。

前出のN中央病院の事務局では次のように語っている。

「普通だったら新しい病院から、身元や業績確認の連絡がうちに入るはずなんですが、それが一度もなかった。新卒を採用するわけでもなし、うちにいたときに事件を起こしているわけで、当然問い合わせがあると思っていたんですが、結局ありませんでした。B先生が履歴書で申告していないのか、病院側が尋ねていないのか、理由はいまでもわかりません」

しかし、さらに不思議なことは、当時すでにオウム真理教に入信していたBが、なぜオウム真理教の病院施設に行かずに、このN病院を選んだのか、ということである。

このことは、医師としてのBが、N中央病院では内科の医師であったのに、その後のオウムの病院施設では、心理療法や催眠療法、脳に電気ショックを与えるなどの治療法を積極的に取り入れている謎につながっていくかもしれない。

Bが行った違法行為の数々

疑惑の「工作員」Bの経歴をたどってきたが、このN病院を退職したあと、1994年4月には住民票を静岡県富士宮市のオウム本部に移動、オウム真理教附属病院医師として活発な活動をはじめる。

Bが教団医療施設で行っていたのは、主として「イニシエーション」と「スパイ・チェック」だったと言われている。

取材班はこの疑惑の人物Bに何度も接触を試みてきた。最近までBがいたと思われるオウム真理教の施設や、Bの自宅にも足をのばした。両親を通じて、取材の申し入れもしてきた。だが、最近になってオウム真理教を脱会したと伝えられるBの現在の足取りは、不思議なことに不明のままである。

しかし、私たちはその追跡取材の過程で、Bのことをよく知る元幹部信者に、話を聞くことができた。その証言の内容は衝撃的なものだった。

「オウム独自の修行の方法として、ワークというのがありました。ワークの内容は『スパイ・チェック』と『ニュー・ナルコ』(記憶の消去、改変)、それに薬物や音声テープを用いた各種の『イニシエーション』の実施などです」

――「スパイ・チェック」と’いうのは、文字どおり教団内部に潜入したスパイを探し出す方法と考えていいのですか。

「そうです。スパイ・チェックをするときは、チオペンタールなどの麻酔剤を信者に投与して半覚醒状態にした上で、いろいろな質問をくり返します。『麻原のことをどう思っているか』『教祖のことを、好きか、嫌いか』『おまえは修行以外の目的で教団に入信してきたのではないのか』などのいくつもの質問をくり返して、信者がスパイであるかどうかを確認するものです。教団はスパイの潜入を極端に恐れていました。なんでも、麻酔剤が作用している時に話しかけられると、人は嘘をつけないそうで、それを利用してのワークだということでした」

――「ニュー・ナルコ」というのは、どんなふうにやるのですか。

「ニュー・ナルコと呼ばれていたワークは、信者の記憶の消去や改変を行うためのものでした。信者の脳に人為的に電気ショックを与えて、教団にとって不都合な記憶を信考の脳から消したり、変えてしまったりするのです。やり方は拷問にも似たもので、たとえば、『あのとき私は殺害現場にいた』と、ある信者が言ったとすると、その患者にもう一度そのことを言わせて、すぐに電気ショックを与えるわけです。同じことを何度かくり返して、それでもその信者が同じことを言う場合には、与えるショックを次第に強いものに変えていきます。脳は最終的には、それ自体の防衛本能から電気ショックを受けた個所の記憶を封印してしまうか、あるいは、次には電気ショックを受けないような発言内容に変えてしまうわけです」

――そんなことを本当にオウムではやっていたのでしょうか。

「本当でした」

――イニシエーションとは?

「その頃に行われていたのは、LSDなどの薬物を使ったワークです。『修行するぞ、修行するぞ、修行するぞ……』という、永遠にくり返される文句を録音したテープを、一日中独房のなかで聞かされつづける類のワークを指します。同じ内容が表示されたパソコンのディスプレイを、一日中見せつづけるパターンのものもありました。つまり、視覚や聴覚に直接、訴えかけることで洗脳を完成させようというものです」

――まさに、洗脳ですね。

「そうです」

ちなみにここに語られている「スパイ・チェック」は、あきらかに医師法違反だし、「ニュー・ナルコ」と呼ばれている記憶の消去は、脳に障害を与えることで傷害罪にもなる。LSDを使ったイニシエーションも、麻薬取締法違反に該当することは言うまでもない。

子どもをあやすときだけは別人

証言はさらにつづく。

Bはそうしたことを医療行為として日常的に平然と行っていました。ときには、『自分だけは特別なんだ』と言わんばかりの傲慢さを見せながら行っていたのです。口数は少なく、無表情のままに、淡々と機械的にやっていました。細身でひょろっとした感じのBが、まったく笑いもせずに怒りもせず、感情を表に出さない表情のままで、一心にワークを行なっている姿は、いま思い出しても不気味そのものでした。

Bは林郁夫の逮捕後、1997年に長野県・木曽福島のアジトが設営されると、そこに移って今年の4月まで同じようなことをやっていたと聞いています。いまの教団ではBだけが医師としての有資格者で、医療部の実質的責任者をつとめていたようですから。薬物によるイニシエーションも引き続いてやっていたのではないでしょうか」

