拉致問題は十年前に「山田案」で解決していたと思っている

オピニオン・提言系
出典:産経新聞




みなさん、こんにちは。

この解決策の文書は、私が2007年10月に作成し、当時、北朝鮮による拉致問題を担当する関係各機関や各要人に配布したものです。

全体は新書一冊分にも相当する文章量です。日本向け1部・2部と、中国向け1部・2部があります。おそらく、拉致問題を本気で解決したいと願っているような人でなければ、とても付き合いきれないほどの長文です。

ですから、この「フリー座」には「日本向け1部」のみを載せます。それだけでも十分に趣旨やアイデアの骨子が分かる仕掛けになっているので、ご心配なく。

ただし、それでも長文なので、前半後半の二回に分けて掲載しました。とくに興味のない方は、どうかスルーしてください。

北朝鮮による日本人拉致問題を解決する「山田案」・前半
はじめに 1・拉致問題の解決策である「山田案」とは何か? 2・山田案は「国家百年の計」からスピンオフした解決策である 3・山田案には道理と戦略的利益がある 4・なぜ中国ならば拉致問題を解決することができるのか? 5・中国側と「悪魔の取引」を...
北朝鮮による日本人拉致問題を解決する「山田案」・後半
6・中国が対日急接近を始めた背景 7・ドアから顔をのぞかせた中国に対して見返りをケチるな 8・日中新時代をもたらす戦略的互恵外交・その1 9・日中新時代をもたらす戦略的互恵外交・その2 10・戦略的互恵外交は戦後レジームを終わらせる 6・中...

全部の文章は「あんときのエノキダケ」という別サイトに載せました。興味のある方は、ご覧下さい。ちなみに、「北朝鮮に核兵器を使わせることは十年前に決められていた」という記事の中で、「5・アメリカの対北政策の真の目的を考える」と題した文章を紹介しましたが、これは「日本向け2部」の中に含まれているものです。

北朝鮮に核兵器を使わせることは十年前に決められていた
さて、前回、1950年代の朝鮮戦争は、「影の政府」が「アチソンライン」を使ってわざと引き起こしたものだった、しかも将来の戦争の火種として取っておくために、トルーマン政権は勝てる戦いにわざと勝たなかった・・という話をした。 だから「開戦前の3...

言ったように、この時に、私はアメリカが北朝鮮の核開発を黙認したと感づきました。



「山田案」とはどのようなものか。簡単な解説

では、「日本向け1部」を掲載するにあたり、少し経緯を説明します。

2002年9月17日、小泉総理の電撃訪朝と、第1回日朝首脳会談があり、その席上、当時最高指導者の金正日が日本人拉致の事実を認め、謝罪しました。

ただ、自分たちの犯罪をしぶしぶ認めた北朝鮮は、今に至るまで拉致した人の大半を返そうとしません。一説によると、その人々は数百名とも言われます。

私は、北朝鮮に捕らわれている人々を、なんとか救いたいという一心から、「9・17」以降、拙いなりにも独自の方法を考えてきました。

で、思いついたのが下でした。いったん当サイトで記事にしています。

未遂に終わったある外交戦略(前半)
日本と中国、意外な過ちの原点とは? 以下に紹介する文書は、今からちょうど十年前に私が書いたものです。 (*2016年付記:これは、この記事を発表した2012年の、さらに10年も昔に書いたもの、という意味です) 内容は、日中関係の劇的な改善と...
未遂に終わったある外交戦略(後半)
(以下、本文後半) なぜ戦後賠償を行うことが日本の「国益」なのか では、そもそもなぜわれわれがこの期に及んで中国に対する戦争賠償を実行しなくてはならないのか? 一言でいうなら、国益に寄与する所が大だからである。それを以下に説明していく。 7...

「山田案」としておきますが、ベースになっているのが次の認識でした。

  • 第一に、拉致問題を解決する上でアメリカはあまり頼りにしないほうがいい。(私は早くからそう確信していましたが、正しかったことは周知の通りです)
  • 第二に、拉致問題を解決できる「第三者」がいるとすれば、それは北朝鮮の生殺与奪の権限を握っている中国に他ならないということ。(今の金正恩になってから中朝関係は半ば縁が切れましたが、金正日世代までは両国は「血の盟友」関係にあったんですね)
  • 第三に、その中国において、まさに胡錦濤政権が発足しようとしていた。それに伴い「派閥争い」が生じていた。しかも、政権発足後も、江沢民の上海閥が優勢だった。そのため胡錦濤政権は不安定であった。ここに付け入る隙がある。
  • 第四に、戦後、日本が中国に対して賠償金を支払わなかったことは、重大な過ちである。(記事に詳しいが)道徳的にも戦略的にも即急に正すことが望ましい。

以上の条件から、私は画期的ともいえるアイデアを閃きました。

それが「中国の内部闘争を利用して、北朝鮮の拉致問題を解決する」という方法です。具体的には、胡錦濤政権に対して、内々に次の提案をする形です。

「新日中条約を締結して、日本が中国に貸している数兆円の資金を、戦争賠償に充ててもよい。その代わり、日本のためになる幾つかの条件を実行してほしい」

そう持ちかけるわけです。そして、その中の一つに「拉致問題を解決する」という条件が含まれているというわけです。

当時の胡錦濤派閥からすれば、政権が誕生してすぐに「日本から戦争賠償を勝ち取った」となれば、国内的には大変な栄誉です。「毛沢東の過ち」を正した歴史的な功績になる。同時に、それは個人の名声ばかりでなく、上海閥との激しい権力闘争に勝つための切り札ともなる。だから、どんな手を使ってでも拉致問題を解決しようとするだろう。

つまり、これは中国に動機付けする策といえる。日本からすれば、自身の歴史的間違いを正すついでだし、中国が条件をクリアしなければ何も与えなくていいわけです。しかも、江沢民の異常な反日政策を180度ひっくり返す策ともなる。

根底には、この胡錦濤という人物は、軍歴もなく、華々しさのない地味な人物だが、「目立たない名君」に違いない、という私の洞察もありました。

胡錦濤氏は、あの胡耀邦氏の弟子だったんですね。

問題は「数兆円を中国にくれてやっていいのか?」ということですが、国内的には左派や朝日新聞が大賛成するはずなので、非常に説得しやすいでしょう。

で、上の記事にも記しましたが、名前は明かせませんが、ある官僚が動いてくれた。「総理に必ず進言します」と約束してくれた。しかし・・・ダメでした。

2007年、解決に向けた絶好の条件が揃っていた

さて、それから数年が経って、私はこの案を、もう一回、書き直して配布したわけです。しかも、配布先を日本側と中国側に分けました。

その理由は、あらゆる意味で絶好の条件が揃ったからです。

まず、中国の内政面では、胡錦濤氏が二期目を迎えるところでした。しかも、上海閥に対してやや優勢になったものの、依然として国内的な立場は弱かった。

胡氏の共産党総書記としての任期は「2002年11月15日~2012年11月15日」で、中国国家主席としての任期は「2003年3月15日~2013年3月14日」です。

で、ちょうどその中間に「政権二期目」のスタートが来ます。つまり、2007年11月に総書記二期目、2008年3月に主席二期目が始まります。

しかも、外部的にも、非常にタイミングが良かった。

まず日本ですが、06年9月に第一次安倍政権が誕生しましたが、一年後に彼は辞任しました。しかし、その間、日中関係は小泉時代とは打って変わって改善しました。07年4月に温家宝首相が来日し、日中は戦略的互恵関係の構築で一致をみました。

当時、安倍総理は「拉致問題の解決」に関して温家宝氏に協力を要請しましたが、リップサービスでしょうが、小泉時代よりははるかに協力に前向きな姿勢を見せました。

で、その安倍氏が辞任して、福田康夫氏が総理になった。彼は総裁選挙中に、拉致問題について、「私の手で解決したい。私を信頼し、応援してほしい」と明言した。まあ、結局、口先だけでしたが、それでも小泉時代よりは日中は親密になった。

対して、米中関係は急に悪化していました。

06年3月、ペンタゴンは中国を仮想敵国に定めました。毎年二桁の軍拡を行い、ロシアやイランやベネズエラなどの反米国家と連携していることが問題視されたわけです。ブッシュ大統領は当時の米中首脳会談で、とことん胡錦濤氏の面子を潰して、「米中二強時代」などありえないことを世界に示しました。

中国としては、日米の両方を敵に回せません。だから、逆に日本に対しては、友好的に振舞わねばならなくなったわけです。それが第一次安倍政権時代の「日中戦略的互恵関係」構想へと繋がっていった。福田時代に入ってもそれは継続された。

日本からすれば、ちょうどアメリカが日本人拉致問題を切り捨てた頃でした。ブッシュ政権はネオコンをいったん交代させ、国務省勢力を入れて、北朝鮮に対しては宥和政策へと切り替えました。結局、拉致問題の解決に関しては、日米関係はまったく役に立たなかったわけです。対イラク侵略戦争で、あそこまで忠義を尽くしたのに、この仕打ちというわけです。ちょうどその割を食ったのが安倍総理でした。

だから、私は何度でも言っておきます。「アメリカは共産中国やロシア以上に信用できない国だ」と。

そういうわけで、当時の安倍氏も中国への接近を始めた。で、今言ったように、中国もまた米中対立の激化で、日本への接近を始めた。つまり、日中が互いに接近を始めた。

そういう時期に新しく総理になったのが福田康夫氏だったわけです。

このように、一回目にも増して、好条件が揃っていた。だから、「私のアイデアならきっとうまくいく」と確信して、時機に合わせて新たに「拉致問題を完全解決する日中戦略的互恵外交」案というふうに練り直して、関係各機関・各人に配布しました。

で、この時、日本側に向けて配布したのが、「日本向け1部・2部」というわけです。この「フリー座」には、そのうちの「1部」のみを、前半・後半に分けて載せます。

国家の悠久の営みと歴史の流れを俯瞰できるか否か

私は当時、この案に基づいて福田政権が動いていれば、きっと拉致問題は解決していたと今でも信じている。そして日中関係は驚くほど好転していただろう。

しかし、正しいことを訴えたからと言って、それが世の中に通るとは限らない。絶好の機会にも関わらず、日本はそれを逃しました。まあ、“日本人”の大局観や戦略センスの無さと決め付けたら、言い過ぎだろうが、少なくとも自民党の政治家や外務官僚には期待するだけ無駄だということですな。冗談抜きで、「この時だけ」当時民主党が政権をとって鳩山サンが総理だったら良かったと思わないでもない(笑)。

みなさんは、拉致問題の解決策として、こういう独創的なアイデアも実在したという事実だけでも知っておいてほしい。ここに掲載し、後世の審判を待つ。

ちなみに、物事には「機」があります。これは当時の「時機」に合わせた策であって、今やっても有効とは限らないし、逆効果の可能性もある。

また、文書には今現在の私の考えとは必ずしも一致しない部分もある。

それにしても、当時、この策を完成させるのに費やした労力と時間は、馬鹿にならないものがありました。個人的には一文の得にもならないことを承知の上で。コピー代や郵送代などの経費が何万円もかかったと記憶しています。だが、「この方法ならばきっと拉致問題は解決できる」と信じてやったことだから、一ミリの悔いもない。

というわけで、こういう損なことばかりをやってきたわけですな、私は・・。

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