この元信考の話を聞いているだけで、何度か、身体に震えがきた。冷静にありのままの事実を聞こうと思っていても、頭のなかでは、つい、その情景を想像してしまうのだ。身も凍るような恐怖というのは、こういうことをいうのだろうか。話を聞いているうちに何度か鳥肌が立った。

そのBについて、しかし、この元信者は意外なBの側面も証言してくれた。

「彼は家族にだけは優しく、妻や子どもは大切にしていました。Bは特別待遇でしたから、医療部の入っている第6サティアンに個室が与えられており、そこに家族そろって住んでいたからです。信者には腹が立つことがあると、『死んでしまえ』『お前なんか生きている資格はない!』『人間じゃない!』などと、ねちねちいじめ続けて、独房修行を平然と強要するような人間でしたが、自分の子供をあやす姿は人が違ったようで、意外な感じがしてびっくりしたこともありました。

こうしたイニシエーションなどを指揮指導していたのは、Bと法皇官房の実質的トップだったIでした。現場には彼も必ず列席して、不測の事態に備えるという感じだったのだと思います。こうしたI-B-林郁夫のラインは、教団武装化をめざしていた早川-村井のラインとは別に、やはり教団内部の『宗教』とは無関係な、不透明な部分のひとつだったと思っています」

最近までBのいた長野県・木曽福島町のオウムの医療施設は、元旅館を教団が購入して改造したものである。木曽駒高原に隣接する別荘地の一角で、あたりは豊かな木々に囲まれている。

建物の外観は和風の和風の作りだが、鉄筋三階建て、総床面積約360平方メートル、敷地面積1370平方メートル。

昨年の夏に地元住民による立ち退き訴訟が提訴され、住民によるオウム真理教対策協議会ができている。

N病院の2年間で変貌したB

さて、いくつかのなぞが残る。

Bは、それまでの内科担当の医師から、どのようにして心理療法や催眠療法の技術を習得して信者の「イニシエーション」や「スパイ・チェック」を行うことになったのか。

あるいは、N中央病院からなんらの紹介状もなく、どのようにして都内のN病院に移籍することになったのか。

このなぞを解く鑓は、やはり都内のN病院にあるのではないだろうか。

そこに在籍した2年間は、ちょっとふう変わりで真面目な医師にすぎなかったBが、冷徹とも言える、オウム真理教の教団専属医師に変貌を遂げるのに必要なプロセス、必要な時聞と経験ではなかったのだろうか。

私は、Bの身近にいた元信者の恐怖に満ちた証言を聞きながら、肌が粟立ってはいたが、それらがけっして耳新しい話ではないことも、同時に気づいていた。まさに、そこで語られている洗脳の方法は、電気ショック法といい、薬物使用の方法といい、北朝鮮の洗脳技術と瓜ふたつのものだったからである。

北朝鮮ではこうした洗脳の方法を、朝鮮戦争以降に捕虜となった米兵にたいする洗脳、精神療法の方法として研究していた。これまで述べてきた、毒ガス兵器の研究と開発、細菌爆弾の研究と、実はまったく同じ軌道上にあるものだったのである。

ここで私は、新たな証言を付け加えておかねばならないのだが、この洗脳という人間精神の改造技術は、程度の差や技術の高低はあっても、実際に北朝鮮の工作組織で使用されているものである。私は、その一端を「よど号」のハイジャッカーたちのなかにも、一具体例として見出している。彼らが渡朝後の数年間、彼らがたびたび頭痛を訴えたり、体の不調を訴えたりしている例があるのだが、それらのなかには、どうしても薬物による副作用、あるいは後遺症としか思えない部分が存在しているようなのである。もっとも、彼らの誰も、そのことを信じようとはしないだろうが。

では、N病院でそうした研究がなされているのかと言えば、そうではないだろう。

ただ、この病院が時として北朝鮮の工作拠点だと噂されたり、疑惑の的になるにはそれなりの理由がある。

N病院では毎年、北朝鮮からの医学生を日本に留学させる研修制度を持っている。この制度にしたがって、北朝鮮から毎年、あるいは季節ごとに数名の医師、医学生が日本に研修にきている、という。彼らは日本で最新の医療技術を学ぶために訪れるのだが、北朝鮮本国ではすでに立派な医師であることが多い。同時に北朝鮮の特殊な洗脳技術を持ったプロフェッショナルでもある可能性も高い。また、これらの医学生のなかに、本当の工作員が紛れ込んでいないという保証はなにもないのである。

だとしたら、ふう変わりな医師Bが、冷徹な特殊医療技術をもった医師に変貌するのに、2年という歳月は十分すぎる時間であったろう。どうやら、このあたりが「潜入工作員」Bを誕生させる土壌だったのではあるまいか。

そしてBは、「工作員」として完成されて間もなく、オウム真理教に出家し、なぜか、麻原側近団のひとりとなった。彼がオウム真理教の医療施設でやっていたことは「スパイ・チェック」や「イニシエーション」の部門だった。ここにも北朝鮮と金日成主義の双子の姿を見ることはたやすいが、それにもまして、私に戦慄を誘うのは、「工作員」Bが麻原側近団のひとりとして、教祖・麻原に対しても心理療法、あるいは催眠療法などの「イニシエーション」を行える立場にあった、ということなのである。

(文申敬称略、以下次号)

■取材協力 時任兼作、今若孝夫、加藤康夫(ジャーナリスト)

(以上引用終わり)

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